4月28日、盛岡で開催されたJIA(日本建築家協会)岩手地域会総会にお招きいただきました。翌日、岩手の建築界の重鎮であられる六本木久志さんに、岩手県で一度は見ておいた方がいいという建築をいくつかご案内いただきました。たいへん良い勉強になり感謝しております。また、JIA岩手地域会のみなさまにもお世話になりました。ありがとうございました。

上のような言葉や、人と人とが出会ったとき、別れるときなどに交わす言葉を「挨拶」といいますが、この単語の本来の意味を皆さんはご存知でしょうか?もともとは禅の用語なのです。

さて、今回は4月29日に訪れた建物の一つで、一番印象的であった、岩手県奥州市にある「曹洞宗 大梅拈華山 圓通正法寺(しょうぼうじ)」をご紹介したいと思います。

場所は奥州市水沢区。坐禅を中心とした集団生活を重んじる禅寺らしく、東北道水沢ICから車で約25分の、人里離れた山の中にあります。

On April 29th, I visited Shoubouji Temple in Mizusawa, Iwate Prefecture, which has the largest thatched roof in Japan. Shoubouji Temple is belong to Soutoushu group of the Zen Buddhist denomination of Japan. It was established in 1348, and the main building was rebuilt in 1811 by Da-te Domain which has the main castle in Sendai.It was designated as Important Cultural Properties by Japanese Government.

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アプローチ。小高い山のふもとに正法寺は建っている。

正法寺は「奥の正法寺」の名で広く親しまれており、南北朝時代の貞和四年(1348年)に無底良韶禅師によって開創されました。

天台宗の古刹として知られた黒石寺奥の院に曹洞禅の道場を建てたのが始まりです。

曹洞宗は、浄土宗(開祖:法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、日蓮宗(日蓮)と同じく、鎌倉時代に成立した鎌倉仏教の一つで、道元によって開かれました。

日本の仏教ではこのほかに、奈良時代の仏教、平安時代に成立した、真言宗(開祖は弘法大師空海:高野山)、天台宗(同、伝教大師最澄:比叡山)、江戸時代に隠元禅師が伝えた臨済禅の黄檗宗などが代表的です。

上記の日本仏教のうちでは、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗が、禅宗の仏教です。

「日本における曹洞宗道元に始まる。道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとして(中略)弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾(1268 – 1325年)とその後席峨山韶碩(1275 – 1366年)の頃からである。(Wikipediaより)」

この正法寺は、道元(1200~53)入滅からほぼ百年後の創建ですが、時はすでに南北朝時代でした。創建時より曹洞宗という宗派名を冠していたでしょう。

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惣門に近づいてゆく。

かつては永平寺(福井県)、總持寺(横浜市)とならび、奥羽二州の本山として発展し、末寺・孫末寺は五〇八カ寺とも一二〇〇カ寺とも伝えられています。その格式は朝廷の綸旨と總持寺の認可による確固たるものでした。

とは、元々インドの言葉で「ジュハーナ」といい、中国語で「禅那」と音写されました。その意味は「瞑想」ですが、それは心の動揺が静まって安定することだから「」ともいい、二つの言葉を組み合わせて「禅定」といいました。さらにその行動は座ることだから「坐禅」と言われるようになりました。

2500年程前、インド・シャカ族の王子だったお釈迦様(ガウタマ・シッダールタ)は、老・病・死というどうにもならない現実を目の当たりにし、妻子を捨てて29歳で出家して6年間学問をし、最後に苦行をして精神の解放を求めましたが、苦行の矛盾に気づきヨーガの瞑想に入りました。瞑想に入って8日目に明けの明星を見て、お釈迦様は「寂静」(普通の静寂とは違う、のぼせの火が消えた状態。インドの言葉では「ニルバーナ」(涅槃)。)を体験しました。

人間には「自我保全本能」という生命欲求があり、これが知性を失って働き出すと「欲望」いう形になる、これを「煩悩」といいます。「寂静」こそ煩悩から解放される真の自由だとお釈迦さまは確信しました。

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惣門は国指定重要文化財。寛文5年(1655年)の創建。杮葺き。自然石の石段とよく調和している。

そして、自我・煩悩が寂静・涅槃になったことを自覚して、完全な悟りに至り、人のためにそれを指導できる智慧を完成しました。その自覚覚他の人を仏陀(悟りを開いた者)、如来(真理の世界から現れた者)といいました。

お釈迦さまは寂静を経験し、仏陀となった後、瞑想も説法も「坐禅」で通しました。

西暦一世紀ごろ、仏陀の「縁起」の真理を「空」と表現して、真理はすべてのものにいきわたっているのだから、その真理を実現するのが修行であると解釈し、仏陀の言葉(経)を再編集する学派が現れました。それが大乗仏教運動で、このとき『般若経』 『法華経』 『阿弥陀経』などの経典がつくられました。「縁起」とは、すべての存在は条件の集合によって成り立っているから、世の中は常に変化し(無常)、それは自分の都合ではなく(無我)、実体はなく()、生きているとは柔らかく囚われない(空)ことである、という真理のことです。

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石段はかなりの急勾配で、一番蹴上の大きなところは40cm以上あるのではないだろうか? いくら今から300年以上前の仕事(創建は660年以上前)とはいえ、訪れるものを容易には通さない、覚悟を試されるようなたたずまいである。

