2019年4月3日、ベトナム、ホーチミン市にある統一会堂(とういつかいどう、ベトナム語: Hội trường Thống Nhất / 會場統一、英語:Reunification Palace)を訪れました。

1873年から1955年の呼称は「ノロドン宮殿」(ベトナム語: Dinh Norodom)、1955年から1975年の間は「独立宮殿」(ベトナム語: Dinh Độc Lập / 營獨立)、統一会堂となったのは1975年にベトナム戦争が終結し、1976年に、共産主義の統一国家であるベトナム社会主義共和国が成立した後です。

現在の建物は2代目で、ベトナム人建築家ゴー・ヴィエト・トゥ(1926-2000)による設計です。1966年に竣工しました。

「1966年に、南ベトナムの建築家のゴー・ヴィエト・トゥによる現代建築として再建され、ベトナム戦争終結まではベトナム共和国(南ベトナム)の大統領府及び官邸とされ使用された。最初に使用した大統領(供用当時の肩書は「国家指導評議会議長」。1967年9月3日に正式に大統領に就任した)はグエン・バン・チューで、その後計3代の大統領が使用した。

1975年4月8日には、北ベトナム軍が鹵獲したノースロップF-5戦闘機による爆撃を受けた。同年4月30日のベトナム戦争終結時に、サイゴン市内に突入した北ベトナム軍の戦車が当時は大統領府であったこの建物のフェンスを破り突入、南ベトナムの首都サイゴンは陥落した。その際の映像は「一つの国が消滅する瞬間」として全世界に配信され有名となった。現在でも、その当時のソ連製の戦車が敷地内で展示されている。」(Wikipedia 「統一会堂」より引用)

1955年~75年の20年以上に及んだベトナム戦争は、この建物に、北ベトナムの戦車が突入することで実質的に終結したのです。(サイゴン陥落)

平和な今のベトナムの様子からは想像できませんが、歴史の重みを感じさせるような建物です。

現在は南ベトナム大統領府当時のままで保存され、事実上の博物館として有料で一般公開されているほか、建物内の一部の部屋は国際会議などで使用されています。

ゴー・ヴィエト・トゥは、フランスのエコール・デ・ボザールに学び、ベトナム人として初めてかつ唯一のローマ大賞を受賞した建築家です。

ローマ大賞は1663年創設され、当初は建築、絵画、彫刻、版画の各賞が設けられ、王立アカデミーの審査により優秀者が選出されていました。1720年からは建築部門の学生を毎年1名ずつローマに派遣する原則が定着しました。

「フランスの建築においてローマ大賞の制度は、旧制度下の王立建築アカデミーの時代にすでにある程度は確立され、1720年から建築部門の学生を毎年1名ずつローマに派遣する原則を出来上がらせた。ただし当初はアカデミーが審査する大賞の順位より、国王の下に置かれた王室建設総監のほうが決定力を持ち、そのためときに実際の大賞受賞者以外の人物がローマに留学していたこともあった。 その後、建築アカデミーの権威が確立し、それとともに、ローマ大賞は一種の絶対的価値を持つものと一般に理解されてくる。」

「一度ローマ大賞を得れば、基本的には将来公共部門の大建築を委託され、またボザールのアトリエ・パトロンの道が開け、当然アカデミー会員に選ばれる可能性もある。そのため、学生達はこの大賞獲得のために執念を燃やした。1826年に受賞するレオン・ヴォードワイエは5年間、この設計競技を続け、トニー・ガルニエは6年、ジャン=ルイ・パスカルは7年。エドモン=ジャン・ポーランはじつに8年間も、設計競技に挑んだといわれる。大賞受賞者の年齢もしたがってかなり高く、ほぼ30歳に近かった。規定により大賞応募資格は15歳から30歳までとなっており、この年齢を25歳にまで引き下げた1863年の大改革は、学生の反対を呼んだ。なお逆に初期のアンリ・ラブルースト、ルイ・デュグ達は23歳で大賞に輝き、ネオ・グレコの運動を起こし、またシャルル・ガルニエも23歳で大賞受賞で、周囲の人々の期待を一身に受けたという。」

「ローマ大賞を獲得すると、ローマのフランス・アカデミー(Académie de France à Rome、通称:ヴィラ・メディチ) に派遣される。王立アカデミー時代は3年の留学期間だったが、エコール・デ・ポザール設立とともに5年に引き上げられた。1863年の改革では、いったん4年間となったが、のちに5年間となる。フランス・アカデミーは、第一次、第二次大戦の時期を除いて毎年留学生を受け入れ、ローマ大賞のなくなった今日でも存続している。近代的な交通機関の整備されていなかった19世紀半ばまでは、ローマに行けるということ自体、きわめて価値あることであった。むろん、19世紀末になって、イタリア旅行がいともたやすくできるようになってきても、5年間の日々を国の費用で古典建築研究に費すことのできる留学生の立場は代々人々を圧倒的に凌いでいた。」(以上「」内はWikipedia 「ローマ賞」より引用)

ベトナムにこのような立派な建築家がいたことを私はここを訪れるまで知りませんでした。ゴー・ヴィエト・トゥはベトナム近代建築の父とでも呼べる人なのではないでしょうか?

エントランス
エントランス・ポーチ
エントランスホールにある大階段

外気が吹き抜ける、縁側のような空間が外周部に巡らされている

建物の説明です
Grand oasis room on 1st floor.
慶節室(カンファレンスルーム)は現在でも首脳会談などに使われる
1975年11月21日の、南北の代表者による、国家再統一に関する合意書への調印式の様子
Cabinet meeting room on 1st floor. 内閣の会議室
右手に大統領のレセプションルーム
廊下は縦軸回転窓で自然通風がとれる。ルーバー越しの柔らかい回折光が入ってくる。
Reception room of the President on the 2nd floor. 2階の大統領応接室
The National Assembly room is on the 2nd floor 2階の国書提出室
同上
中庭 縁側とともにベトナムらしい中間領域のつくりかたが見られる
大小多くの会議室がある。会議室等の部屋は、直接外部に接することなく、縁側のような廊下を介して光や風を採り入れるようになっている。
ゲストルーム?
台湾から贈られた龍と鳳凰のカーペット。龍と鳳凰は「権力の象徴」を意味しているという。

建物の平面形状はT字型
外観を特徴づけている彫刻のようなルーバーは、内部でも存在感を放っている
出入口の上部に設えられた彫刻

エントランスホールから前庭をみる

最初は少し奇異な印象を受けたが、巡るうちに、フランス仕込みのプロポーションやディテールの確かさと、ベトナムらしさが共存しているのがわかってきた。

フランスで西洋建築を学び、植民地からきた留学生ながら、全建築学生の最高位のローマ大賞を受賞した経験をもつベトナム人建築家が、祖国に戻りその風土に根差した建築を実現しようとした苦闘の後を、全体構成からディテールに至るまで、あらゆる面で感じとることができました。ベトナムを私が訪れたのは今回が初めてで、くまなくこの国の建築を見たわけではないのですが、ベトナムの近代建築はきっとここから始まったのではないかと直感しました。そこでゴー・ヴィエト・トゥが提起した問題意識を現代ベトナムの建築家は共有しつつ、自分なりの答えを見い出そうと、それぞれに独自の挑戦をしているのではないかと、今回のベトナム訪問を通じて思いました。

この建物を訪れたのは4月3日、この日、西澤さんの自宅兼アトリエやいくつかの建物を見て、翌4日、ダナン、ホイアン、5日にハノイで建物等を見学しました。ベトナムの旅は続きます。

統一会堂のオフィシャル・ウェブサイト