2018年1月10日 山形の冬の風物詩、「初市」を歩いてきました。

毎年決まって1月10日に、一年に一回だけ、山形市の中心市街地の十日町から七日町までを通行止めにして行われる市です。

江戸時代初期から約400年の歴史ある行事です。

初市の起源 
最上義光公治世の当時、山形には定期の市が立つ市日町があり、それらの市の中心として十日町に「市神(いちがみ)」が祀られた。毎年1月10日に市神祭りとして十日町から七日町にかけて縁起物をはじめ様々なものを売る多くの露店が立ち並ぶようになったのが始まりといわれる。(山形市観光協会公式ウェブサイトより)

主な販売物 
縁起物(初飴、かぶ、白ひげ、団子木、船せんべい、だるま等)
木工品(まな板、臼、杵、はしご等)
野菜、穀類   (出典:同上)

これ以外にも、味噌や、ワカメなどの太平洋側の海産物、普通のお祭りと同じような、お好み焼き、わたあめなどの露店も出ています。甘酒はありますが、瓶入りのものを含めてアルコール類の販売はありません。

十日町にある古いお蔵を改装した、レストランなどの入った施設「山形まるごと館 紅の蔵

その前には獅子舞が。「どうぞ噛まれていってください。縁起ものですから。」頭をガブリと噛んでもらうと運気が上がるという。

初市の入り口のあたりで出会った光景。これ自体は本来の初市とはあまり関係ないと思うが、ひとつのイベントとして盛り上げるためにさまざまな試みがなされているようだ。

商業の株を象徴しての「かぶ」、長寿を表す「白ひげ」

柳の小枝に団子の形をした色とりどりのふなせんべいを付けた「だんご木」

「初市を見に行くと、柳の小枝に団子の形をした色とりどりのふなせんべいを付けた「だんご木」を売っています。昔は出来合い物などではなく、各家々で団子を作り、だんご木に刺したものです。この「だんご木」は地域によって若干の違いがありますが、小正月(1月15日)の行事で、団子さし、団子木飾り、だんごさげ、餅花などと言い、大正時代から昭和の初めころまでは何処でも飾ったものです。「だんご木」の風習は、ある地方で「モノツクリ」と呼ばれているように、物作り本来の意である農作の安全と豊穣を祈る事から始まっており、年の始めの元旦を祝う大正月に対し、秋の実りを祈願する農耕の儀礼や年占いなどは、小正月に行う所が多いようです。また、だんご木や餅花を「まゆ玉」と言う人もいますが、まゆ玉は養蚕の豊作を祈って「みご(稲藁の芯)」に餅を小さくちぎってつけたもので、一緒にするのは行過ぎです。だんご木(九州などではモチキ)は、普通「みずきの木」を用いる所が多く、そのほか地方によっては柳、山桑、ぬるでなども使われているようです。数多い年中行事の中でも、千両箱、宝船、鯛、恵比寿、大黒など縁起のよい紙型やふなせんべいをさげただんごの木作りは、子供も大人も参加する楽しい行事でしたが、世の中が変わるにつれ本来の意味が忘れられ、しだいに省略されていくようです。」(レファレンス協同データベースより)

山形だけでなく、日本各地に、正月や小正月に、これと似た「繭玉」や「餅花」を飾る風習があるようですね。でもこれほど色とりどりなのは珍しいのでは?

草間彌生もビックリ?

歌懸稲荷神社の出張所(?)

山形の打刃物は、最上氏の始祖である斯波兼頼(しばかねより)が山形に入部した南北朝時代、鍛冶師たちを連れてきたのが始まりと伝えられています。江戸時代に入ると、山形藩主の最上義光(よしあき)が鍛治町を置き、鍛冶師を優遇。その後も歴代城主の厚い保護のもと、武器などを製造し、江戸後期には刀剣の名匠・庄司直胤(なおたね)を輩出しました。明治以降は、農具のほか、包丁や剪定鋏なども作っています。(山形県ホームページ「山形打刃物」より)

まな板に、杵と臼

臼づくり

山形市から宮城県仙台へ通じる街道沿いの切畑地区では、約150年前に臼づくりが始まりました。山間地のため木工業が盛んだったこと、周辺に臼づくりに適した木が多くあること、販路が伝統的な山形の初市と仙台で確保されていたことなどが重なり、最盛期の昭和30(1955)年頃には40~50人の臼職人がいたといいます。現在は同地区に住む4名が伝統的な臼づくりを続けています。(山形県ホームページより)

