今日は山形鋳物(やまがたいもの)の老舗、菊地保寿堂さんの工場に打合せに伺いました。
住所は、山形市鋳物町! 市の中心部にある銅町が手狭になり鋳物のためにつくられた町です。西部工業団地内にあります。
《山形鋳物とは?》
山形県山形市とその周辺に伝わる鋳物で、1975年に、通商産業省(現・経済産業省)に伝統的工芸品に指定されました。また、鋳物の技術を利用した機械部品鋳物も盛んにつくられています。
茶道で使われる茶の湯釜の大半が山形産の鋳物であるとのことです。ちょっと驚きですね。
山形では鋳物が盛んにつくられていることは知っていましたが、全国的にみて、そこまでの技術の高さとシェアをもっているというのは、地元に住んでいながら、知りませんでした。お恥ずかしい。
現在工事中の建築 (六日町の町屋)の施主が菊地保寿堂の当主(社長)と親戚で、表札を鋳物でつくってあげるとのお申し出があったということで、鋳物の表札とはどんなものかを教えてもらいにいったのでした。
社長の菊地さんからお話を伺うと、現在、このような文字を鋳物でつくる技術をもっているのは、菊地さんのところだけだろうとのこと。昔は文化庁の依頼などで、鋳物で館名サインをつくっていたこともあるが、いまは依頼も少なく、技術をもっているところも、このように文字を鋳物でつくれることを知っている鋳物屋さんもほとんどないのでは?ということでした。
我々はよく、ステンレスの切り文字や箱文字などを使いますが、それに比べると、外周部のエッジが効いていて、非常に存在感がありますね。
鋳物に使える金属は、鉄、銅、アルミ、真鍮などがある。最終の仕上げは、黒だけでなく、グレーなども可能で、アルミの場合素地仕上げなどもできるようでした。使い方は限定されそうですが、金箔貼りが一番耐候性が高いそうです。
工事は始まったばかりですが、この鋳物の表札と調和するように(少なくともその存在感の前に霞まない建築になるように)と、身の引き締まる思いです。
社長の菊地規泰さんは私の中学の先輩であり、山形出身の工業デザイナーの奥山清行さんと小・中・大と同級生でもあります。
奥山清行さんは日本人として初めてあのフェラーリをデザインされた方で(エンツォ・フェラーリ)、日本国内でも新幹線の外装デザインや、最近ではヤンマーのトラクターをデザインして話題になりました。(奥山氏の公式HP)
規泰さんは今から10年ほど前、山形カロッツェリア・プロジェクトを奥山さんらとともに立ち上げ、奥山さんのデザインで、新しい感覚の鉄瓶である『和鉄ポット まゆ』をつくられました。
菊地さんは奥山さんと同じ武蔵野美大に入学されて、最初はデザインをこころざしておられましたが、彫刻に転向し、フランスのエコール・デ・ボザールに国費留学することも決まっていたそうなのですが、大学3年の時にお父上が他界され、急遽社長を継がざるをえなくなり、留学は断念。そのような突然の出来事がなければ、山形から一人の世界的な彫刻家が誕生していたかと思うと残念です。
しかし、菊地保寿堂というのはその夢を断念しても惜しくないくらい、長く素晴らしい伝統をもった鋳物屋さんなのです。何せ、江戸幕府が開かれた翌年の1604年創業なのですから。
利休の茶の湯とも同じくらいの歴史をもっている、鋳物師の家系の15代目の当主が規泰さんなのです。(菊地保寿堂は、1648年にその起源が求められるエコール・デ・ボザールよりもっと古い歴史をもっているのです。)
規泰さんは社長業を直ちに継いだあとも、その傍ら大学には通い続け卒業されたそうです。たいへんなご苦労をされたようですが、それがいま実を結んでいるのだろうと思います。
菊地保寿堂のWEB SITEより
山形鋳物は、約960年前に発祥したとされています。菊地保寿堂は、慶長9年(1604)に山形城主・最上義光(もがみよしあき)公の御用鋳物師として当家初代の喜平治が擁護されたことに始まります。初代~9代・喜平治、10代~12代・卯之助、13代~14代・熊治正直、そして現在15代正直(=規泰さん)へと受け継がれてきています。米国万国博覧会グランプリ賞受賞(1926)、日本伝統工芸展最高賞受賞2回、日本芸術文化財団褒賞受賞等々の数多くの褒賞を戴いております。また、日本古来よりの鉄材・砂鉄を用いて造られる和銑(わずく)釜の制作技術は、姻戚・長野家(現在2代目長野垤志)と共に技術復興し現在もその技術を頑に守り続けております。伝統と創造の現代ブランド「WAZUQU」は、欧米において高い支持と評価をいただいております。
