昌徳宮(チャンドックン)の儀礼の場、王の執務室、王とその家族の生活の場を今まで見てきましたが、最後に後苑(フウォン)を紹介したいと思います。今年9月初旬に訪れました。
Today I will show you “Secret Garden” of “Changdeokgung”, World Heritage of UNESCO, located in Seoul,South Korea. I visited there in this September.
ドラマ「チャングムの誓い」の中でも登場し、チャングムと王が散歩をするシーンの撮影に使われた場所としても知られています。
李氏朝鮮王朝500年の都として栄えたソウルの一番の繁華街である明洞(ミョンドン)から北に2km ほどのところにある昌徳宮の裏には、後苑と呼ばれる代表的な宮殿庭苑があります。李氏朝鮮時代の造園の粋といわれ、伝統的な造景手法がいまもよく保存されています。昌徳宮は正宮である景福宮の離宮として建設されましたが、景福宮が戦災や火災で使えなくなると、国王は昌徳宮で政務を執り生活を送りました。その期間は270年にも及び、正宮である景福宮よりも長かったのです。そのため、昌徳宮と後苑は今でも当時の国王の生活色を濃く残しています。
昌徳宮は1404年9月に第3代国王太宗が造営を命じ、1405年10月に完成しました。その後、王宮の拡張を進め、全ての工事が終わったのは1460年第7代国王世祖の時代です。後苑はその時に王宮の庭園として作られました。宮殿庭苑はどの国でも華美なものが多い。しかしこの庭苑を訪れた人は、王宮の庭苑でありながら華麗なところが全くないことに戸惑いを覚えるかもしれません。また、京都の石庭のような人工的な造園でもないことを不思議に思い、東西500m南北800mにも及ぶ広さに驚くでしょう。ここは、あくまでも美しい自然をそのままに、建築物や樹木、渓流、歩道が自然と一体になるように配置された広大な庭苑です。人工的な面が多い景福宮の慶会楼の池や中国と日本の庭園とは違って、自然にやさしい景色を誇る最も韓国的な庭です。
後苑は、自然の地形に合わせて建てられた、最も韓国的な宮殿としてユネスコの文化遺産に登録されています。かつて「秘苑」(ピウォン)とも呼ばれたこともありましたが、今は昌徳宮の正殿と国王が執務を見たり家族が生活していた便殿と寝殿、東宮を過ぎて後苑に入ることができ、実際には東闕の中で、一般人の出入りが多い開放された領域です。実際に芙蓉池には闕内各司といえる奎章閣があり、暎花堂は、景福宮の慶会楼のように国王が臣下をはじめ、一般の人たちを招待して大規模な宴会を開いたり、特別科挙を実施したり、弓術大会や春塘臺にあった水田で農耕のデモを見せたところです。そして春塘臺の東には、朝鮮時代最高の教育機関である成均館が位置しています。
後苑で最初に出会う空間は、芙蓉亭と周辺の殿閣です。こちらは後苑でも景色が最も優れており、多くの人にきれいな場所として知られています。芙蓉池は昌徳宮後苑の谷に造った池の中で最も大きな規模で四角い形をしており、池の中央に円形の島があります。池の東側には、ここで最も古い建物である暎花堂があり、暎花堂の前方に、今は昌慶宮の垣と大きな木が生えていて暗く見えますが、春塘臺までの広い庭がありました。池の北側には正祖が即位した年に国王の統治を補佐する政策と学問を研究するために建てた奎章閣が入っています。南には、国王が個人的に思索をしたり、暇な時間を過ごすための芙蓉亭があります。池は西北側の谷の水が石漏槽を満たし、溢れる水は池の東側の石壁にある出水口に流れていくようになっています。
(今回も前回と同じく、Culture & History Traveling by Younghwanというブログの記述と、インターネット上の観光ガイドの記述を参考または一部転載しています。)
上の写真の大造殿より上の部分、昌徳宮全体の約6割が後苑にあたります。
後苑は周礼に基づいて建てられた景福宮や中国の宮殿とは別の風水思想が反映された、最も韓国的な宮殿の姿を見ることができる所です。これは昌徳宮が法宮として建てられたものではなく、上王をはじめとする王室の大人がリラックスできる空間として建てられた昌徳宮の歴史から始まったということができます。昌徳宮が与える心地よさは、歴代の王たちに愛好され、文禄の役の後 景福宮を再建せずに昌徳宮を法宮にした動機になったと思われます。