仏陀が亡くなって3~400年たったころ、大乗仏教運動の中でヨーガを重視し実践する学派である「ヨーガ派」の人々が、心のしくみとあり方を解明した「唯識学」を成立させました。西暦6世紀になると、ヨーガ派から「」こそ多くの仏教の根源であると主張する「禅宗派」が台頭しました。すなわち「ヨーガ派」から派生したのが「禅宗派」です。

その中の般若多羅尊者は南インドの香至(こうし)国の王子の菩提多羅を弟子にしました。その王子はやがて菩提達磨と称し、般若多羅尊者の名を受け、中国に禅宗を伝えたのです。よく知られた達磨大師ですね。歴史的信憑性には疑いがあるようですが、ダルマ様も、もとは王子だったのですね。いわゆる「だるま」は達磨大師の坐禅姿を模した置物です。

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雪舟 慧可断臂図(えかだんぴず)1496年 愛知・斉年寺蔵 国宝 中国禅宗の第二祖とされる慧可(487~593)は40歳の時に少林寺を訪れ達磨に入門しようとしたが許されなかった。必死の覚悟で入門を求めていることを示すために左腕を斬りおとして見せた。そのエピソードを描いた絵。雪舟自身も禅僧であり、日本の禅宗画は南北朝から室町時代に大きく発展した。

達磨により中国に禅宗が伝えられ、それは六祖慧能にまで伝わったことになっています。さらに臨済宗曹洞宗などの禅宗五家に分かれます。これらがさらに東に伝えられたのが、日本の禅宗の仏教です。

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惣門をくぐり抜け

インド哲学の考えでは、「知るということは”なる”ことである」といいます。煩悩や概念、観念に染まり汚れる以前の「寂静・涅槃」に「なる」ことが禅の魅力であり、それこそが、苦しみの根源にある「自我」を鎮め「空」になる道であると実証したのでした。

そのための修行は「調身・調息・調心」の3点でした。「調身」(ちょうしん:姿勢を正しく作って力みを解放する)、「調息」(ちょうそく:腹式呼吸でのぼせをさげる)、調心(ちょうしん:意識を下腹に集中する)が、外界からの刺激から自由になる行でした。

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惣門を過ぎるとさらに石段が。次第に本堂の屋根が、再び見えてくる。石段は、東日本大震災の際に一度崩れたようですが、今では完全に修復されています。

道元の生きた鎌倉時代より以前の、平安後期を特徴づける思潮は「末法思想」でした。これは仏陀の入滅後500年の間は、仏陀の教え(修行)、(さと)り(悟りを証明する)の三要素が世に伝わり(これを正法という)、仏陀滅後1500年までには証りがなくなり、仏教は形式的仏教となり(像法)、仏陀滅後1500年たつとさらに行もなくなり、仏陀の教えのみが残る(末法)という6世紀ごろの歴史観で、それに従えば、永承7年(1052年)から末法になることになります。

現実に社会は混乱し、自然災害が頻発し、人々の恐怖と失望も深く、阿弥陀仏を信じて念ずれば、行がなくとも救われるという浄土の思想が人々の救いになっていました。

大乗仏教である奈良仏教も平安仏教も、仏性はすべての人に流れ込んでいるという理論を基本にしていましたが、仏性は人間の上に実現するためには、煩悩性以前の純粋な仏性に立ち戻る必要があります。平安時代になって人間への観察が深まるにつれ、どろどろした表層的な人間の愚かさよりも本質的な仏性への信を重視したのが鎌倉仏教です。

道元は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』という、1231年から示寂する1253年まで生涯をかけて著した95巻に及ぶ大著を遺しました。個々には日本曹洞禅思想の神髄が説かれています。道元は中国曹洞宗の如浄の法を継ぎ、さらに道元独自の思想深化発展がなされています。

「正法寺」が、その『正法眼蔵』にあやかったのは間違いなさそうですが、その名を許されることは、かなりハードルが高かったであろうと思われ、当時の曹洞宗の首脳陣がこの正法寺に寄せた期待の大きさが伺われます。

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石段を上りきると正面に本堂があらわれる。

道元は、沙弥(見習小僧)として13歳で比叡山に入り、天台教学を学んだ後、14歳で得度(剃髪して受戒し仏門に入ること)を得ました。

しかし、道元は大乗仏教の「人間はだれでも、生まれたときから仏の本性を備えている」という教えに疑問を抱き、「ならばなぜ、過去の仏たちはわざわざ発心して修業したのだろうか?」と考えました。

努力した人だけが悟りを得て救われる(努力主義)と考えるのが小乗仏教ですが、これに異を唱えたのが大乗仏教です。人間は煩悩におおわれているが、仏の本性を備えている、だから煩悩に気が付いたとき、本来の清らかさに戻ることができるとするのが、大乗仏教の考え方ですが、道元はそれに対して疑問を抱いたというわけです。

そして、比叡山の先輩たちにこの疑問を投げかけましたが、答えてくれる人はだれもいませんでした。そこで道元は三井寺公胤僧正を訪ねました。

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本堂(右)と坐禅堂(左)。本堂(国指定重要文化財)は日本一の大きさの茅葺屋根。間口二十一間半(29.6m)、奥行き十二間(21m)、高さ九十二尺(26m)の大きさ。文化8年(1811)に伊達家により再建。

三井寺の公胤は、道元の疑問に対し「その疑問は悟りの本質に関わるものであり、理論的な答えでは君の答えになるまい。なぜなら信じて実践し、自分がそれになってこそ真の答えであるから、理論は答えにならない。達磨大師が伝えたという禅宗という実践宗教を近ごろ建仁寺栄西という人が伝えた。そこに尋ねるか、ないしは中国に行って尋ねれば本当の答えが得られるであろう」と指導しました。

