前回紹介した、歌懸稲荷神社の境内の一画に、ちょっと神社には似つかわしくない、胸像が設置されています。

彫刻家、新海竹太郎(1868~1927)の銅像です。

私も山形に戻ってくるまで知らなかったのですが、山形市出身の彫刻家で、日本における近代彫刻の礎を築いた一人とされる人物です。

東京大学建築学科の入っている工学部一号館の前庭に立つ、イギリスからやってきた日本建築界の大恩人、ジョサイア・コンドル(東京駅の設計者である辰野金吾の先生)の銅像も新海竹太郎の作品だそうです。私も学生時代、何度もその前を通ったはずなのですが、情けないことに全然知りませんでした。

In the precincts of Utakake Inari Shrine, there is a sculpture of the great sculptor of Meiji era who was born as a son of the Buddhism sculptor craftsmen house for generations in Tokamachi ,Yamagata. His name is Taketaro Shinkai and he built a foundation of modern sculpture in Japan. The sculpture was made by his nephew, also sculptor Takezo Shinkai.

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歌懸稲荷神社の境内の一画にある、新海竹太郎の胸像。

山形市十日町で代々仏師を営む家の子として生まれました。最初は軍人を志し、19歳で上京、近衛騎兵大隊に入営しました。しかし、士官候補生試験に失敗、失意の日々を送っていましたが、馬に興味を持ち、その木彫を習作したものが隊内で評判を呼び、上官北白川宮の薦めもあって彫刻家志望に転じました。初め後藤貞行に彫技を、次いで浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学び、1896年に軍の依頼により、かつて上官だった北白川宮能久親王騎馬銅像を製作して名声を博します。(北白川宮能久親王は現在の日本オリンピック委員会(JOC)会長竹田恆和の曽々祖父にあたります。(能久親王の子・恒久親王とその妃で明治天皇の第六皇女昌子内親王の子が竹田の祖父)竹田氏は馬術でオリンピックに出場しており、「馬」でつながりますね。)

小倉惣次郎は、明治9年(1876年)に発足した工部美術学校のお雇い外国人の一人、ヴィチェンツォ・ラグーザの弟子です。つまり新海竹太郎はラグーザの孫弟子にあたります。

ラグーザをはじめ、工部美術学校の先生はイタリアから招かれましたが、当時の美術の中心であったフランスではなく、ルネサンス美術の中心であったイタリアから招かれていることが興味深いです。日本政府が明治期に、近代化を推進して欧米との不平等な関係を克服するために、イギリスから、冒頭で書いた建築のジョサイア・コンドルや技師のダイアー、フランスから法学者のボアソナード、ドイツから医学のベルツや地質学のナウマン、アメリカから「Boys be ambitious」で有名な農学者のクラークなどを、お雇い外国人として招聘したのは私も知っていましたが、イタリアから先生を呼んでいたことは寡聞にして知りませんでした。

工部美術学校は、純粋に西洋美術を日本に移植するために、工部大学校の付属機関として設立されましたが、アメリカ人フェノロサによる日本美術再評価の影響や、国粋主義の台頭により、1883年には廃校に至ります。1886年に工部大学校は帝国大学工部大学(現在の東京大学工学部)となり、1889年には官立の美術家養成機関として、岡倉天心とフェノロサにより東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)が設立されます。

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新海竹蔵による 「新海竹太郎」 昭和5年に有志によりつくられたが、戦時中に供出。 現在あるものは昭和30年に再製作されたものです。

新海竹太郎は、1898年に東京美術学校を追われた岡倉天心の日本美術院の立ち上げに参加、その後欧州に渡り、パリを経て、ベルリン美術学校彫刻部主任教授エルンスト・ヘルテルに一年半余り師事し、アカデミックな彫刻技法を身につけました。帰国後、中村不折らによって創設された太平洋画会の会員となり、以後同会の中心的な存在として活躍する。また1904年に同会研究所が創設されると彫刻部の主任となり、朝倉文夫中原悌二郎堀進二など多くの後進を育成しました。甥の新海竹蔵も竹太郎に師事し彫刻家として活躍しています。この胸像は、甥の竹蔵によるものです。

仏像彫刻、伝統的木彫、お雇い外国人によって伝えられた洋風彫刻という歩みを経て、自身が渡欧し直接西欧に触れて修学するにいたった新海の足跡は、日本近代彫刻史そのものの展開に一致します。

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新海竹太郎の代表作「ゆあみ」ブロンズ

新海竹太郎の代表作とされる「ゆあみ」です。「ゆあみ」は明治40年(1907年)の第一回文展に出品され、評判となった作品です。世俗的で身近な題材のなかでも沐浴に通ずる崇高さをも想起させるものを選び、日本人をモデルとして西洋の理想的人体を塑像で表しています。This is Taketaro Shinkai’s representative sculpture  “Yuami (bathing)”

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布の使い方、控えめなポーズには、当時激しかった裸体作品に対する論議への配慮がうかがえます。ラグーザ来日以後のイタリアの影響が主流をなしてきた彫刻界に、ドイツのアカデミックな技法とアール・ヌーヴォー的傾向を示す作風をもたらした一例。 (「ゆあみ」の解説は、日本美術全集21(講談社)による) It was made by German academic technical base and influenced by “art nouveau” .

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新海竹太郎 「老馬」 ブロンズ  “Old horse” Taketaro Shinkai

山形美術館にも「新海竹太郎・竹蔵彫刻室」がありますが、新海竹太郎という偉大な彫刻家が山形から出ていたとはあまり知られていないような気がします。もう少し見直されてもいいのではないでしょうか。

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新海竹蔵(甥) 「婦人像」 木彫  “Woman” Takezo Shinkai

十日町の仏師の家に生まれ日本近代彫刻史を体現した男の銅像は、ひっそりと歌懸稲荷神社の片隅に佇み、変わりゆく山形の姿を静かに見守っているようです。