1月11日、六本木ヒルズの森美術館で開かれている、「村上隆の五百羅漢図展」に行ってきました。
開幕当初から話題になっている展覧会です。2012年にカタールのドーハでお披露目された、全長100m及ぶ「五百羅漢図」と、それ以降に制作された最新作が展示されています。
明後日、1月31日、NHKの日曜美術館で特集されるらしいですね。世界で闘う日本美とは 村上隆×井浦新
この番組で、ご本人からいろいろなお話が伺えると思いますが、会場の様子などを含めてご紹介しておこうと思います。
I went to the exhibition ” Takashi Murakami The 500 Arhats” at Mori Museum of Art in Roppongi Hills, Tokyo, Japan. The central work of this exhibition is ” The 500 Arhats” which was originally drawn for the exhibition in Doha, Qatar in 2012. The size of the drawing is 3m(hight)×100m(width)!
村上隆は1962年生まれの現代美術家。高校卒業後、一度はアニメーターを志しますが、東京芸大日本画科に入学、1991年に現代美術家としてデビューしました。その後は、日本よりもむしろ海外で高い評価を受けており、2003年にはルイ・ヴィトンとコラボ、2010年にはパリのヴェルサイユ宮殿で個展を行うなど、華々しい活躍を見せています。
一方、いままで日本国内での評価は、必ずしも高いとはいえず、村上自身も日本市場を敬遠していたようなふしがあります。
今回の《五百羅漢図》を見ると、カタールからの依頼と、東日本大震災という偶然の出来事がきっかけとなったとはいえ、これまでの村上のさまざまな活動は、結果的に、この作品を描き上げるための準備だったのだなとさえ思えてきます。
意外にも、2001年に東京都現代美術館で行われて以来、実に14年ぶりの個展であるといいます。
2001年当時ですら「村上隆が東京に帰ってきた」と担当学芸員が記していたそうです。
「それは1990年代後半の村上の活動が、日本ではなく欧米を見ていたという象徴的な意味からであった。しかし今回の「リターン(回帰)」は、近年の作品を国内で実際に目にする機会がほとんどなかったことだけでなく、より重層的な意味を持つように思える。現在、村上隆の作品制作以外の活動が欧米を中心とする海外であることは、以前にも増して顕著になっている。作品の大半は海外の美術館やコレクターの手にわたり、残念ながら、村上の作品市場は、日本には存在しないといっても過言ではない。(中略)こうして作品は世界中に分散され、高額の作品群を日本に集めて展覧会を開くこと自体がますます困難になりつつあるわけだが、今回その開催を可能にしたのが絵画史上最大級の作品といえるであろう《五百羅漢図》の日本への里帰り(リターン)である。」
「東日本大震災後に制作された本作は、いち早く支援の手を差し延べてくれたカタールへの感謝の気持ちを込めて、2012年に同国で展示するために完成を待たずして海を渡ったものである。(中略)そもそも日本での個展に積極的ではない村上が今回の開催を決めた理由は、本作の展示が可能になったことが大きい。(中略)日本においては自身の考える国際的な意味での現代美術は存在せず、ゆえに村上芸術も不必要と考える村上にとって、日本の美術館での個展開催は矛盾する行為である。(中略)では、今、日本で村上の《五百羅漢図》を見せるということは、どういう意味を持つのだろうか。」 (上の二つのカギカッコ内は図録の『村上隆の五百羅漢図:回帰と新生』(三木あき子)からの引用。)
『芸術新潮2015年11月号』での安藤忠雄先生との対談を読むと、
「カタールの展覧会の成り立ちがものすごくて。展覧会をやりたい、というので、カタールのドーハに行ったんです。そしたら、小さなギャラリースペースがあって、そこでやってくれと。ブルックリンミュージアムでの僕の個展©MURAKAMIを観てくれてオファーしてきてくれたのに、規模が小さすぎませんか?と言うと、じゃあ、コンベンションセンターではどうかと言われ、いやいや、それはノンスケールすぎるので、というと、じゃあどれくらいが良いのか言ってくれ、と言われ、LA MOCAのゲフィンセンターの大きさを提出してみたんです。そしたら、その大きさの建造物を僕の個展に合わせて造ってくれちゃったんです。だったら、僕も何かとんでもないものを造らないとマズイと思い、で、100メートルという単位を思いついたんです。だって、何もないところから、突然美術館の箱、造ってしまうっていう驚愕体験を僕もアーティスト側から主催者に返杯したいって思ったんですよ。」という裏話をご本人が語られています。
これもかなりの大作。
壁面が足りず、90度折れて、ここまで一つの作品です。
『芸術新潮』の連載で、美術史家・辻惟雄(のぶお)氏のお題に応える形でつくられた作品もいくつか展示されている。この「絵合せ」二十一番勝負で見出された新境地もあるのでは?