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坐禅堂(左)、本堂(中央)、庫裡(右:国指定重要文化財)

こうして、15歳の道元は、臨済宗の開祖、建仁寺の栄西禅師(1141~1215)に出会ったといいます。(恐るべき15歳!)おそらく、比叡山から鴨川べりにある六波羅蜜寺近くの建仁寺に何回か尋ねたのではないかとされています。しかし、栄西は翌年75歳で没してしまいます。

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おおらかな配置もよい

大乗仏教では、本来備わっている悟りが、努力に従って徐々に身についてくるという立場を「始覚」といい、煩悩がなくなって謙虚になったら直ちに、悟りが信じられているという立場を「本覚」といいます。道元の問いは、「人が悟りに出会うということは、本質を信じることか、努力なのか?本質を信じられるのか」というものであり、大乗仏教を二分する大問題である「始覚」と「本覚」のせめぎあいをまだ若く小さな自我の内に抱え込んでしまったというわけです。

道元は18歳で比叡山と決別し、栄西亡き後の建仁寺で修業を始めます。これは、国家公認の僧侶をやめて遁世することであり、法衣をやめて黒衣になることです。今の社会でいえば公務員や一流企業をやめて、ベンチャー企業に身を寄せる、あるいは自分で起業するということで、よほどの覚悟が必要だったでしょう。建仁寺では住職の明全(みょうぜん)について修行しました。

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本堂(重要文化財) 急勾配の茅葺屋根は大迫力である。こんなに大きな茅葺屋根を見たことは初めてでした。基本的には寺院建築の和様の架構に民家でよく使われる茅葺を載せているということになるのでしょうか。でも屋根の勾配や規模からいって、日本でここにしかない独特の建築様式になっているような気がします。

茅葺の仏教寺院としては、他に山形県寒河江市の慈恩寺の例がありますが、全国的にそれほど事例は多くないようです。意外と各地に点在しているものなのでしょうか?檜皮葺の寺院は以下のように、いくつかの事例があるのですが。神社建築として、伊勢神宮などは茅葺です。

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伊勢神宮は茅葺  式年遷宮で原則20年に一度、屋根のみならず、建物全体が建て替えられる。これは約1300年の間続けられている。今月下旬、伊勢志摩サミットが開かれ、5月26日、G7の首脳が伊勢神宮を訪問します。
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室生寺は檜皮葺。本堂(国宝)。平安時代。
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室生寺五重塔(国宝)。檜皮葺。平安時代。

仏教伝来以前、日本の大規模建造物の屋根は、茅葺または檜皮葺などで、瓦屋根は仏教伝来とともに仏教寺院に用いられるようになりました。「瓦葺」という忌言葉で呼ばれたように、寺院はそれ以来瓦葺であることが多いようです。しかし、八世紀にいたっても崇福寺、石山寺、西大寺などは檜皮葺が用いられました。さらに14~5世紀の瑠璃光寺金堂、不動院金堂、18世紀の善光寺本堂にも檜皮葺きが用いられているところを見ると、檜皮葺の寺院は、近世まで、各地でつくられてきたようです。

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本堂 通常こちらからは入れない。禅院では、最高の礼をもって迎える場合のみ、本堂の正面から客を上げて本尊の前に案内する。屋根も高いですが、軒下までもかなりの高さがある、独特のプロポーション。正面入口には庇はつかない。

茅葺の仏教寺院の歴史や現存件数はまだよくわかりませんが、少なくとも、これが日本最大の茅葺屋根であるということは、公式的に認められている事実であるのは確かです。

近年屋根の痛みが進み、1995年の春から「平成の大改修」を開始。国、県、市、の補助等で、22億700万円を投じたそうです。1999年までに惣門、鐘楼堂、庫裏を、2000年から2006年8月まで本堂の改修が行われました。

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この日の夕方に「遠野ふるさと村」で見た、岩手のこのあたりにかつて普通に存在していた、農家住宅「南部曲り家

岩手のこの地域一帯で一般的な屋根の葺き方であった、茅葺がつかわれたことにはそれほど不思議ではありませんが、よく、これだけ巨大な茅葺屋根をつくろうと思ったものだと感心します。正法寺の屋根勾配がえらく急勾配に感じられたのですが、曲り家と比較してみると、ほぼ同じ勾配で、この土地に生きた大工や職人の経験から割り出されたものだろうと納得しました。

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正法寺の後に訪れた、千葉家住宅(国指定重要文化財:遠野市)も大きな茅葺屋根の「民家」。東日本大震災による傷みもあり、現在閉鎖中。これから数年かけて修復し、再度公開される見通しという。
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本堂へいたる石段

さて、その後道元は、師であり長年本格的に禅を学ぶために中国にわたりたいと願っていた、明全につきしたがって、24歳で宋に入りました。三井寺の公胤に中国行きを勧められてからはや9年の歳月が流れていました。

船の中での待機を命じられていた道元も、やがて、現在の浙江省寧波市にある中国五山の第三位、太白山天童景徳寺に上りました。

天童寺の起源は古く、西暦300年に遊行僧義興によって創建されたといわれています。

山形市の隣に、将棋の駒の産地として全国的に有名な天童市がありますが、この名の由来は、行基北畠親房に求められるといいます。→天童の名前の由来

「天童」が古くはよく使われた一般名詞である可能性もありますが、行基は奈良時代、北畠親房は鎌倉時代の人物ですから、より歴史の古いこの「天童寺」が、元を辿って行けば、「天童市」の名前のルーツなのかもしれません。