まず、後苑入場口を入ると見えるのが、木々に覆われた自然豊かな道です。 今は道ですが、元々は世子の東宮である重熙堂があった所です。ゆるやかな上り坂になっています。坂を上り、少し下ると目の前に暎花堂(ヨンファダン)が見えてきます。さらに進むとパワースポットとしても有名な芙蓉池が見えてきます。この周辺が第一の領域です。
王の休息空間として使われた場所。前の広場では王が参席する中で科挙の試験が行なわれていました。建物にはかつて歴代王による扁額が飾られていたそうですが、現在は21代目王、英祖(ヨンジョ)によるもののみがかかっています。こちらは本来、王が家臣と一緒に花見をしたり、詩を詠んだりと風流を楽しむところでしたが、第22代王、正祖(チョンジョ)の時代からは科挙の試験場として使用されました。試験の時は王が試験監督をし、横の庭で受験者たちが科挙の試験を受けました。
芙蓉池と宙合楼は、後苑の中でも中心的な場所でした。 宙合楼は、正祖(22代王)が即位した時に創建し王室の図書館として利用され、「天地宇宙と通じる家」という意味があります。
地を象徴する四角い池の中央に天を表す丸い島がつくられた芙蓉池。芙蓉とは「蓮」の別名で、夏場には蓮の花が連なります。また一帯を上から眺めると蓮の花が開いたような形に見えるともいわれます。ドラマ「チャングムの誓い」でチャングムが散策する場面に登場したのもこの一帯。ほとりにたつ芙蓉亭は池に向かって軒が張り出した形で、王が釣りを楽しんだりしたそう。もともとここには池がありましたが、空は丸く、地は角張ってるという陰陽五変説に従って、四角い池を地に見立て、空を象徴する丸い島を造ったといわれています。池の水は地下水や雨が降る時には、西の渓谷の水が龍の頭の石像を通して流れて入って来たりもし、池ではタイやフナを育て、船を浮かべて釣りや船こぎを楽しんでいました。
宙合楼の前には魚水門があり、官僚達の象徴的な門でもあります。この門は大きい門の左右に小さい門が二つあるのが特徴的で、「魚は水から離れて暮らすことができない」という故事成語から国を治めるものはいつも民のことを考えなければならないという教訓が込められているそうです。 正祖の民本的な政治哲学を示しています。。宙合楼の魚水門は、小さな門ですが、国王が主管する空間で三門の形式をしています。魚水門は、国王が出入りする門なので、両側には臣下たちが出入りできる小さな門を置いています。
後苑は太宗(3代目)の昌徳宮の創建当時に造られ、昌徳宮と昌慶宮の共同後苑となりました。文禄の役の時、ほとんどの亭子が燃えてしまって、1623年の仁祖の時から歴代の王たちによって改修ㆍ増築され、現在の姿になりました。後苑は、自然の地形をそのまま生かしながら、谷ごとに人工的な庭を挿入させ、最小限の人為的なお手入れを加えて、自然をより大きく完成させた絶妙な技量を誇ります。 4つの谷にそれぞれ①芙蓉池、② 愛蓮池、③観纜池、④玉流川という庭園が広がっています。 4つの庭園は、中に入って行くほど大きく、開放された所から小さくて秘密の場所へ、人工的な場所から自然な場所へ徐々に変化して、最終的には大きな自然の裏山に繋がります。世界のほとんどの宮殿の庭園は見て楽しむための観覧用であるのに対し、昌徳宮の後苑は、複数の尾根と谷を上り下りしながら、全身で感じる体験の庭だと言えます。また、複合的な機能を収容した場所でもあります。詩を作り、学問を論じ、思索にふける所であり、時には宴会を開き、弓遊びを楽しんでいた所でもありました。王が参観した中で、軍事訓練も行われましたし、王と王妃が民の生業である農業をしたり蚕もしたりしました。
次は第二の領域、愛蓮池(エリョンジ)周辺です。
倚斗閤に入る出入り口。 「金馬門」という扁額がかかっている。金馬門は、中国漢代の宮殿にある出入り口として、皇太子がいることを象徴する。
この奥にあるのが、倚斗閤(イドゥハプ)と韻磬居(ウンギョンゴ)です。
倚斗閤は、愛蓮池の南の丘に北向きをしている小さな建物で、孝明世子が純祖に代わって代理聴政をしていた時期に一人で読書をしたり、休憩をするための空間です。建物は、前面4間で丹青(彩色)も施されておらず装飾がほとんどない地味な士大夫(サデブ)住宅の別棟(サランチェ)の形をしている寄傲軒(キオホオン)と、これに続く昌徳宮で最も小さい1間半の小さな韻磬居で構成されています。愛蓮池の内側には、孝明世子が純祖のために造った離宮の延慶堂(ヨンキョンダン)があります。孝明世子は延慶堂で父王純祖と母のための宴を開いたといいます。孝明世子が暇さえあれば、読書する方だったため音楽や詩を楽しみながら休息をとっていたのではないかと推定されています。