辻惟雄氏は以前この日記で紹介したMIHO MUSEUM の館長を務められています。
ここから先がいよいよ、《五百羅漢図》の展示となります。
《五百羅漢図》は4つのパート「白虎」「青竜」「玄武」「朱雀」からなっています。
それぞれ高さ3m×幅25mあり、合計の長さは100mにもなる大作です。
村上さんはもともとアニメーター志望だったということもあり、今回の作品制作のプロセスは、スタジオ・ジブリなどのアニメ・スタジオが、一人の監督のもと、長編アニメを限られた時間の中でつくるようすとよく似ています。
こんな巨大な作品をどんな風にしてつくったのかと考えながら鑑賞していたのですが、途中、ビデオモニターで、制作のプロセスが紹介されていて、すこし謎がとけました。(以下、制作プロセスの解説は、展覧会の図録を参照しています。)
村上隆の拠点、カイカイキキの巨大なスタジオは埼玉県三芳にあります。全国の美術大学から制作を手伝う学生を募集しました。
スタジオの朝は全員でのラジオ体操で始まり、ホワイトボードに村上自身がその日の作業予定を貼り出し説明するそうです。
村上は自身の工房システムを20年かけて培ってきたといいます。
《五百羅漢図》制作には、200人以上がかかわったそうです。
村上は以前は、美大独特のエゴの大きさとの関わり方が難しく、美大出身者をスタッフに加えることを拒んだが、今回、短期間での超大作の制作には、すでに腕に技術のある人間が必要で、実技重視の日本の美大の「完全な詰込み型の教育方式」に浸かった人員を、あえてスタッフィングすることにしたといいます。
作業スペースの総面積は9000㎡。「世界一巨大な絵画工房」として24時間体制で稼働しています。
村上隆の制作スタジオは、「日本式の町工場」という設定で運営されています。それは村上の哲学でもあります。工場を英語に置き換えるとfactory(ファクトリー)となり、故に、アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」と対比されることが多い。しかし、村上はスタジオを芸術家の孤城からクリエイティブな社交場に転換したウォーホルの「ファクトリー」のようなきらびやかさを持つものとしては考えていない。ここは、戦後の貧しさの中から、技術だけを頼りに復興していった、社会の縁の下の力持ち的な文脈としての「町工場」なのです。
フォード社の巨大なリバー・ルージュ工場やトヨタ生産方式とも大げさに比較され、多くのジャーナリストやクリエーターが、村上の精緻かつ複雑な作品が生み出される現場を一目見ようと、東京から遠く離れた埼玉県三芳のスタジオを訪れますが、あくまでも手作りの「町工場」の域を出ていません。
村上の絵画制作の過程でしばしば特筆されるものに、画像編集ソフトを使った綿密な下絵作業がある。村上の手書きスケッチをもとにベクタ方式の画像を作成し、納得いくまで修正を繰り返して完璧な下絵を作っていく作業だ。《五百羅漢図》以降は、この下絵作業に加え、作品を描くのと同時進行でPCのスクリーン上で新しい下図が合成され、実際の画面に描き足されるという工程が新たに導入された。
大勢のアシスタントによる分業やマニュアルによる管理は、カイカイキキ・スタジオを、システマチックに作品を生み出す能率重視の無機的な工場のように印象づけるかもしれない。しかし実際には、工程を徹底的に効率化することで、さらに手を加え細部まで労力をかけたいという意思の賜物であろう。
《五百羅漢図》では、膨大な資料調査とした下図制作の過程も重要な役割を果たした。100m絵画の主題として、五百羅漢を選ぶきっかけとなった狩野一信の《五百羅漢図》など、現存する羅漢に関する作品を調べ、袈裟の模様や装飾品に関する勉強会が開かれた。
さらに、村上とアシスタントによる1000枚以上のドローイングには、それまでの村上作品に特徴的だった可愛らしさとは異なる、羅漢一人ひとりの、老いた癖のある形相や特徴が描き出されている。
村上は《五百羅漢図》の制作を振り返り、震災をきっかけに「僕の本音が言えるようになったのではないか」と語る。個人の意思などお構いなしに訪れる「理不尽」な現実に対して、芸術家として信念を貫くこと。
《五百羅漢図》には、「世の中をなんとか変えていかなきゃいけない」という使命感をもって制作に取り組んだ村上と総勢200人以上の思いや感性が生み出した、圧倒的な熱量が込められている。
長沢芦雪の虫眼鏡で見ないと見えないような《方寸五百羅漢図》 (約3cm四方に描かれた羅漢や動物の微細な描写で表わしたもの)の展示もありました。
《馬鹿》は、現代日本美術界への痛烈な批判が込められた作品。
