11月21日に滋賀県甲賀市信楽町にあるMIHO MUSEUMを訪れました。およそ8年ぶり、3回目の訪問です。
MIHO MUSEUMは、神慈秀明会の創始者である小山美秀子(みほこ)によってつくられた美術館であり、館名もそこからつけられています。
全体は、レセプション棟、桃源郷への道(途中トンネル、ブリッジがある)、展示棟からなっています。展示棟の南館は「古代世界の遺宝」、北館は「日本の美術」を展示しています。現在の館長は日本美術史の辻惟雄(のぶお)さんです。辻さんは『芸術新潮』誌上で、現代美術家の村上隆氏と「絵合せ」二十一番勝負をなさって話題となりました。
設計はI.M.ペイ。施工は清水建設。
神慈秀明会は、前回見たMOA美術館の母体である世界救世教から分派した宗教団体で、世界救世教の岡田茂吉氏を同じく崇拝しています。
美術館は天国のシンボルであり、地上天国の一部であるという、岡田茂吉師の考えを具現化しようと、小山美秀子と弘子の親子は、ルーブル美術館のガラスのピラミッドの設計で知られる、I.M.ペイに設計を依頼しました。
I.M.ペイ(イオ・ミン・ペイ:1917~)は中国系アメリカ人の建築家。1983年に建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受賞しています。
国や地方自治体は、文化財保護や生涯教育という目的で、公費で購入したり、寄付を受けたりした、美術品や文化財を保存し、展示したりしています。これが公立の美術館です。例えば、今まで見てきた和歌山県立近代美術館、宮城県立美術館がこれに当たります。
経済活動により富を得た人々の一部は美術の収集を始めます。ある人は投資目的で、ある人は純粋に美にあこがれて。NYや、フォートワースでは金融や石油産業、航空機産業などで蓄えられた富が、美術品に形を変え、それが美術館という形で公開され、社会還元されていました。これが企業や財団による、私立美術館です。メトロポリタン美術館、フォートワース美術館などです。
私立美術館の中でも、少し性格が異なるのが、宗教団体を母体とする美術館です。MOA美術館と、MIHO MUSEUMは、美術館建設により、地上天国の一部を実現しようとしたという共通項をもっており、自然の中に埋め込まれ、広大なランドスケープの中で、単なる機能としての美術館を超えた崇高性を求めようとしているという点で、他の美術館とは違うような気がします。しかし、考えてみれば、西洋の美術館は、メトロポリタン美術館で見た通り、キリスト教的精神を背景にして成り立っており、その美術館のエントランスホールはまさに宗教空間そのものといった感じでした。人類の歴史を紐解けば、美術と宗教はお互いを補強する双子のような存在であったともいわれます。
美術館建築は、それ自体が、比較的自由に、高い理想をもってつくられることもあり、現代建築の新たな表現の可能性を切り開く牽引役にもなってきました。
宗教と関連した事柄についてはなかなか書きにくいし、宗教法人を母体とした美術館というと、その広告塔であるかのような先入観がどうしても入ってしまうのですが、純粋に建築としてみて、MIHO MUSEUMのような美術館は、その宗教的理想を実現するために、通常ではありえないような情熱や気遣いと、潤沢な予算をもってつくられることもあり、特に自然の中での布置や豊かな内部空間、研ぎ澄まされたディテールという点で、新しい美術館建築群の中でも際立った特徴を示しており、今日の一般的な美術館建築のあり方にも少なからぬ影響を与えているのではないでしょうか?(世界遺産になっている歴史的建造物にしても、宗教を背景にした建物が圧倒的に多いはずです。)
庭の主な設計者は中村義明で、祭事棟を担当した棟梁中村外二の次男。ペイ自身も、中村とともに北館の石庭に携わるなど、美術館内と周囲の植栽に密接にかかわりました。小山弘子はレセプション棟からトンネルと橋へ至る道をしだれ桜の並木道にしようと考え、中村義明によってそれが実現しました。
