11月23日にMOA美術館に行きました。あまり時間がなく、全体は見ることはできませんでしたが、紹介しておきます。
静岡県熱海市の高台にある私立美術館で、国宝3点、重要文化財65点を含む約3500点の美術品を所蔵しています。絵画・書跡・工芸・彫刻等、日本・中国をはじめ東洋美術の各分野におよび、日本美術の研究者なら一度は訪れなければならないような美術館でしょう。
これらは世界救世教を創設した宗教家であり、文明評論家、書家、画家、歌人、造園家、建築家、美術収集家など多岐にわたる活躍をしたと言われる岡田茂吉のコレクションです。岡田が1952年に開館した箱根美術館を継承する形で、岡田の生誕百年にあたる1982年に、MOA美術館はオープンしました。設計・施工は竹中工務店。(BCS賞の銘板では、設計、施工とも、竹中工務店と鹿島建設の連名になっていましたが。)
「創立者岡田茂吉は、「美術品は決して独占すべきものではなく、一人でも多くの人に見せ、娯しませ、人間の品性を向上させる事こそ、文化の発展に大いに寄与する」との信念のもと、戦後、東洋美術の優品の蒐集につとめ、海外への流出を防ぎ、1952年(昭和27年)、財団法人東明美術保存会(現在は公益財団法人 岡田茂吉美術文化財団)を設立し、神奈川県箱根町強羅に箱根美術館を開館した。
その後、岡田の「熱海にも世界的な美術館を建設し、日本の優れた伝統文化を世界の人々に紹介したい」との願いを継承して、1957年(昭和32年)、熱海市に熱海美術館を開き、岡田の生誕100周年にあたる1982年(昭和57年)を機に、現在のMOA美術館が開館した。「MOA」とはMokichi Okada International Associationの頭文字である。」 (Wikipediaより)
以下、カギカッコ内はWikipediaからの引用。
「黄金の茶室
概要
黄金の茶室は容易に運搬可能な組み立て式の茶室であった。秀吉が関白に就任した翌年の天正14年(1586年)1月、年頭の参内で御所に運び込まれ、正親町天皇に披露された。北野大茶湯などでも披露され、文禄元年(1592年)には大坂城から名護屋城に運び込まれた。
図面は伝わっていないが、当時の記録から、壁・天井・柱・障子の腰をすべて金張にし、畳表は猩々皮、縁(へり)は萌黄地金襴小紋、障子には赤の紋紗が張られていたとされる。また使用にあたっては黄金の台子・皆具が置かれたという。
評価
千利休が黄金の茶室の制作に関わったかどうか、明確な史料は見当たらない。従来、千利休のわび茶の精神とはまったく異質であり、秀吉の悪趣味が極まったものである、という見方がなされてきた。しかし、茶室の研究家である建築家堀口捨己は、豪奢、華やかさも利休の茶の一面であると論じたことがあり、MOA美術館で復元を担当した早川正夫も、千利休が制作に関与しなかったはずがないと述べている。
豪華絢爛な点、権力誇示に使用された点、組立て式である点など、あらゆる点において通常の茶室建築とは一線を画している。その評価には賛否両論あるものの、数ある茶室の中でも最も名の知られたものの一つと言える。」
Wikipediaによると、テンポラリーなものを含めると、全部で7つの黄金の茶室の復元が存在し、MOA美術館がその第一号とのことです。
監修はあの堀口捨己、設計は早川正夫。復元とはいえ、一見の価値はあるものです。
メインロビーからは、初島や伊豆大島、房総半島から三浦半島、伊豆半島まで180度の大パノラマを眺望できるといいます。この日はあいにく曇っていて見れませんでしたが。残念。
展示室では、 所蔵企画展 琳派の美 光悦・宗達から抱一まで が開催されていました。
本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一など、琳派を代表する作家の作品が、数多く展示されていました。前々日に京都国立博物館でも大規模な琳派展を見てきたので3日という短期間にこれだけ多くの琳派の作品を見ることはもう二度とないような気がします。
BCS賞(Wikipedia) 日本国内の優秀な建築物に対して贈られ、表彰は受賞作品の、建築主、設計者、施工者の三者に対して行われるのが特徴。
BELCA賞(Wikipedia) 一般的な建築賞が新築の建築物あるいはそれを担当した建築家を表彰するのに対し、既存建築物を維持管理の側面から着目して表彰する制度として注目されている。
時間がなくてムーア広場や、メインエントランス(円形ホール)を見損ねてしまった。これらを見ないで、美術館の総合的な評価は下せないだろう。また訪れたいと思います。今度はできればもっと天気のいい日に、じっくり時間をかけて。