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本堂前に並ぶお地蔵様

禅宗では、一定期間寺にこもって修行する決まりがあり、これを安居(あんご)といいますが、道元は夏の安居があける7月15日を待って天童景徳寺に上りました。そこで、中国に入ったばかりのころに出会って、異国からわたってきた好青年道元に期待しながらも、不見識をたしなめた老僧、典座和尚と再会しました。

そこで、道元は老典座に「お経の心とは何ですか」と質問しました。すると典座は「一二三四五」と答えました。日本流にいうと一から十までということで、何もかもということです。日常生活すべてを真実にしていくのが修行というのです。

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屋根隅部ディテール

さらに、「修行とは何ですか?」と聞くと、「世界中、何も隠していませんよ。」と答えたそうです。つまり、隠されている悟りを探すのが修行なのではなく、明々白々な真実を確かめ続けるのが修行なのだという意味です。これが中国人が理解していた禅であり、悟りであり、人生を「よかった」と思えるものにするコツだったのです。

この出会いによって道元は開眼し、この典座和尚への感謝と感動を『典座教訓』に書いています。

早熟の15歳、道元少年が抱いていた疑問が、ここでやっと氷解したのです。

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本堂前より惣門を振り返る

日本では大乗仏教が主流ですが、同じ仏教国でも、インドの南に浮かぶ人口二千万人ほどの島国スリランカではテーラワーダ仏教上座部仏教:小乗仏教という言葉は蔑称であるため好んでは使われない)が盛んです。

私がスリランカに初めて行ったとき、顔はインド人と似ているのに、その「不思議な」微笑みが日本人のようでメンタリティも近いような気がしました。その理由はインド人の大多数がヒンドゥー教徒なのに対し、スリランカでは人口の約80%が仏教徒であることに求められるのではないかと思いました。

お釈迦さま(ブッダ)はインド人ですが、インドでは、4世紀にグプタ王朝がヒンドゥー教を国教化したのち、仏教は飲み込まれていき、11世紀にはインド侵略を狙っていたイスラム武力勢力により当時インドの最大仏教寺院ヴィクラマシラーが完全に破壊されインド仏教の歴史は閉じられてしまいました。

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洞窟の中に横たわるブッダ(スリランカ・キャンディ)

一方スリランカには、紀元前5~4世紀頃にお釈迦様が入滅後、ほどなくして仏教が伝わりました。紀元前3世紀頃といいますから、100~200年後のことでしょうか?そしてスリランカではそのころの教えが今日に至るまで綿々と伝えられています。

日本に仏教が伝わったのは、6世紀の飛鳥時代ですから800年ほどスリランカの方が仏教の先輩というわけです。偶然ですが、800年といえば、道元の時代から現代までとほぼ同じ時の長さですね。

どうも日本人の小乗仏教に対するイメージは「小さい乗り物」という感じでよくありませんが、「お釈迦様の生の教えが、冷凍保存、真空パックされて今も息づいている」という印象を現地でもちました。(ガラパゴス仏教?(笑))

日本には、インド神話と融合した大乗仏教がガンダーラや中国を経由してお釈迦様の入滅後千年以上を経て入ってきたため、お釈迦さま以外のさまざまな人々のアレンジが加えられて変容した仏教となっていることは否めません。

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アヌラーダプラ(スリランカ北中部州にある古都で世界遺産(1982年登録))のストゥーパ(仏塔)。紀元前1世紀からのものも現存している。

どちらがよいとは簡単には言えませんが、「葬式仏教」と揶揄される日本に比べ、スリランカでは仏教が人々の生活に根付いているように思われました。

スリランカでは、子どものころからお寺は日曜学校のようなものを開いてお釈迦様の考えをわかりやすく教えており、人々もお釈迦さまのことを「人の心の仕組みを解明した偉大なる先輩」「尊敬すべきすごいおじいさん」というような感じで身近に感じているようで、日本のように極端に神格化されたり、神秘的になりすぎたりしていないようにも感じました。一緒に仕事をした現地人(仏教徒)も五戒(在俗信者の保つべき五つの戒(習慣):不殺生(生き物を殺さない)、不偸盗(与えられていないものを取らない(盗まない))、不邪淫(みだらな行為をしない)、不妄語(嘘をつかない)、不飲酒(酒・麻薬類を摂らない))を日常生活の中で守ろうといつも意識しているようでした。スリランカでは、家の中を歩いている虫も殺さないので、虫の方も人間から見つけられても逃げないのです。(私がそう感じただけかもしれませんが。(笑))

信心の厚い在家信者の彼らとて、完全に戒律を守れているわけではないのですが、そんな仏教の教えを日常で意識したこともなかった私は少し恥ずかしくなった覚えがあります。

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庫裡(重要文化財) 寄棟造。こちらも茅葺屋根である。茅葺屋根の大きさは約160坪。本堂に次ぐ大きさである。寛政11年(1799)の火災の出火場所で、文化4年(1807)に再建された。禅院では、玄関は本堂と庫裡の間にあるのが一般的だが、ここでは庫裡の中央にあるようだ。一般参拝者の出入り口は右端。もともと、「玄関」は、奥深い悟りの境地に入る重要な関門という意味で、禅の公案集『碧巌録』にも出てくる。禅院が厳しい修行道場であることを示すために入口に玄関の文字を掲げたのが、客殿の入口という意味になり、禅宗寺院の一般的な建築様式になって、さらに俗世間の家屋にも取り入れられたのである。