不老門は一枚岩を削りつくられた石門。王の息災と長寿への願いがこめられており、ここをくぐると年をとらないという言い伝えから名前がつきました。門のすぐ左側にあるのが愛蓮池。芙蓉池とは異なり中央に島を置かない形で、奥に東屋である愛蓮亭を配します。
後苑の第二の領域は、粛宗代に造った小さな愛蓮池を中心に広がる空間です。愛蓮池は、一般的な池とは異なり、中に島のない四角い池で四方に長台石で石垣を築き、片側には粛宗代に造られた前面1間の亭子の愛蓮亭があります。このスペースは、主に正祖を見習って改革政治を夢見たが若い年で夭折した純祖の息子の孝明世子のなごりが多く残っている空間です。
純祖の長男孝明世子(1809〜1830)は、聡明で人柄が高く、18歳に純祖に代わって政治を行なっていましたが22歳に亡くなった王子です。ここには粛宗代に建てられた愛蓮亭があって、孝明世子は1827年から、複数の施設を建てて新しい庭を造って学問を研磨し、政治を構想しました。彼が勉強部屋として使用していた倚斗閤は、丹青を塗っていないので地味で、また、読書と思索のために宮殿の中で唯一の北向き建物になっています。1間の愛蓮亭もやはり小さいですが、愛蓮池に半分ぐらいかけた姿は軽快で、亭子の中から眺める風景はまさに絶景といえるでしょう。
1692年(粛宗18)に粛宗が池の中に島を作って「愛蓮」という四阿を建てましたが、現在その島はなく池の北側にその東屋はあります。「愛蓮」という名前は、 蓮の花が好きだった粛宗が「私が蓮の花を愛するのは汚いところにあっても清く美しい強さを秘めながら俗世に染まらない君子の姿と似ているから」という理由だそうです。
延慶堂は、楽善齋(ナクソンジェ:昌徳宮(3)参照)と一緒に宮闕建築の形式をとらず士大夫の邸のように建てられました。ここは宮闕生活から脱皮して、静かな森の中で士大夫の邸のような家を建てて、休憩をとりたがった旧韓末の国王の好みが見られる所です。特に、国王に即位する前に子供の頃を私家で過ごした高宗は、宮闕より士大夫の邸のような延慶堂を愛好したので、景福宮の後苑にも乾清宮を建てて多くの時間を過ごしながら、お客さんと会見しました。
延慶堂は、元は純祖の息子であり正祖の孫で、勢道政治が激しかった旧韓末に王権を回復できる人物として多くの人々の期待を一身に受けましたが、若死にした孝明(ヒョミョン)世子(1809〜1830年)が父純祖のために建てた建物です。延慶堂は昌徳宮後苑の森の中に士大夫の邸のように建てたもので、母屋(アンチェ)と別棟(サランチェ)が分離されています。以降に建てられた楽善齋が閉鎖的な「ㅁ」字型の母屋をしている一方で、延慶堂の母屋は別棟のような開放的な「ㄱ」字型の構造をしており、広い庭と行閣で構成されています。これは延慶堂が国王のために建てられた建物ではありますが、国王や王妃が主催する様々な宴会のためのスペースとして建てたことを物語っています。孝明世子は父親純祖のために延慶堂を建てて、何回も宴会を開いて臣下たちを招待して国王の権威を高めようとしたといいます。現在の延慶堂は高宗代に再建されたもので、高宗と 純宗はここにお客さんを招待して宴会を頻繁に開いたといいます。
後苑の第三の領域は、韓半島の形をしている半島池(観纜池)を中心に空間が形成されています。映花堂と宙合楼のある芙蓉亭の周りが公的な性格が強いと言ったら、池の周りに小さな亭子のある半島池(バンドジ)一帯は、国王個人のためのプライベートな空間で使われたように思われます。半島池は、元は円形の池1ヶ所と小さな四角い池2ヶ所で構成されていましたが、日本統治期に今日のような姿に変形されたといいます。
半島池一帯は、後苑の中でも比較的遅い時期に造られた空間で、最も古い建物が17世紀に造られた尊徳亭です。尊徳亭には、正祖が書いた文を刻んだ扁額がかかっており、その横には砭愚榭が位置しています。池のほとりに位置するこの観纜亭と勝在亭(ソンゼチョン)は小さな亭子ですが、装飾性が強く、華やかに飾られている。これは清の影響を受けたものと思われます。