ざる、桶、ほうきなどのいわゆる荒物

籐工芸

日本における最古の籐工芸は千年以上前といわれますが、生活用品として私たちの暮らしに普及したのは明治期に入ってから。東南アジア産の籐が手に入りやすくなったこと、中国から籐家具の製造技術がもたらされたこと、西洋椅子の文化が広まったことで、籐椅子づくりなどが盛んに行われるようになりました。山形での籐工芸は、明治40(1907)年創業のツルヤ商店が伝統的なつる細工技術を活かした籐工芸を作っています。(山形県ホームページより)

縁起物のダルマ(後ろの段ボール箱に「上州高崎」と書いてますね。ダルマは県産ではなく、高崎ダルマのようです。)

初飴もずいぶんと種類が増えたものだ。昔は紅白くらいしかなかったような。きな粉とお茶はあったかな?

初あめ

初市などであつかわれる縁起物。
昔は、山形特産の紅花が豊作で花商いがうまくいくようにとの願いがこめられていた。
形も現在のものとは異なり、紅餅(紅や染料の原料)を花むしろの上に並べて乾燥することから、白紙に水飴を盛った盛飴(旗飴)とも呼ばれた。(山形市観光協会公式ウェブサイトより)

初あめの粘着力は最強で、この時期になると歯の詰め物がとれた子供で山形の歯医者さんは繁盛するとか。

植木を売る露店も

山形市では、毎年5月8日~10日に、国分寺薬師堂の周辺で、薬師祭植木市が開催されます。今は冬なので、植木の露店は多くありませんが、植木市では、数多くの植木が出品されています。

植木市
熊本市・大阪市の植木市と並び日本三大植木市の一つと呼ばれている山形市の植木市。出品される植木の数や種類も豊富で、山形市内の山寺、楯山、鈴川地区を始め、新潟県や埼玉県など県内外より松、伽羅を始め数万点にのぼるさまざまな苗木類が寄せられています。期間は薬師祭の行われる5月8日~10日の三日間で、薬師堂を中心に薬師町通り、そして山形五中東通りなどを延べ約3キロの道路に植木屋がずらりと軒を並べ、鮮やかな新緑の植木や民芸品がお客を出迎えでいます。
1767(明和4)年の『山形風流松の木枕』などの書物に植木市に関する記述があることから、少なくとも江戸時代には植木市が開かれております。
昔から山形には寺院が多く、「坪作り」という庭園を造る趣味も発達してしたので、その需要を充たすために古くから植木市が栄えてきたと思われます。 (山形市観光協会 公式ウェブサイトより)

味噌、わかめなどの海産物も

宮城(石巻)からも出店

三陸から、わかめや昆布

日本一の芋煮会フェスティバル三代目鍋づくりのためのクラウドファンディングのポスターが貼られているテントの下では、

山形市商工会議所青年部から山形名物「芋煮」がふるまわれていました。

私も一杯いただきました。とてもおいしかったし、体が温まりました。本来秋に食べるものですが、冬の芋煮もいいなと思いました。

山形県の日本海側、庄内浜直送の「どんがら汁」

どんがら汁

農林水産省選定「農山漁村の郷土料理百選」で選ばれた山形県の郷土料理。
味噌ベースの汁に寒鱈(かんだら)の身、頭、はらわたを入れ、豆腐、ねぎや大根などの野菜とともに食す鍋料理。寒鱈とは、冬場に産卵のため回遊してくる脂がのり身体が大きい鱈のことを指します。
「どんがら汁」の名の由来は寒鱈の「身とガラ」を用いることから「胴殻(どうがら)」が変化したとされ、魚を余さず丸ごと食べる庄内地方の漁師料理として古くから伝えられてきました。
現在でも、冬場になると庄内各地で「寒鱈まつり」が開催され、学校給食でも通常の献立として食されており、山形県の家庭の味です。(家庭で味わう郷土料理百選より)