中国に来て2年、天童景徳寺で修業を続け26歳になった道元は、如浄(にょじょう)という本物の師に出会い、ついに悟りを許されました。

道元が悟りを開いたのは「身心脱落」という言葉によってであったといいます。如浄が、坐禅中に居眠りする僧に「坐禅は身心脱落である」といった言葉を聞いた後、道元は袈裟をかけて、如浄の部屋のある妙高台に行き、焼香しました。「何のために焼香するのか」という如浄の言葉に「身心脱落し来たる」というと、如浄は微笑して「脱落身心」といって悟りを認めたといいます。

「これは一時の技ですから、みだりに認めないでください」と道元が言うと、如浄は「私はみだりに認めたりはしない」といい、さらに道元が「みだりに許さないという心は何ですか」と問うと、如浄は「脱落脱落」と証明したそうです。

脱落さえも脱落したということは、心底こだわりのない世界に安住し、それがしっかり認識となっている、という意味でしょう。如浄は「身心脱落とは柔軟心である」といいました。それは、自我に硬直せず、対象とつかず離れず接していける自由さのことです。この道元の身心脱落を如浄が証明したことを「面授」というそうです。

師匠と弟子(親と子)のあるべき姿を説いた禅語「啐啄同時」(啐はヒナが中から殻をつつくことで、啄は親鳥が外から殻をつつくこと。啐と啄は絶妙のタイミングで同時に行われてはじめて、ヒナが孵化することができるように、師匠が成長を静かに見守り、時機を見て悟りのきっかけを与えることで、弟子が悟りを開く(一人前になる)ことができる)をよく表しているエピソードです。

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金堂と庫裡とを繋ぐ渡り廊下
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庫裡の正面に設けられた唐破風の庇。こちらは本堂ほど軒が深くないため、装飾としてだけではなく、機能的にも必要だったのか?

こうして、悟りを認められた道元は、曹洞派の禅を伝灯し、51代目の仏祖となりました。

教えを伝えた弟子の証明として如浄から「菩薩の戒律」を授与され天童景徳寺で修業を続けましたが、翌宝慶3年(1227年)、入宋5年目、道元27歳の時、帰国が許されました。

そのとき如浄は次のように遺誡した(戒めた)といいます。

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庫裡の唐破風屋根ディテール

「国王大臣に近づくな。都市に住まず、山林に住め。大勢の人に広く教えを伝えるより、少数でも本物の人にだけ本当の教えを伝えるほうが大切だ。一人でも半人でも指導して本物の教えを伝えなさい。君は後輩だが本物の風貌がある。仏の命を養いなさい。」と。

この言葉がのちに道元が、京都を離れ、越前の山に入るときの支えになったといわれています。

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庫裡 拝観入口

この秋、道元は天童景徳寺を去り、宋で亡くなった明全の遺骨を携えて京の建仁寺に戻ります。(この時の帰国船の同乗者には瀬戸焼の祖の加藤景正がいたといわれます。)

道元の噂は日本にも伝わっていて、空海や最澄の時のように新仏教の招来として期待されており、本人にもその自覚がありましたが、仏像も経典も持たず、空手(くうしゅ)で帰郷しました。

そのときの心境を道元はこう語っています。

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上の写真から90度左を振り向くと、本堂に通じる廊下がある。

「私はかりそめに天童寺の如浄禅師にあったが、この命のままで、眼は横に並び、鼻は縦についているという、当たり前のことを確認できた。そして最近空手(手ぶら)で日本に帰ってきた。だから特別これが仏教だなどというものはない。そして、縁に任せて月日を過ごした。毎朝陽は東から出て、毎晩月は西に沈む。雲が晴れると山がよく見え、雨が通り過ぎると四方の山が低く見える。3年に一度閏年があり(太陰暦)、明け方になれば鶏が鳴く。」

これが道元禅師が伝えた禅だといいます。

眼が横、鼻が縦というのは、自然の当たり前のもの、事実を事実として認識して自我を差し挟まないことを例えています。これは仏教の基本で「如実知見」というそうです。

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庫裡 拝観入口奥の土間(台所) (足元が暗くて躓いた人がいたのかもしれないが、LED照明が結構うるさく、もう少し工夫があってもよいかと。一つ上の写真の空間も同様。)

禅宗では、台所が仏の命の場であるとされています。道元はものには命があるのだから、飯や粥に「お」の文字をつけなさいといったそうです。我々が「ご飯」「お米」「お粥」など、相手のものでもないのに食品に尊敬語を使うのはこの影響なのでしょう。

また、道元が中国体験で伝えたことの一つが、顔を洗う意義と、歯を磨くという仏教の習慣だといいます。日常的な行為は悟りの維持だといいます。

日本において洗顔歯磨きが庶民に定着したのは近代以降のように思われがちですが、そうではないようですね。

このように現在の我々日本人の習慣には、禅宗の教えに根差すものが多くあります。

例えば、われわれ日本人は、お茶碗を手でもって食事をするのが正しい礼儀作法だと思っていますし、小さな頃からそのようにしつけられます。しかし、韓国に行くと、器は食卓の上に置いたまま食べるのが作法であり、手で持つのは失礼だとされます。このためか、韓国では、汁物を飲むために、箸(チョッカラ)以外にスプーン(スッカラ)が必ず食卓に並びます。