「自分は48歳になりました。29歳の時に焦ってデヴューして気がつくと20年も経っています。美術家になってしまったのはアニメーター漫画家になれなかったため別の職業訓練として芸術家になる日々を東京芸大の日本画科内ですごしました。マンガ絵が描けない焦りから芸術大学というくらいなんで芸術とやらを修得しないとメシが食えないと思い芸術を勉強することにして20年前のBTをしっかり読まなくっちゃと読んで読んでバックナンバーも図書館で読んで中村信夫さんの「少年アート」とか藤枝晃雄の「現代美術の展開」をいつもカバンの中に入れてわかったようなわからんような現代美術を勉強しはじめました。芸術とは何か?と学生時代自問自答した際に「自力で整理しきれない美術」と思ったので現代美術を学んだのです。ムツカシクて現実社会を遊離したものそれが当時のトレンド日本の現代美術の流行でした。椹木野衣さんとか楠見清さんがBTの編集でガンバっててヤノベケンジさんとかドカ~ンとデヴューして来て、ムツカシイアートは一瞬四散していったようにも見えました。白石正美さんや三潴さんも小さなスペースでこじんまりギャラリーをはじめてたような時代です。小山登美夫さんもでっちでしたしレントゲンの登場とか全然現代美術しらない茶道具屋の息子の池内務さんとかも出て来て僕もあれこれてきとーなことを言って青井和子さんの青井画廊でデビューして飲み屋をコワしたりして暴れてました。なので今の日本の現代美術界は当時と比べると華々しく素敵でたくさんのプレーヤー達がうごめいてます。なので沢山の若者が当時の僕と同じように小さな夢とザセツと不能を感じながらこの世界に入って来ます。でもなんか僕はこの日本の現代美術界が嫌いです。作品も若い連中の進化が全くみられない。僕の学生だった頃の構造不勉強を盾にしたひぼう中傷がいまだにばっこしていて世界に飛び出せるだけの作品をつくってる作家の少なさそして理解力の弱さに憤る日々です。作品を造る作家をどのようにトレーニングしてゆくか?スポーツ人体工学のようにもしくは高山にこもっての僧侶の修行のようにおのれを発見し鍛錬せねばなりません。自らの恥を知り節度を学び社会内での自覚を知らねばならないのに甘えと無責任と不勉強とバカの温床地なママなのが日本現代美術業界です。バカならバカなりの身の程を知ればいいのにいろんなとこで言ってることですが日本の美大での現代美術教育の情報源ってこの美術手帖の小さなコラム程度だろうし原書に目を通しても全然いないと思うのです。芸術な対話を促進させるコミュニケーションツールの極致です。極致なのです!日本の現代美術界は僕が知りはじめた頃の20年前からかわれなかった。美術大学という産業の喰い者となった学生達がその構造に気がつき絶望したり自らが先生の立場となって弱肉強食の食物連鎖のTOPに立とうとして来たただそれだけのための構造悪によって変化できなかったのです。僕はそういう日本美術大学十現代美術業界をケイハツし1人でも良質なアーチストを世界に出したいと思うのです。 ― 村上隆 」
「本作《五百羅漢図》)について、(中略) 「ムラカミ・ゲルニカ」と呼ぶ声がある。村上の絵は惨劇を世界に伝えるものではないが、作品を通して歴史を後世に伝える意味において、そして、社会がさまざまな危機に直面するなかでアーティストに何ができるのかという問いに対するひとつの答えを成しているという意味において、ピカソの《ゲルニカ》と共通点を見出すことができる。」 (前出の三木あき子の論文より)
村上隆は、日本近代美術史上、おそらく初めて世界的なポピュラリティをえた画家といえるでしょう。
同じ「Murakami」という姓をもつ、村上春樹が文学の世界でそれを成したのと同じように。
藤田嗣治のような人もいましたが、世界的に認められた近代以降の日本人画家と言われてパッと思いつく人はあまりいません。(あとは世界中で人気がある草間彌生くらいか。)
好き嫌いはあっても、村上隆を抜きにして、現代の日本美術を語ることはもはやできないのではないでしょうか。
前出の『芸術新潮』における対談で 「いや、ぼくはもう隠居しようと思ってますんで……。だって日本では既に存在が無いものにされていますしね。」と冗談めかして語られていますが、今回の大作をつくった後に、村上隆が何をしてくれるのか期待しています。
1月31日の「日曜美術館」で村上さんがなにを語るのかも楽しみです。
[…] 全体は、レセプション棟、桃源郷への道(途中トンネル、ブリッジがある)、展示棟からなっています。展示棟の南館は「古代世界の遺宝」、北館は「日本の美術」を展示しています。現在の館長は日本美術史の辻惟雄(のぶお)さんです。辻さんは『芸術新潮』誌上で、現代美術家の村上隆氏と「絵合せ」二十一番勝負をなさって話題となりました。 […]