1月初旬、鎌倉に行ってきました。今からほんのひと月ほど前ですが、ずいぶん昔のことのように感じられます。

On January 10th, I went to Tsurugaoka-hachimangu Shrine in Kamakura. Kamakura is located in Kanagawa prefecture next to Tokyo and called “home of Samurai” . In 12nd century, Minamoto-no-Yoritomo, a leader of  one of powerful samurai groups became Shogun and built a capital of the samurai oriented Japanese government in Kamakura.

“Tsurugaoka-hachimangu shrine was not only religious facility but also the center of Kamakura government and almost all public events were taken place here”, a famous Japanese novelist Ryotaro Shiba said.

写真がまだ正月のような雰囲気なのはそのせいです。

でも日本と違い、中国・韓国では今(今年は2月8日〜)が「お正月」で、お祝いや家族旅行の様子がTV等で報じられていますね。会社・学校等の連休(お正月休み)や、家族・親族の年始の行事も今がそのシーズンです。(中国では春節と言われます。)

今年も旧正月に合わせて、中国、台湾、韓国から大勢の観光客が日本に押し寄せていますね。観光立国を目指し、「インバウンド消費」を拡大したい日本としては、お客さんに喜んでいただいてリピーターを増やすためには、たいへん重要な時期ですね。

日本も明治になって1873年(明治6年)に新政府がグレゴリオ暦を採用するまでは、今の時期がお正月だったんですね。太陽暦の1月1日をお正月として受け入れることはすぐに進んだのでしょうか。それとも、日本中に広まるまでにしばらく時間がかかったのでしょうか。

国立天文台の暦Wikiにはこんなことが書いてあります。

「・明治5年(1872)11月9日 改暦の布告

明治5年12月3日を明治6年1月1日とし、太陽暦の採用に踏み切りました。以後、太陽暦は新暦、天保暦は旧暦と呼ばれることになります。

・改暦の理由

時代が変ったことを印象付け、西洋に追いつこうという意図からも太陽暦の採用は合理的といえますが、わずか20日後に1000年以上も続いた太陰太陽暦をやめようというのは無謀な話です。

それでもなお改暦を断行した理由は経費削減にあると大隈伯昔日譚に記されています。そのままでは明治6年にうるう月があり、月給制を採用した新政府は1か月余計に給料を出さねばならないはずでしたが、太陽暦を採用することでその1か月、さらに2日間だけの12月もあわせて合計2か月分の給料を節約できたことになります。

・ 改暦の後始末

こうして太陽暦改暦は断行されましたが、啓蒙にはなおしばらくの時間を要し、明治42年暦まで旧暦も併記し続けられることになりました。」

中国・韓国のように旧正月で祝うのが文化の継承という意味では正しいような気もしますが、当時の日本は西洋の文明を受け入れ、近代国家群の一員となることに必死だったので、やむをえない選択だったのかもしれませんね。それにしても改暦を急ぎ断行した理由が、明治政府の財政難にあったとは…。こういうところは今も昔もあまり変わっていませんね。

以下の写真中で掲げられた「迎春」の文字にはちょっと違和感あるかもしれませんが、旧正月ということでお許しいただきたいと思います。(笑)

鎌倉に鶴岡(つるがおか)八幡宮があります。前回まで、山形の庄内の鶴岡(つるおか)の話題でしたが、両者の間には直接的な関係はないようです。(ご存じの方いらっしゃればお教え下さい。)

別に初詣が目的ではなかったのですが、1月10日、鶴岡八幡宮に訪れました。写真を見ていただければわかりますが、正月も十日になるのに、三連休中日の日曜ということもあり、ものすごい人でした。

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鶴岡八幡宮 公式パンフレット 表紙

「頼朝にとって鶴岡八幡宮は、宮廷のつもりだった。重要な公的行事のほとんどを、この神社でおこなった。」と書いたのは作家・司馬遼太郎です。

鶴岡八幡宮は、現在は初詣などでにぎわう、東日本有数の、宗教(神道)と観光の拠点ですが、今から800年ほど前には、単なる信仰の場ではなく、日本の政治の中心がここにあったということですね。

確かに、他の日本の代表的な神社、そして寺院とも違う、建物やその周辺環境(境内)を超えた、都市レベルの強い軸線と象徴性をもっているように思います。

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鶴岡八幡宮 全景 (公式パンフレットより)

