11月22日、高野山を訪れました。「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部としてユネスコ世界遺産に登録されています。
空海は高野山全体を指して金剛峯寺と名付けましたが、明治以降は高野山真言宗の管長が住む総本山寺院のことを称して「金剛峯寺」と称しています。この金剛峯寺主殿以外についてここでは紹介します。
弘法大師、空海(774-835)が開いた、真言宗の総本山、天台宗の比叡山延暦寺と並ぶ平安仏教の中心であり、日本仏教の聖地のひとつです。
日本では類を見ない宗教都市です。滞在時間はそれほど長くなかったのですが、私が歩いた印象は、山上につくられた総合大学のキャンパスのような感じでした。
今から600年前に亡くなった宥快と長覚という人がいます。二人は室町時代に高野山教学の興隆に尽力し、宥快は宝門、長覚は寿門という学派で呼ばれ、当時の高野山の教学を二分する勢力でした。
長覚は、高野山無量寿院の住持を務め、真言宗にとって非常に重要な人物なのですが、(霊宝館でその肖像を見て知ったのですが、)彼はなんと、遠く離れた出羽国出身なのです。いまの山形県、私が現在住んでいる場所です。
まだ、街道も整備されていなかったであろう南北朝~室町時代に、東北から高野山まで徒歩で向かったこと自体、いまの我々では考えられないことですが、出羽国からだけではなく、全国各地から優秀な頭脳が集まってきて、切磋琢磨していたという証左でもあり、当時の日本で真言宗が地方にまで及ぶ広範な勢力をもっていたことに驚きます。
高野山は、宗教都市であると同時に、多くの秀才が集まり、世俗から離れて形而上的な学問を追求してきたという点では、日本中世の大学都市のような場所でもあったのでしょう。
以下、カギカッコ内は公式HPからの引用です。
「弘法大師が都遥かに都を離れ、しかも約1000mの高峰であるこの高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。
それは、弘法大師が2カ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を投げられた。
その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。
弘法大師はこの三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時そこで異様な姿をした一人の猟師にあった。
手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。弘法大師はその犬に導かれ、紀の川を渡り嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深くに進んでいくと、そこに忽然と幽邃な大地があった。
そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけこの地こそ真言密教にふさわしい地であると判断しこの山を開くことを決意されました。」
説話においては、猟師は高野御子神(丹生都比売神の御子神)、女性は丹生都比売神の化身だとされています。ともに「丹生都比売神社」の祭神です。
「金堂の正面手前の一段低い所に、そびえる五間二階の楼門です。壇上伽藍はかつて天保14年(1843年)の大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くされました。先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建叶わずにおりましたが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、この度再建されました。持国天(じこくてん)像・多聞天(たもんてん)像・広目天(こうもくてん)像・増長天(ぞうちょうてん)像の四天王がまつられています。 なお、持国天像と多聞天(毘沙門天)像は二天門であった先の中門に安置されていた像で、類焼をまぬがれてこの度保存修理が完成しました。広目天像・増長天像は現代の大仏師松本明慶師の手により新造されたものです。」
「高野山御開創当時、お大師さまの手により御社に次いで最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。 現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成しました。梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートル、入母屋造りですが、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。 内部の壁画は岡倉天心に師事し日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿閦如来(薬師如来、秘仏)は、洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立されました。」
パッと見、そうは見えなかったのですが、SRC造だそうです。しかも、武田五一の設計。
「鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この紺紙金泥一切経は、美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになりました。したがって、この六角経蔵は、別名「荒川経蔵」といいます。現在の建物は昭和9年(1934年)2月に再建されました。経蔵の基壇(きだん)付近のところに把手がついており、回すことができるようになっています。この部分は回転するようにできており、一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれています。この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は、重要文化財として霊宝館に収蔵されています。」
「山王院は御社の拝殿として建立された、両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物で、桁行21.3メートル、梁間7.8メートルあります。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、現在の建物は文禄3年(1594年)に再建されたものです。このお堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われます。また毎月16日には明神(みょうじん)様への御法楽として、月次門徒・問講の法会が行われています。」
「お大師さまが弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とされました。高野山開創の伝承にもあるように、高野山一帯は元々この丹生(にう)明神の神領であったと伝わります。お大師さまは密教を広めるにあたり、日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出され、神仏習合思想の大きな原動力にもなりました。高野山においても修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は大変大切にされています。 社殿は三つあり、一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三宮は総社として十二王子・百二十伴神がまつられています。 丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられています。現在の社殿は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財に指定されています。 」
この御社の存在も、丹生都比売神社と高野山のつながりの深さを裏付けるものです。
「お大師さまの伽藍建立計画案である『御図記(ごずき)』に基づき、高野山第二世である真然大徳によって建立されました。お大師さまは、大塔と西塔を、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として建立する計画をお持ちでした。しかし、諸般の事情により建設が遅れ、お大師さま入定後の仁和2年(886年)に完成に至ったものです。 西塔では、大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。現在の塔は、天保5年(1834年)に再建された、擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で、高さは27.27メートルです。 」
「お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。」
「もとは、お大師さまの持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられました。桁行15.1メートル、梁間15.1メートルの向背付宝形(ほうぎょう)造りで、堂内外陣にはお大師さまの十大弟子像が掲げられています。このお堂は高野山で最重要の聖域であり、限られた方しか堂内に入ることは許されませんでしたが、近年になって旧暦3月21日に執行される「旧正御影供」の前夜、御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に外陣への一般参拝が許されるようになりました。」
「鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王というお方が、父帝の追福のため建立されました。もとは別の場所に建立されていたのですが、長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として壇上に移し、蓮華乗院(れんげじょういん)と称するようになりました。後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようになりました。現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建された五間四面のお堂」
「建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。昔はこのお堂で不断愛染護摩供(ふだんあいぜんごまく)や長日談義(ちょうじつだんぎ)が行われ、「新学堂」とも呼ばれました。このお堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建されたものです。」
「済高(さいこう)座主(870年~942年)が延長7年(929年)に建立されたお堂で、もともと総持院(そうじいん)境内に存在していました。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。後に壇上へ移されるのですが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられています。三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。伝説にはこのお堂を修造した記念に植えられたそうです。現在の建物は文化13年(1816年)の再建です。」
「大治2年(1127年)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられました。天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、140年たった昭和59年(1984年)にようやく再建されました。」
「金剛峯寺をはじめ、高野山に伝えられている貴重な仏画・仏像などの文化遺産を保護管理し、一般にも公開する目的で大正10年(1921年)に開設された、博物館相当の施設です。建物は宇治平等院を模して建造され、高野山でも数少ない大正建築として登録指定文化財に指定されています。」
国宝21件(4,686点)、重要文化財142件(13,884点)を収蔵しています。
この写真に見える部分がそうなのかわからないが、もともとの霊宝館は大江新太郎(国立能楽堂や法政大学の校舎を設計した大江宏の父)の設計。
時間の関係で、全部を回ることはできませんでしたが、数多くの寺院が建ち並び、さすが日本仏教のひとつの中心と感心しました。
消失して再建された建物も多いようですが、伽藍配置から、当時の雰囲気をつかむことはできました。
全体計画が当初からあったわけではなく、継ぎ足し、継ぎ足しで大きくなっていったような感じもしました。そういったあり方も、なにか古くからある大学のキャンパスの印象に似ているのかもしれません。
高野山奥の院は、日経プラス1 何でもランキング 「外国人が次に目指す「ディープジャパン」」第1位に選ばれました。(2018年1月28日追記)