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韓国のスッカラ(匙)とチョッカラ(箸) 置き方も日本と異なり縦。

禅宗では背筋を伸ばして食事をするのが正しい作法とされているため、日本では器を手でもって食べる習慣が定着しましたが、韓国ではむしろ儒教の影響が根強いため、相手の前で器を手で持つことがマナー違反になるのだと聞いたことがあります。(なぜ器を持つことが失礼になるのかの詳細は不明)

ちなみに韓国での仏教徒の人口比は約2割であり、今では約3割を占めるキリスト教に次ぐ第二位の宗教となっています。

それに対して、ブリタニカ国際年鑑2013年版では日本人の99%が広義の仏教徒とされているそうです。(Wikipediaによる)

13世紀に道元が著した「赴粥飯法」は禅宗寺院における食事作法を詳細に規定していますが、肘をつかない、音をさせてものを食べてはならないなど、現代の作法とされるものを既にほとんど網羅しています。

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庫裡の縁側(廊下)

日本人の礼儀作法や精神文化と深い関わりのある「茶道」も、禅から生まれたものです。

15世紀後半に村田珠光が、それまで貴族や庶民の間で行われていた飲茶の習慣や全員の茶礼の法式をまとめて、現代の茶道の原型となる茶の湯を創始しました。四畳半の茶室を考案した珠光は一休宗純への参禅を通じて禅の精神に傾倒し、茶禅融合の方向に踏み出しています。珠光の孫弟子にあたる武野紹鷗はやはり大徳寺の大林宗套に参じ、茶と禅の融合をさらに進めました。珠光の茶室をさらに簡素化し、庶民的で粗末な道具を用い、侘び茶への志向を明確にしていきました。堺の町衆に広まった茶の湯は、千利休らが信長・秀吉に重用されることで大名の間にも広まり、古田織部小堀遠州へと継承されました。

利休が秀吉に切腹させられたことにより、千家は改易となりましたが、得度して大徳寺(臨済宗)に入っていた孫の宗旦に再興が許されました。宗旦は利休の侘び茶の伝統を重んじ、大名の招きを拒んでいましたが、時勢を鑑みて、子息たちを、紀州徳川家、加賀前田家、讃岐松平家につかえさせ、これがそれぞれ、表千家、裏千家、武者小路千家、いわゆる三千家のはじまりとなりました。各家元の名に「宗」の字がつくのは、大徳寺で得度して襲名する証です。

やがて茶道は全国の武家・公家・僧侶から、富商・豪農の間に普及していきましたが、遊芸化や道具に凝る風潮への反省から、精神文化としての「茶道」という意識が高まり、『南坊録』や『禅茶録』といった、あらためて茶禅一味を説く茶書が著されたのです。

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渡り廊下と本堂の妻面 ここの庭は小高い山を借景にした素朴なものですが、苔寺で有名な西芳寺の作庭をした夢窓疎石も室町時代を席巻した五山派の大立者であり、嵐山天龍寺の開山となる禅僧でした。

この縁側の奥に東司(禅宗でのトイレの呼び方)がありますが、道元は『正法眼蔵洗浄』の中で、衛生の大切さを説きました。

生活文化の中で、衛生は仏法の修行であると道元は言い、「洗面」や下の始末をする「洗浄」も、悟りの修行として大切にしました。

12世紀後半に作成された『餓鬼草子』には、当時の庶民の姿が生き生きと描かれています。当時のトイレ事情は非常に不衛生で、その中では男女が、陰の方で足が汚れないように高下駄を履いて排泄し、餓鬼(これは想像上の存在)が糞尿をあさっている様子が見られます。一方『源氏物語』などでは、姫は室内で箱の便器に用を足していたと書かれています。

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餓鬼草子』(国宝:東京国立博物館蔵) 地獄の餓鬼道を主題にしているが、平安時代末期から鎌倉初期の不安定な動乱期の日常が見て取れる。

仏教では、自立の生活をするために、仏陀が指導した生活の規律を丹念に伝えてきました。それは『三千威儀経』などの経典や「」にまとめられており、それが中国禅の『禅苑清規』などに再編集されていきました。それらを踏まえて道元は『正法眼蔵洗浄』として説きました。

『正法眼蔵洗浄』で道元は、洗浄の具体的な方法を説きました。ころもの脱ぎ方や、東司で人と出会った時の挨拶の仕方、用の足し方、手を清潔に洗う方法といった東司での作法や、頭髪や爪をきれいにすることの大切さなどを丁寧に説明しています。

用足しの後、手を洗わずに仏を礼拝したり、人の礼拝を受けたりしてはいけないとしています。それが仏教だといっているのです。

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19世紀前半までのフランス・パリは、アパートの上の階の窓から糞尿を石畳の街路に投げ捨てていたので、悪臭に満ちた不衛生な都市だったといいます。中世ヨーロッパでペストが大流行したのもこのことと無縁ではないでしょう。こうした状況が劇的に改善されるのは、ジョルジュ・オスマンの都市改造計画を待たなければなりません。オスマンは見えるところの美化だけでなく、見えない部分に対しても「浄化と衛生化」のための都市改造を行いました。

