ずいぶん間があいてしまいましたが、昨年訪れた、ニューヨークのメトロポリタン美術館の続きです。(昨年11月22日の投稿以来)

メトロポリタン美術館は、ニューヨークのセントラルパークを拠点に1880年開館した私設の美術館です。ヨーロッパには何世紀にもわたり王室の庇護により美術館が成り立っていましたが、今から150年ほど前の、19世紀後半のアメリカ合衆国にはそのような美術館はなく、1866年著名なアメリカ人弁護士ジョン・ジェイ氏は、アメリカ独自の美術館の必要性を宣言しました。その4年後にメトロポリタン美術館は設立され、さらに10年後に開館します。日本の暦では明治14年、その翌年には岡倉天心とフェノロサが日本美術を調査し始めたころです。意外とアメリカの美術や美術館の歴史は浅いのですね。

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メトロポリタン美術館 外観 2015年9月

南北戦争(1861~65)の終結の翌年に美術館設立宣言されたといえば、何となくその時代のアメリカの状況はわかります。そもそも米国の建国が1776年ですから、アメリカ合衆国という国家は、日本や中国、ヨーロッパの国々等に比べ、非常に若い国だということをあらためて認識させられます。そのためか、いまだに何かを求めて社会自体が活発に動き続けているという雰囲気は、最近の大統領予備選挙などを見ても感じられますね。

ちなみに、南北戦争が終わったあと、そこで使われたり余剰に生産された中古小銃器が大量に日本に輸入され、戊辰戦争(1868~69)で兵器として使われています。なんでもフランス経由で幕府軍に、イギリス経由で新政府軍に売られたとか。直接では一方にしか売れないが、一度他国を経由して取引すれば両方に売れると・・・。

「坂本龍馬は欧州の武器商人と薩長を仲介し利を得ていたエージェントだった」、「戊辰戦争自体が欧米の「死の商人」たちが兵器を大量消費させようと画策したために、大政奉還後であったにも関わらず開戦へと導かれ、落とす必要のなかった多くの命が奪われた」、「いや、この近代的な兵器の使用によって戦争が早期に終結したため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた」など諸説あるようですが、アメリカ人同士が主に奴隷制の是非を巡って対立し戦った武器のおさがりを、太平洋の向こうで日本人同士が手にして、幕藩体制の存続を巡って二手に分かれて殺しあっていたとは、不思議であると当時に、切ない気持ちになりますね。

いつの時代も日本と世界は切れ目なくつながっているということや、ものごとの裏を見通す力の大切さについて、こんなきっかけからも考えさせられます。

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メトロポリタン美術館 エントランスホール (2015年9月) 宗教空間のような荘厳さ。 入場料は推奨額が提示されているが自分で決めてよい。

 

さて、メトロポリタン美術館には、古今東西、ありとあらゆる分野の優れた美術品が収められています。何もないところから、一世紀半かけて、世界一の百科事典的美術館へと大きく発展しました。今ではニューヨークには多くの美術館が存在し、世界有数の美術の集積地になっています。

近代美術のコレクションも素晴らしいものがあります。

今回は、日本でも2014年に、東京都美術館と京都市美術館で大規模な回顧展の開かれた、バルテュス(1908-2001)の作品から。

メトロポリタン美術館には彼の20代の代表作が展示されています。

バルテュスは、ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめた画家。ポーランド貴族の血を引く名家の次男。本名バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ。ポーランド人の美術史家の父と画家の母の間にパリで生まれる。兄はニーチェやマルキ・ド・サドの研究者としても知られる、思想家・作家・画家のピエール・クロソフスキー。

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バルテュス 2014年の日本での回顧展の図録より

バルテュス6歳の時に両親が別居、母と恋仲になったリルケには実の子供のようにかわいがられました。幼いころから絵の才能があり、誇張なしに神童といってもよいほどでしたが、両親は画家のピエール・ボナールなど友人たちの助言に従い彼を画学校に通わせず、巨匠の模写をさせました。ルーブル美術館に3か月通ってニコラ・プッサンの模写をしたり、さらにはフィレンツェでマザッチョの絵を臨模したという逸話が残っています。

22歳の時、15か月間モロッコで兵役に就きます。「モロッコの光が、私から印象派的なものの見方を一掃してくれた」とバルテュスは語っています。パリにもどってきてお金に困っていたバルテュスは、スキャンダラスな初個展で、一躍画壇に名を馳せることになります。「あの頃パリで有名になる唯一の方法はスキャンダルでした。」と本人がのちに語っています。

1935年、27歳のバルテュスは、パリ6区のフュルスタンベール街の屋根裏からクール・ド・ロアンに引っ越し、そこで一人の少女と出会うのですが、その少女をモデルにした絵が、今でも彼の代表作になっています。

彼は生涯を通して、少女をモデルにした絵画を描き続けましたが、バルテュスは自らを「宗教画家である」といっていました。「少女好みなのに宗教画家とは?」と思われるかもしれませんが、主題の表層性とはうらはらに、堅牢な画面構成、シンボリックな人体造形、光を色彩に置き換える深みのある顔料の扱い、いずれをとっても、バルテュスはヨーロッパ絵画の王道を実践する画家であるといわれています。