以下カギカッコ内、司馬遼太郎の紀行文「街道をゆく・三浦半島記」からの引用です。

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「鎌倉の鶴岡八幡宮は、山を背負い海に臨み、朱鎌の色があざやかで、はればれとしている。源頼朝が鎌倉に入ったのは治承四年(1180)十月六日であった。」

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三の鳥居より本殿方向を見る。 三の鳥居は、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊するまでは、一の鳥居、二の鳥居とともに徳川四代将軍家綱によって寄進(1668年(寛文8年))された石造鳥居だった。現在の鳥居は鉄筋コンクリート造。

「ときに、平家と対峙している。頼朝を追討すべく平維盛の大軍が束下している。それが駿河(静岡県)に入ったという報に接するのは、頼朝がこの地に入って数日後のことだった。」

 

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鶴岡八幡宮の太鼓橋は、1182年(寿永元年)、源平池が造営されたときに架けられたものと考えられている。  将軍家が鶴岡八幡宮に参拝するときは、この橋で輿を下乗したという。  当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかばし)と呼ばれていた。

「頼朝には、〝首都〟を造営するなどというゆとりはなかった。ただ粗々には左右に話したかと思われる。」

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太鼓橋より本殿を望む。太鼓橋は、1923年(大正12年)の関東大震災によって全壊したため、1927年(昭和2年)に架け替えられた。 橋脚、橋桁は鉄筋コンクリート製、橋床版、欄干は石製、擬宝珠は青銅製。  「太鼓橋」は、地上の人と天上の神とを結ぶ架け橋で「反り橋」とも呼ばれる。

「なによりも八幡宮を造営することを、頼朝はいそいだ。」

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徐々に本殿に近づいてゆく

「頼朝が、なによりもまず八幡宮をきらきらしく建てることを急いだのは、自分が清和源氏の嫡流であることを満天下に誇示する必要があったからだろう。」

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舞殿(手前)と本殿(奥)

「ついで、大いなる道路を一筋だけつくるべく命じた。」

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舞殿の左手にある手水舎

「いまの若宮大路である。鶴岡八幡宮から由比ヶ浜までまっすぐに通り、わずか1.8キロメートルしかない。」

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週刊「街道をゆく・三浦半島記」(朝日新聞社)より

「ただ路幅は、騎馬武者二十騎が横ならびで駈けられるかと思うほどにひろい。」

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舞殿(下拝殿)仁大門を入ると広場があり、そこに舞殿が設置されています。1193年に造られた、唐破風入母屋造りの建物です。源義経の側室で舞の名手であった静御前が、頼朝の命令で舞を舞った場所とされています。

「八幡宮の殿舎と広い道路一筋が頼朝の〝首都〟設計の背骨だった。」

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舞殿で拝む家族 本宮へと続く大石段の下にある朱色の鮮やかな社殿。源義経が愛した静御前が、頼朝の前で義経を慕う舞いを披露したと伝わる若宮廻廊跡に建てられていまう。毎年4月に行われる鎌倉まつりでは「静の舞」が奉納され、その他にも年間を通じて様々な儀式・行事が行われています。

「これを平安京から翻訳すると、八幡宮が内裏で、若宮大路が朱雀大路だという想像が、妥当におもえてくる。」

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大石段を上る人々

「関東の武家の首都の鎌倉にあっては、鶴岡八幡宮こそ内裏だったのである。」

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ガードマンがロープで規制して、安全を保っています。

「ただおかしみは、首都らしい設計が、〝内裏〟とこの大路しかなかったことである。他に尾鰭はつけなかった。」

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現在の御本殿は、文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営による代表的な江戸建築で、 若宮とともに国の重要文化財に指定されました。 (1996年)深い杜の緑と鮮やかな御社殿の朱色が調和する境内には源頼朝公、実朝公をお祀りする白旗神社をはじめとする境内社のほか、 静御前ゆかりの舞殿や段葛が八百年の長い歴史を伝えています。祭神の応神天皇、比売神、神功皇后を祀る社殿。

「尾鰭をつけないというあたりに、頼朝の思考法がうかがえる。」

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大石段を上りきって本殿前から舞殿をみる。 まさに黒山の人だかり。本殿は61段の大石段上に建ち、朱色の鮮やかな楼門には「八幡宮」の額が掲げられています。

「主題さえ世間にわかればよく、他は無用の装飾として無視した。」

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本宮楼門にある「八幡宮」と書かれた額。「八」の字が神聖な神の使いとされる鳩になっています。