山形のB級グルメ?(ソウルフードとも)「どんどん焼き」

どんどん焼き

山形県内陸部のどんどん焼きは、東京で修行した大場亀吉が山形へ戻り、昭和13年ごろにリアカーで販売したのが始まりとされている。ソース味が一般的で、割り箸の周りに巻きつけて持ち運びやすくした所が最大の特徴である。最初はどんどん焼きを経木にのせて売っていたが、熱くて食べにくいために大場は1本の削った木の棒に巻き付けて売るようになった。しかし、後進たちにとっては技術的に難しかったため、2本の木の棒、あるいは割る前の割り箸に巻き付けるように変化したとされている。(Wikipedia「どんどん焼き」より)

玉こんにゃく

県内では観光物産館や道の駅(ドライブイン)、そればかりか祭り・催し事などがあれば大抵の場所で玉こんにゃくの店舗が出店されている様を見かける事だろう。芋煮会(町内会、レクレーション活動など)はおろか学園祭、ビアパーティなどでも玉こんにゃくが登場するので、玉こんにゃくという料理が山形県人にとって深く定着している事がお解かりと思われる。要するに、山形で人が集まる場所があればそこに玉こんにゃくは必ずあると言っても過言ではないのである。
山形では古くから定着している料理であるため、県内には玉こんにゃくを作っている店が数多く存在し、中には十余年どころか百余年に渡り作り続けている老舗もある。(ニコニコ大百科より)

山形名物の肉そばは冷たい方が有名だが、さすがに今の時期、露店では「あったかい肉そば」だ。

肉そば

冷たい肉そばの定義を簡単に説明しよう。しょうゆ味を基にした濃厚な鶏ダシの冷たい汁そばで、山形特有の黒っぽくてコシの強いそばを入れ、具には肉の硬い親鶏と刻みネギだけを使う。他の具材は一切入れない実にシンプルなそばだ。つゆは鶏の風味を損なわない程度にカツオと昆布をきかせ、そばはつなぎ入りの田舎そばを使う。(NIKKEI STYLE より)

初市は、文翔館(旧山形県庁)の一歩手前まで。

私が以前山形に住んでいた30年前に比べたら、露店の数は少なくなったように感じましたが、大勢のお客さんでにぎわっていました。

その当時とは世相が大きく変わっているにも関わらず、400年の伝統が今も生き続けていることは、本当に素晴らしいことです。商工会議所、自治体、警察、地元の商店街などが協力しあって成り立っている様子が窺われました。これを維持している人々の努力に心から敬意を表します。

客層を見ていると、観光客というよりも、地元の人がほとんどのような気がしました。もう少し初市も有名になって、全国から人々が訪れるようになるといいのですが。

上で取り上げた、露店の一部を見てもわかるように、初市には、山形の魅力が凝縮されているように思いました。でもそのことを、外からきた人に知ってもらう工夫がいま一つのように感じました。

たまたま午後に、仙台から私の事務所に来客がありましたが、「市内が渋滞していましたが、今日は一体何があったのですか?」と初市のことを全くご存じなく、少し残念に思いました。

「初市」自体は、山形だけでなく、各地にそれぞれの形で残っている行事かもしれません。だから、「外から人を呼ぶ」という発想は少し違うのでは?という意見もあるでしょう。

しかし、初市が、今後も活気に満ちた山形の冬の風物詩であり続けるためには、仮に将来公的な支援が無くなったとしても、自力で回っていける仕組みをつくっていくべきではないかとも思います。そのためにも観光としての魅力を高め、市外はもとより県外からも人を呼べるように考えてゆくことも必要なのではと感じました。もちろん、山形の良さを知ってもらえる絶好のチャンスだということもあります。

「山形はいいものがたくさんあるのにもったいない。もっと宣伝すればいいのに。」 県外から訪れたり、赴任した人たちからよく耳にする言葉です。いつも当たり前のように接していると、他にはない貴重な文化的財産がそこにあることになかなか気づけない、というのは、どの地方都市でも共通したことかもしれませんが。

霞城公園付近では、初市にあわせて、「第3回 ウィンター・フェスティバル」が開催されました。こちらでは、地酒やワインも提供されていたようです。

そのメイン・イベントは、「街なか全部が桟敷席」と銘打った、冬の花火大会。初市は17時までですが、最近は18時から約30分間の花火で文字通り「打ち上げ」をするのが定着しつつあります。この大会は市民の寄付に支えられています。

(→山形新聞の記事1、2