打合せのあと、社長直々のご案内で、工場を見学させていただきました。
馬見ヶ崎川は山形盆地(扇状地)をつくった、山形市民の誰もが親しみをもっている川で、秋にはこの河原で山形の伝統行事・芋煮会が行われます。(→日本一の芋煮会フェスティバル)
山形鋳物についてすこし調べてみると (Wikipedia情報ですが)
《歴史》
- 平安時代の中頃に、前九年の役を治めるため、源頼義が山形を訪れた際に、従軍した鋳物職人が、馬見ヶ崎川の砂と周辺の土質が鋳物に適することから、一部がこの地に留まって鋳物を作ったのが始まりといわれる。 斯波兼頼による山形城築城の際に、鋳物を献納したといわれる。
とのことで、馬見ヶ崎のこの砂があったからこそ、山形鋳物の発展があったともいえるようです。
以下、Wikipedia情報の続きです。
- 江戸時代にはいり、最上義光の治世が行われると、城下町再編によって、鋳物職人は職人町に集められ、銅町(現在の山形市銅町)をつくる。このころ、足踏み式たたらを導入し、梵鐘や灯籠など大型の鋳物が作られるようになる。
- 山形が出羽三山の参拝客で賑わうと、山形鋳物の仏具や日用品が土産として用いられ、全国的な知名度を得るようになる。
- 明治時代、全国の鋳物職人が、日露戦争で使われる砲弾の製造を従事、とくに技術が優れていたといわれる。
- 日中戦争開戦と戦時経済体制の移行により原材料の統制強化で民需は極端な制限を受けた。また一部では蓄積した技術を軍需産業へ転換する動きもあった。
- 敗戦後軍需産業から平和産業への転換が進み、伝統工芸からミシン、自動車部品への進出が始まった。
- 1974年、銅町が手狭になると、山形鋳物工業団地に移転、鋳物町をつくる。
《主な製品》
- 茶の湯釜、鉄瓶、青銅花瓶、鉄鍋など、工芸鋳物
- 織機、農機具、工作機械部品、自動車部品などの機械鋳物
菊地規泰社長、今日は本当にありがとうございました。大変よい勉強になりました。そして、工場見学をして、久しぶりに何かわくわくするような気持ちになりました。ものづくりの原点を見たような気がしました。
学生時代に彫刻家を目指した菊地さんも今は作家的な活動はしておらず、生活の中で使われていく鋳物をつくることを仕事の中心としながら、一方でライフワークとして、砂鉄による古くからの鋳物(和銑(わずく))の伝統を継承していくということに力を注がれているそうです。
山形にこのような立派なものづくりがおられることを知ることができて、たいへん誇りに思い、また山形を活動の拠点とするものとして勇気づけられました。
鋳物は一品一品、心を込めてつくられるものであることを実感しました。そのような姿勢は同じ「ものづくりを生業とするもの」として見習っていきたいと思います。
菊地保寿堂では、建築用のグレーチング(溝蓋)をアルミの鋳物でつくったりすることもあるそうで、鋳物は建築と決して縁遠いわけではありません。
実際には、普通の予算の建築で、菊地さんの手掛けられているような鋳物を取り入れるのはなかなか難しいとは思いますが、アクセントとして使うことはもとより、工夫次第で可能性はあると思います。
菊地さんと協働できるような機会がこれからもあればうれしく思います。
まずは、今回のお仕事から、ですね。どうぞよろしくお願いいたします。
(菊地保寿堂の製品に関するお問い合わせは、菊地保寿堂WEB SHOPに掲載されたメールアドレスまたは電話番号から直接お尋ねいただきますようお願いいたします。当方ではお答えいたしかねます。悪しからずご了承ください。)
[…] at night 黄昏時の3階テラス terrace at twilight 銅の鋳物でつくられた表札(山形鋳物菊地保寿堂製)name plate made of copper by Kikuchi Houjudo […]