「光は神の恵みであり、少女たちは天使なのです。」(バルテュスの言葉)

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バルテュス 『テレーズ』 1938 テレーズ・ブランシャールは、バルテュスの住んでいたパリ・クール・ド・ロアンの隣人の失業者の娘。バルテュスの記念すべき少女モデル第一号。

後年、バルテュスはこのように語ったそうです。「現代美術と称することをしているのは大半は愚か者で、絵について何も知らない芸術家である。」

その一方で自身の絵に関しては「儀式のように畏怖の念をもってのぞまなければなりません」とおだやかに言いました。

近現代の美術を唾棄し、初期ルネサンスの宗教画を理想として仰ぐこと-この極端な態度は彼の作品のみならず、生活態度にも表れていました。

すなわち、スイスの山間に建つ巨大な山荘で日がな一日光を観察しながら、作品に一筆加えて一日を終えるといった暮らし-がそれにあたります。このイメージは(おそらくは本人も予期せぬ形で)ヨーロッパ絵画の守護者たる「バルテュス」像をつくりあげることになりました。

メトロポリタンの彼の作品は、まだ、彼の名が世間にそれほど知られておらず、ましてやヨーロッパ絵画の守護者などとは目されていなかった頃のものです。しかし、これらはすべて、生涯を通じての彼の代表作といってもいいものでしょう。

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バルテュス 『山(夏)』 1937 24歳のバルテュスは、スイス、ベルン地方の名家の令嬢、アントワネット・ド・ワトヴィルに夢中になったが、彼女にはすでに外交官の婚約者がいた。傷心のバルテュスは絵に没頭し初個展をパリで開き有名になる。初個展の数か月後には彼女のために自殺未遂騒動まで起こす。その騒動でアントワネットの心が動いたのかは定かでないが、29歳の時に6年越しの恋を実らせ、ベルンで二人は結婚する。その年に描かれたのがこの作品。両手を空に突き上げて伸びをするのが新妻、右上隅の後ろ姿の人物が画家の自画像だといわれている。不自然な姿勢のまま静止し、互いに視線の合わない人物像はいかにもバルテュスらしいが、バルテュスの絵にはめずらしく、一種の解放感や喜びなどの快活さが感じられる。積年の思い人を手に入れた喜びが込められているのかもしれない。伸びをする新妻の前で横たわる女性(17歳の時に模写したニコラ・プッサンの『エコーとナルキッソス』の中の横臥するナルキッソスから来ているという)や、崖の向こうを指さす男女は何を暗示しているのだろうか?バルテュス夫妻は2児をもうけるも1946年に別居、20年別居したのちに1966年離婚している。1962年来日の際に当時上智大学フランス語科の学生だった出田節子さんと知り合い、5年後の1967年に結婚。二人の間には娘でありジュエリー・デザイナーのハルミ・クロソフスカ=ド=ローラがいる。

 

バルテュスの生前、彼の意向で、節子夫人は和服で通したそうです。まだ結婚する前は当時洋服を着た溌剌とした人だった節子さんは「なぜ日本独自のあの素晴らしい着物を着ないのですか!」とバルテュスに問われ、結婚後、ローマ時代にはいつも着るようになったそうです。

お客様をおもてなしする時も着物だったので、日本のことをよく尋ねられたといいます。一緒になったバルテュスも翻訳された東洋の古典をよく読んでおり、節子さんは彼から時折飛んでくる質問に答えるためもあって、結婚後に日本の古典をキチンと勉強したとか。結婚生活の中で、バルテュス自身の美の観点が、節子さんが生まれ育ってきた日本の文化、特に茶道の精神に相通じるものがあることをつくづく感じるようになったそうです。

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バルテュス 『ピエール・マティスの肖像』 1938 画家アンリ・マティスの子息で、バルテュスの画商となった人物で、1931年にニューヨークで画廊を開いた。彼は、1934年のバルテュスの最初の個展の直後に、まだ画廊に残っていた作品に感銘を受けた。スキャンダルを起こしたものの、金銭的な成功を収めたとはいいがたいこの個展以降、ピエール・マティスはバルテュスの最初の理解者となる。バルテュスが契約書に最初にサインした1938年には、ニューヨークのピエール・マティス画廊で、アメリカで最初の展覧会が開かれた。ピエールにとっては、ミロ、カルダーに続いて、三人目に契約を結んだ画家となる。ピエール・マティスはアメリカにおける、バルテュスの唯一の画商として、生涯にわたってアメリカにおけるバルテュスの認知に貢献し続けた。この肖像画は、1937年夏にピエールが、バルテュスを何度も訪問した際に製作されたものである。ヨーロッパ美術をアメリカに紹介する重要な窓口であったピエール・マティスは、その他にもドラン、ルオー、レジェ、マッソン、タンギー、シャガール、ジャコメッティらの作品を展示している。

 

 

 

 

 

 

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『ミツ』の40枚のうちの一枚。(回顧展図録より)