「くりかえすが、この狭溢な地に八幡宮が大きすぎ、それ以上に若宮大路は巨大道路で、全体とのバランスを欠いている。」

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建物内外の上部壁面には鳥獣草木が描かれ、精巧な彫刻も施されています。

「が、頼朝にとっての思想的要点は得ている。」

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斗栱ディテール。

ここまでで、司馬遼太郎の紀行文は終わりです。

要は、鎌倉は「尾鰭をつけない」という頼朝の思考法がよく表れた都市だということです。

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以下、鶴岡八幡宮の詳細についてです。

鶴岡八幡宮は、武家源氏、鎌倉武士の守護神で、鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社です。

境内は国の史跡に指定されています。京都の石清水八幡宮を厚く信仰していた源頼義が前九年の役で奥州の安部氏を平定した後、康平6年(1063)8月、京の石清水八幡宮を鎌倉由比ガ浜郷に勧請し社殿を創建しました。

その後、治承4年(1180)、源頼朝が鎌倉入りすると、由比ガ浜の八幡宮(元八幡)をこの地、小林郷に移しました。そして社殿を中心に幕府の施設が形作られていきました。さらに、鶴岡八幡宮を源氏の氏神として信奉するようになりました。鶴岡八幡宮は鎌倉武士の守護神であり、栄華を誇った源氏の氏神でもあるのです。

建久2年(1191)には武士の守護神の宗社に相応しく上下両宮の現在の姿に整えました。

 

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拝殿

鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがあります。江戸時代までは神仏習合の寺院でしたが、明治の神仏分離で多数の仏堂は撤去されています。

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拝殿 多くの絵馬がかけられている。

鎌倉に八幡宮を祀ったのは、八幡大神が清和源氏の氏神であり、源頼義、義家、頼朝らが鎌倉を根拠の地としたからです。源頼朝は源氏再興の旗を上げ、治承4年(1180)10月、鎌倉に入ると先祖頼義の祀った鶴岡若宮の神前に詣でて籖をひき、神意を伺って現在の地に奉遷しました。その時のことは「吾妻鏡」の治承4年(1180)10月12日の項に見えています。「辛卯快晴。寅の尅、祖宗を崇(あが)めんがために、小林郷の北山を點じて宮廟を構へ、鶴岡宮をこの所に遷したてまつらる。」この鶴岡宮とは後冷泉天皇の御代、康平6年(1063)、源頼義が『前九年の役』で奥州を平定した帰途、かねて御守護を祈って出陣した石清水八幡宮を鎌倉由比郷鶴岡の地にひそかに勧請して社殿を建て、永保元年(1081)2月に頼義の嫡男八幡太郎義家が修復を加えて祀っていた社でした。

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拝殿 側面

然しこの頼朝の祀った社は、軍陣の傍取急いだ奉行であったので、茅葺であり、柱も黒木のままの応急の御造営でした。頼朝はその年、富士川に平家の大軍を破るとすぐ12月には鳥居を立て、翌治承5年(1181)5月から大改築を行いました。鎌倉には然るべき大工がいなかったので、武蔵国浅草の大工を召寄せて造営に当て、8月15日には正遷宮を行いました。頼朝は更に社頭の整備にとりかかり、養和2年(1182)3月、御台所政子の安産祈願のため、鶴岡社頭より由比浦に至る曲横の道を真直に改めて参詣道(現在の段葛)を造りました。四月には源平池を掘って水を湛え、社殿を中心に左右に広がる林泉を整えました。三島社・熱田社など頼朝ゆかりの諸社の末社を境内に奉祀するなど、社頭は漸次面目を新たにしています。9月には源氏ゆかりの三井寺より中納言法眼円暁を迎えて、初代の別当職に補しました。円暁は後三条天皇皇子であったので、宮法眼とも呼ばれる知識でした。別当職を長官とし、祭祀組織も整い、社頭諸施設、年中祭祀など一段整備されたことはいうまでもありません。流鏑馬・相撲などの神事、放生会などの奉行が始まり、静御前の舞った若宮殿もこの時期のものでした。

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拝殿より幣殿を望む。本殿は幣殿と拝殿を連ねた流権現造で、廻廊が左右に伸びて本殿を囲む形となっている。