日本では、すでに13世紀の鎌倉時代から、道元が衛生の大切さを説いていました。それが全国的に広まるのにどれほどの時間がかかったのかは定かではありませんが、江戸の街などはとても清潔だったといわれています。日本では中世から農業の生産性を高めるために下肥(しもごえ)を活用していた(=人の排泄物に経済的価値があったので丹念に集められていた)という要因もあるでしょうが、道徳的には道元や禅宗の教えの成果といえるでしょう。

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渡り廊下を左に曲がると駕籠のようなものが現れる。
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今からおよそ二百年前、仙台伊達家による全面援助により今の伽藍が再建された。それ以降、当主伊達公が正法寺に参拝の際、この駕籠でお迎えしていた。伊達の勢力がここ(岩手県南部)まで及んでいたとは。小藩が林立していた当時の山形県下の状況とは歴然とした差がある。よくも悪くも、江戸時代の宮城県は伊達一色だったのだな。

道元が宋に渡っている四年間に、日本では、旱魃、飢饉、疫病流行が起こり、建仁寺も緊張感に欠け風紀が乱れつつありました。帰国の年の2月には京都大地震と寒波、帰国の翌年には鎌倉大地震、京都大風雨と洪水、その次の年も鎌倉大地震がありました。また、国家体制の仏教と民衆救済型の仏教の対立が騒乱にまで発展していました。

帰郷したのち足掛け四年にわたり建仁寺に滞在しましたが、新興宗教が神の怒りを買ったため、災害や混乱が起こったという噂が立ち、道元は襲われ、京の町から出ていかなければならなくなりました。(第一回禅宗弾圧)

31歳の道元は建仁寺から6~7キロ南の山城(京都府)の深草にあった極楽寺別院安養院に閑居しました。この翌年からこの地で道元は『正法眼蔵』シリーズ第一巻『正法眼蔵弁道話』を執筆します。この後20年にわたり『正法眼蔵』という題名をつけた法話を書き続けます。

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本堂内部・外陣  内部も白木で無彩色、大迫力の空間。

道元34歳の時、藤原教家と正覚尼の要請を受けて道元は「興聖寺」(こうしょうじ)を開きました。現在の伏見稲荷の近く、日蓮宗別格本山宝塔寺のある場所にあったといわれます。

施設は十分ではありませんでしたが、日本初の夏の安居が修行されました。90日の安居の間に道元の説法が行われました。

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釈迦涅槃図

山城の国に「興聖寺」を開き、十数年の歳月を過ごしたのち、道元は44歳の時に突然ここを捨てて、越前の国(福井県)に行くことになります。その一因には比叡山からの弾圧もあったようです。

近江の朽木村の領主佐々木信綱から、承久の乱で戦死した一族を供養してほしいと頼まれた道元は村に立ち寄り、1243年、もう一つの興聖寺の建設が始められました。道元が越前に去ったあと、もとの場所にあった興聖寺は延暦寺の弾圧を受け荒廃し、住持四代で廃寺となってしまいました。その興聖寺は江戸時代になって復興され(1649年)宇治に復興されました。滋賀と宇治に二つの興聖寺は現存していますが、元の場所には興聖寺は残っていません。

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本堂内部・内陣 須弥壇

道元は公家社会とも交流するようになっていましたが、中国の師である如浄の「都会に住むな。権力に近づくな。本物の僧侶を育てよ。」という教えに従い、越前に移り住むことになりました。

多くの新宗教が不条理な弾圧をされてきた事実を見てきた波多野義重は、その危険を一番よく知っており、自分が地頭を務める越前志比の庄への移転を勧めました。如浄の出身地が「越の国」(現在の浙江省・天童寺に近い)であったことも関係して、同じ文字の越前を勧めたとも考えられています。

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道元は、仮宿として、寛元元年(1243)7月末に、志比の庄の古寺禅師峰に入りましたが、説法はやめませんでした。次に入った吉峰寺でも説法を行いました。その間、大仏寺(のちの永平寺總持寺とならぶ日本曹洞宗の大本山)の建設準備が進められました。1244年7月に開堂供養が行われ、1246年6月に傘松峰永平寺と改められました。中国に仏法が伝わったのが後漢の永平年間(西暦58~75)であることから、道元はこの名をつけたそうです。

永平寺(Eiheiji)の勅使門
永平寺 勅使門
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外陣を振り返る。近年の修復の成果か、内部の木が、200年前の建築にしては白くてすがすがしい印象。よく見ると右手の構造体には鉄骨の補強材が加えられている。

鎌倉に建長寺という、曹洞宗と同じ禅宗である、臨済宗建長寺派の大本山があります。(けんちん汁は建長寺の修行僧がつくっているからその名がついたという説があります。)

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建長寺創建当時から残る鐘楼国宝:今年1月10日訪問) 比較的小規模ではあるが、これも茅葺だな。

1248年、道元49歳の時、一説では、蘭渓道隆(1213~1278:宋の禅僧)と鎌倉で面会し、道元は道隆を建長寺開山(創始者)に推挙したといわれています。道隆は日本に渡る前、天童景徳寺で安居中に、20年前に日本から来た道元という僧のことを聞いていたらしいのです。

1246年に蘭渓道隆は九州・大宰府にわたり、そののち鎌倉で北条時頼の帰依を受け、建長寺の開山となりました。しばらくして、京都の建仁寺に住み、また鎌倉に戻って、鎌倉禅の基礎を築きました。