金属パネルには細かい穴が開いており(その中にはおそらくグラスウールなどの吸音材が設置されているのだろう)、吸音性能を高めて反響をやわらげ、できる限りの静寂さを実現し、別世界への結界としての雰囲気を損なわないようにしています。
金属パネルの角度が少しでもずれていると、このような滑らかな光の帯はできません。120mを覆う850枚の板の角度を、美術館オープンまで何度も微調整してこのような美しいトンネルが実現できたといいます。このような高い精度をもつトンネルを私は他に見たことがありません。
ペイが、構造技術者レスリー・ロバートソンと組んで設計した、120mの長さのある吊り橋。国際構造学会で「優秀構造賞」を受賞しました。表彰文には「橋梁の下の自然を保護しつつ、その明るく優雅な構造は建築美と洗練された芸術感覚の典型となっている」と記されています。
信楽の美術館周辺は丘陵が目立ち、植物が鬱蒼と茂っています。構造は敷地の地形に合わせて自然と形が決められただけでなく、県の規則にも制約され、全体床面積約1万7千平方メートルのうち、地上に露出できるのは、たった2千平方メートルだったため、建物の75%は地下に埋める必要があったといいます。
美術館全体からすればきわめて控えめなエントランスが姿を現します。
敷地は丘の上なので、建物が低くなり過ぎないよう配慮し、重要な建物へのアプローチは日本の寺院のような階段がふさわしい、と考えたそうです。ペイは、土地の精神性、場所柄、歴史的ルーツの重要性を建築に反映させることに確固たる信念をもっていました。
三本松を配した屏風のような風景が飛び込んできます。
ペイがこの場所に立ったとき、5mずつ高さの違う足場を設けて山を眺め、最も美しい高さを選んで床の位置を決め、そこから建物全体が設計されたといいます。遠景の山、中景の谷、そしてベランダの外には、ペイ監修のもと、樹齢150年の松が植えられました。
エントランスホールのガラス屋根を支える銀色のスペースフレームは、設計当初の図面から大きく変化しているといいます。スペースフレームと接続部分の球体の美しい模型を、設計図面の完成の記念にペイに贈ったところ、それによって正確にその雰囲気を把握したペイは、少し自分の意図とは違うと思い、スペースフレームの直径と、球体の直径を変更を指示しました。図面は完成していたため、それを聞いた日本側の設計者は言葉を失ったそうです。
最初は変更を拒んでいた担当者も、その変更がエントランスの雰囲気を決定的に左右すると気づき、休暇を返上して数週間かけて、すべての図面を書き直したそうです。
詳しい変更の内容はわかりませんが、ペイ氏の天才的ひらめきにより、エントランスホールの完成度はより深まったといい、確かに人々を魅了する空間となりました。
ペイは、ルーヴルのガラスのピラミッドなど、ほかの作品でも用いた、フランス製のライムストーン(大理石)マニ・ドリをここでも使用しました。
平らな屋根はこのランドスケープには似合わないとペイは考え、特にさまざまな角度から見下ろされるので、単に木造建築をまねるのではない、興味深い、関心を引くシルエットになるような形を探したそうです。まず四面体から始め、全体の構造は幾何学形を基本に構成していき、日本的であるとともに、土地にしっくり合うシルエットを意識的に企て、あえて瓦ではなく、ガラスを使うことにしたといいます。
非常に行きにくい場所にありますが、何度訪れても、素晴らしい美術館です。完成度が非常に高いです。コレクションも数百億円かけて集めたといわれるだけあって充実しています。
MIHO MUSEUMは、日本の美術館建築でも最高峰に位置するのではないでしょうか。展示品の数はそれほど多くありませんが、世界的に見ても相当に高いレベルの美術館でしょう。
この日も、ずいぶんと外国からのお客さんが来ていました。アジア系だけでなく、欧米系の方も多かったようです。美術好きの外国人にとってMIHO MUSEUMは、日本観光の一つの目的地になっているのかもしれません。