建久2年(1191)3月4日、町辺に起きた大火に遭って、不幸にも若宮社殿・廻廊などほとんどが灰燼に帰しました。幕府も難に遭って焼失したが、頼朝は社頭に詣り、わずかに残った礎石を拝して涙にむせんだといいます。直ちに焼け残った別当坊に入って、若宮新造の事を命じています。御復興は早く、全国統一の功成った頼朝は総力を挙げて、幕府の中心と仰ぐ守護神にふさわしい御社殿の御造営に力を尽くしました。大臣山の地を拓いて、一段高く楼門を仰ぐようになったのはこの時でした。

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宝物殿横の廻廊

建久2年(1191)11月21日、鶴岡八幡宮をはじめ若宮・末社に到るまで遷宮を厳粛に斎行しました。この大臣山上の本殿は『始めて八幡宮を勧請し奉らんが為め』のもので、御遷宮の秘儀には、京都より伶人多好方(おおのよしかた)を召して奉仕させています。鶴岡八幡宮の創建を建久2年11月21日と定めているのは、この時が公に石清水八幡宮から御神霊を迎えての御鎮座であったからです。源頼義奉斎の鶴岡宮・鶴岡若宮或は鶴岡八幡宮とも称した社について、「吾妻鏡」が『ひそかに』と記述しているのと対応しているわけです。上宮と下宮、本宮と若宮の今日の姿が定まったのです。こうして鶴岡八幡宮の規模はこの時以来更に体裁を整え、鎌倉幕府の宗社としてその面目を一新したばかりでなく、頼朝の当社に対する崇敬の誠は、皇室になぞらえたと思われます。

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本殿の参拝を終えて、外周部にある石段を下りていく人々

建久3年(1192)七月、頼朝待望の征夷大将軍の任命を受けるに当って、その除書を拝受するのに宮廷の例にならって、勅使は神前に列立し、頼朝の使者三浦義澄に渡し、正装する頼朝に進達しています。鶴岡八幡宮は単に氏神社としての崇敬に留まらず、神前を通じて遠く王城を拝する機能をもつ社と尊んだのです。だから三代将軍源実朝もまた頼朝の例にならい、中納言左近衛中将、同大将、右大臣と昇進する度に、御礼言上の儀礼である拝賀の式を鶴岡の神前で行い、その出向の行装を整えての幕府と鶴岡の社頭とは京風の華やかさに人目をひいています。社頭の殷賑と壮厳については京都から東下りをした人々も眼を見張り、「海道記」・「東関紀行」・「増鏡」・「平家物語」・「源平盛衰記」などの諸書に見えます。殊に「問はずがたり」には、『所のさまは男山の景色よりも海見はるがしたるは見どころありともいひぬべし』と特徴をとらえています。

 

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石段を下りきって、再び舞殿を見る。

北条泰時は「御成敗式目」を定め、鎌倉幕府の治政の基本を示し、『神社を修理し、祭祀を専らにすべき事』を第一条に掲げています。「式目」は頼朝の方針を受け継ぎ、その政策を条文にして幕府の権威を昂めたが、その実施は鶴岡八幡宮に関する限り、北条氏執権期、足利・後北条・徳川の各氏も継承して終始変ることがありませんでした。

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参拝を終え家路につく人々。ちょっと人もまばらになって、出店もあって日本らしい風景。

1月10日でも、初詣に訪れた人々であふれ、「さすが」と思う一方、もともと初詣が目的ではなかったので「なんでこんな時期に来てしまったのだろう」と少々辟易しました。

あるデータでは、例年の初詣の人出は、日本一の明治神宮が約316万人、鶴岡八幡宮が約250万人ですから、大差ないようですね。こんなに多いとは思っていませんでした。でも、面白い経験でした。

鎌倉は「武家の古都・鎌倉」として世界遺産登録を目指しましたが、鎌倉幕府の政治的建造物が残っていないなどの理由で「不登録」勧告がなされ、いったん推薦を取り下げているようです。残念ですね。

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関東大震災で倒壊した八幡宮の建物

関東大震災によって被害を受けてその後再建された神社仏閣が多く、鎌倉時代のオリジナルの遺構がほどんど残っていないことや、乱開発により自然や景観が失われていっていることなど、「不登録」勧告にはそれなりの理由はあるようですが、一日本人として、いつか登録されることを願っています。

物証は少ないかもしれないけれど、今から800年前に征夷大将軍源頼朝の「尾鰭をつけない」思考法がその基礎を形づくった都市として。

次回は、鶴岡八幡宮の境内にあり、1月末をもって閉館した「神奈川県立近代美術館 鎌倉」を取り上げたいと思います。