バルテュスは不思議と日本に縁があり、東洋に対するあこがれを幼いころからもっていました。例えば、岡倉天心の『茶の本』を読んだり、能を見に行ったり、日本文化に強く惹かれていたといいます。子どものころに飼っていた猫の名はミツ。日本語の「光」または「秘密」を意味するという。彼がこの名を知ったのは、日本の書物などではなく、1919年にコレットが発表した連載小説『踊り子ミツ』からだと言われています。

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『ミツ』 バルテュスによる40枚の絵 ライナー・マリア・リルケの序文 1921年 (回顧展図録より)

『ミツ バルテュスによる四十枚の絵』はバルテュスが13歳の時に刊行された本であり、画家にとって最初で最後の絵本です。四十枚の猫の絵を見た詩人リルケはすっかり気に入り、出版社を見つけた上、序文まで書いてあげたといいます。リルケが『ミツ』にとりわけ感心したのは、そこに猫族の生態が如実に表現されていたからだといいます。実はこれが大画家のみずみずしいデビュー作でした。

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バルテュス 代表作の一つ 『夢見るテレーズ』 1938 ここにも猫が描かれている。モデルは上述の、隣人の娘テレーズ・ブランシャールで、最初の少女モデルである。1936~39年にかけて、単独で8回、兄ユベールとともに3回描かれている。テレーズには、第二次世界大戦の軍靴の響きが迫りくる暗い世相を反映したような憂鬱な雰囲気があり、それがバルテュスを惹きつけた。少女から大人への過渡期の少し危うげな微妙さを描きながら、時が止まったような静謐さをたたえている。画面は、アクセントとして巧みに配された赤、緑、白の差し色以外は抑制された茶系のニュアンスに富む色調で統一されており、机に掛けられた白い布のドレイバリー(衣紋)はポール・セザンヌの静物画も想起させる。テレーズは、第二次世界大戦後25歳の若さで早世した。

 

1953年バルテュスは、パリから南東へ300kmのシャシーという小さな村の古い城館に移り住みますが、1961年にローマのアカデミー・ド・フランスの館長に就任し、フランスを離れます。

ローマではヴィラ・メディチの修復に、画業を犠牲にしてまでも精魂を込めてとりくんだそうです。

1977年スイスの古城グラン・シャレ(1754年に建てられた同国に現存する最大の木造建築。大きな山小屋という意味)を終の棲家とし、節子夫人と晩年までここで過ごしました。

ローマで、シロッコという砂漠からの風で健康を害したバルテュスは、ある時節子夫人とたまたまスイス・ロシニエールの村を通りかかり、当時はホテルとして営業されていたこの建物と出会いました。お茶を飲みに入ったのですが、その途端節子さんは「この家がいいわ!」と直感的に言ってしまいました。

持ち主に聞くと売りに出しているのだが、買い手がついておらず困っていたということで、節子さんの勘で即座に買うと決めたのだそうです。その費用は画商から融通してもらい、バルテュスが5点ほど絵を描いてお返ししたとか。バルテュスはここでの暮らしがたいへん気に入っていました。

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グラン・シャレ (美術手帖 2014年5月号より)

「山奥の古城でひっそりと暮らす祭司たるプリミティブ画家」こうした虚像はバルテュスを有名にし、画家としての神秘性を高めることとなりました。

ここでの儀式のように絵画に向き合う生活を続けたまま、2001年、92歳でこの世を去りました。

 

バルテュスの評価が高まり始めた時代、テートギャラリーでの回顧展のカタログに、画家は次のような言葉を記すように指示したといいます。

「バルテュスは何も知られていない画家である。いまそんな彼の絵を見ることができる。」

 

西洋の印象派の画家たちが、日本の浮世絵から大きな刺激と影響を受けたことはよく知られていますが、ポーランド貴族の血を引き、ヨーロッパ絵画の正統を受け継ぐ天才画家の生涯には、極東の地・日本へのあこがれと、一人の日本人女性の存在がこれほど大きく関わっていたことは、実に不思議な巡り合わせと言わざるをえません。

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節子夫人とバルテュス(「とんぼの本」の裏表紙より)

「抽象的な意味ですけど、バルテュスと結婚することによって、私は日本と結婚したのかもしれませんね。自分が日本人であるという深い意識に目覚めさせられたことは、バルテュスから受けた影響のひとつです。そしてなによりも、私の人生そのものがバルテュスによって描かれたようなものです。私の人生を一緒につくってくれたというよりも、彼がつくってくれて、一幅の絵になったかのような人生ですね。」(『PRESIDENT Style』 のインタビュー記事での節子夫人の言葉)

バルテュスとの結婚を、笑いながら、「結局のところ、誘拐されたようだった」と懐かしそうに振り返った節子夫人は、今も、生前のままに残されたバルテュスのアトリエのある、グラン・シャレで暮らしているそうです。

(参考文献:美術手帖2014年5月号『バルテュス』、『バルテュスの優雅な生活』(とんぼの本:新潮社)、ユリイカ2014年4月号『バルテュス』、バルテュス展図録(2014年))