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坐禅堂 修行の一つの中心である坐禅が行われる場所。曹洞宗の坐禅は壁に向かって坐り、臨済宗では壁に背を向けて坐る。前者は「黙照禅」といい、坐禅を悟りそのものととらえ、悟りにいたるための手段とは考えない立場をとる。後者は「看話禅」といいあくまで与えられた公案を工夫参究するために坐禅をする立場。臨済宗の道場ではこの方法で坐禅をし、師の部屋(方丈)へ赴いて答えを認めてもらう。これを独参という。「只管打座」(しかんだざ)に代表される道元の禅風を継ぐ、ここ曹洞宗正法寺では、当然、ただ無心に坐る「黙照禅」が行われている。

「正法寺専門僧堂 開祖無底良韶禅師以来六百数十年、変わることのない修行が続けられている。かつては東北の本山としての格式をもっていた。現在も曹洞宗僧侶養成の道場として、日々厳しい修行が行われている。市街地より遠く離れた深山幽谷の当地。まさに修行に最適の地である。」(公式リーフレットより)

ここでも夏の安居は行われているのでしょうか?

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本堂正面の扉越しに庫裡を見る

1248年11月1日に道元は傘松峰を吉祥山と改め、吉祥山永平寺としました。

建長4年(1252年)、53歳の秋から体調がすぐれなくなった道元は、仏陀の仏弟子の慎みのあり方を説いた「八大人覚」に想を得て、最後の説法として翌1月『正法眼蔵八大人覚』を示し、『正法眼蔵』シリーズを整理・編集し、締めくくります。

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庫裡全景

道元は住職の座を懐奘に譲った後、永平寺を去り、京に向かいました。8月15日、京の高辻西の洞院通の覚念の屋敷に入ります。

そのとき道元が中秋の名月を見ながら詠んだ歌

「また見んと おもひし時の 秋だにも 今宵の月に ねられやはする」

何十年かぶりに都で名月をみる秋であるが、それもこれが最後かと思うと眠れないという、老病の身になって故郷に帰り、落ち着きと死の予感が入り交じった心境を表しています。

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山門跡から惣門(重要文化財)をみる

8月27日、道元は病床から起き上がって室内を静かに歩きながら、『法華経』の「如来神力品」の一説を詠んだといわれます。

そして、8月28日の夜明け前、遺偈(ゆいげ)(僧侶が死に際して自己の心の境界を表現すること)を書いて、筆をなげうって入滅したといわれています。

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庫裡とその手前にある鐘楼を振り返りながら帰路へ

その時の道元の遺偈

五十四年、第一天を照らす。

箇の孛跳(ぼっちょう)を打して、大千を触破す。  (孛は正しくは、足偏の「足孛」)

咦(い)

渾身覓(もとむ)る無く、活きながら黄泉(こうせん)に陷(お)つ。

 

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「私の人生はひたすら第一天、すなわち仏法を求め照らし続けてきた。この命、この場から跳び上がって、この迷いの三千大千世界をぶち破ろう。ああ。全身求めるものはもう何もない。この人生で見続けてきた仏法を見続けてあの世に行こう。」(現代語訳)

(三千大千世界の意味:人間は自分の世界だけが正しいと思い込んでいる。しかし、他の者には他の世界が千世界もある。これを小千世界という。しかしもっと多くの自分の知らない世界があるに違いない。それを小千世界かける千で中千世界という。しかし、さらに多くの世界に私たちは支えられているに違いない。そこでさらに千をかけ、大千世界という。千を三回かけるから「三千大千世界」というのだそうです。つまりこの世は無限大に支えあっているということ。)

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惣門前に戻る

道元の没後百年を経て、越前や京から遠く離れたみちのくの地に、正法寺は創建されました。道元信仰が広く大衆に受け入れられ、禅の授戒が全国に広まっていった証でしょう。

私も、正法寺というお寺があること自体、今回初めて知ったのですが、日本にはまだまだ知らない(広く知られていない)名建築があるものだと思いました。

茅葺の寺院というのは、なんとも不思議なものだと最初は思いましたが、この地域の風土に根ざしており、また、道元の開いた曹洞宗の教えを、日常生活の中で実践する修行の場としては、瓦葺よりもむしろふさわしいような気も、次第にしてきました。

正法寺を訪れ、『正法眼蔵』の作者であり曹洞宗の開祖、道元について調べるうちに、その教えが、宗派を問わず日本人に広く浸透し、文化的影響を与えていることも知ることができました。

国際的禅学者・鈴木大拙は1921年「イースタン・ブディスト」という英語雑誌を創刊し、禅を「ZEN」として海外に広く紹介し、今日では東洋の思想としての禅は、宗教の壁を超えた交流の担い手になっています。

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冒頭で書いた「挨拶」の本来の意味ですが・・・

」は積極的に突き進むこと、「」は相手に切り込むという意味で、大勢の人が押し合いながら突き進む意味から、挨拶はもともと禅宗で修行僧が切磋琢磨して励むことを指したのです。転じて、修行僧の悟りの深さや力量を点検するために、問答を仕掛けることをいうようになり、相手を鋭く詰問することを拶語などといいました。

今回「正法寺」を訪れ、向き合ったことは、真剣勝負の禅問答としての「挨拶」そのものでした。

岩手に訪れる機会を与えてくださったJIA岩手地域会の皆様、案内してくださった六本木さん、あらためて感謝申し上げます。

(文中の道元と曹洞宗、禅に関する記述は、『道元』中野東禅著、『禅』中尾良信著(共にナツメ社)を参照または引用しています。)