この付近は、後苑の中で最も遅く今の姿を備えたところです。蓮池は、元は二つの四角い池と一つの円形の池に分けられていたが、日本統治期に一つの曲線形に変えました。周辺に六角屋根の亭子である尊徳亭、扇形の観纜亭、細長い切妻屋根の砭愚榭など様々な形の亭子が建てられました。観纜亭の向かいの丘には、一間の正方形の屋根をした勝在亭が飛ぶように座っています。 1644年に建立された尊徳亭が最も古い建物で、観纜亭と勝在亭は、1830年代以降に建てられました。
尊徳亭は六角形の二重屋根が特徴で、1644年に建てられ、この一帯では古い建物です。また、建物の天井の中央に書かれた双竜は、王権の威厳を尊重する意味を持ちます。
観纜亭は扇形の屋根の建物です。 半島池に突き出した小さな亭子。 19世紀に製作された東闕図には現われていないもので、旧韓末に建てられたものと推定している。韓国では珍しい扇形をしており、装飾的な要素を多く持っている四阿で、旧韓末の清の影響を受けたものと考えられます。
ここからさらに第四の領域、玉流川へ登っていきます。
玉流川に行く途中で一休みできる空間として聚奎亭が建てられています。前面3間の入母屋造りの屋根をしている建物で、仁祖18年(1640)に最初に建てられたといいます。聚奎亭は、「学者たちが集まる」という意味で、後苑の森の中で静かに一休みできるように用意された空間に見られます。
聚奎亭は心を落ち着けて読書するためのスペースでもあったそうです。
後苑の深いところにある玉流川(オンリュウチョン)一帯、第四の領域です。入口の敦化門からは一番遠く、約1250m離れています。李氏朝鮮16代王の仁祖14年(1636年)に岩を削って作られた泉。こちらは玉流川の水路が広々した逍遥岩(ソヨアム)の上を流れるようにつくられた御井(オジョン)を中心に、小さい亭子の逍遥亭(ソヨジョン)、翠寒亭(チィハンジョン) 、太極亭、清漪亭 、籠山亭(ノンサンジョン) が集まっています。これらの亭子は籠山亭を除いては、国王が雨を避けたり、しばらく休んで行くことができる1〜3間規模の小さな亭子です。玉流川一帯の亭子はほとんど仁祖代に建てられたと記録に残っており、玉流川と書かれた宣祖の字が伝わっていることから、それ以前から玉流川一帯を国王が訪れたと思われます。玉流川の後ろの清漪亭の周辺には、国王が農業を構える模範を示した小さな田んぼがあります。元々は国王は昌慶宮の春塘池にあった水田で農作業の模範を示しましたが、ここでも簡単にデモンストレーションをしたようです。
籠山亭(ノンサンジョン) は、国王が玉流川一帯を訪れた時、茶果を用意したり、臣下たちと講演をすることができるほどの規模です。特に、正祖は奎章閣の臣下を玉流川に招待して詩を詠む集いを持ち、純祖と、正祖を見ならおうとした孝明世子もここで学識の高い臣下や儒生を招待して講演を開いたといいます。また、御井では折れ曲がった水の流れに杯を流し、その杯が自分の前に来るまでに詩を作り、杯の酒を飲んだ流觴曲水宴を楽しんでいたとみられます。東闕 後苑の中でも一番深いところにある玉流川周辺は国王の憩いの場でしたが、国王が臣下を招待して関係を深めていた社交の場としても使用した空間です。
岩に刻まれた「玉流川」という三文字は、仁祖(インゾ)の親筆であり、五言絶句の詩は一帯の景色を詠んだ粛宗(スクジョン)の作品です。
清漪亭は玉流川の内側に位置している小さな亭子でわらぶき屋根を施しています。清漪亭の周りには国王が直接農業をするという意味で稲が植えられています。私が行った時は稲穂が垂れていました。清漪亭の屋根は、ここで栽培した稲わらでつくっています。前面1間建ての小さな亭子です。宮廷内の唯一の草庵です。
清漪亭の前にある小さな亭子の太極亭です。仁祖代に初めて建てられたもので、前面1間に正方形の屋根をしている小さな亭子です。他の亭子とは異なり、長台石で基壇を築き、その上に建物を置いています。
これで、後苑の四つの領域全てをざっと見終わりました。
世界的な大都市ソウルの中心部に、このような自然が残されていること自体がまず驚きでした。(もちろん、明治神宮やセントラルパーク等の例はあるのですが。)
それと、自然をそのまま生かした庭園のあり方。例えば日本の修学院離宮などは、宮廷庭園の中でも、自然な雰囲気を残したものでしょうが、かなり人為的で、「自然であるようにみせるという意図」が感じられます。この後苑では要所ごとには建物が配置されていますが、森の中に配された園路で池や亭、堂、楼などを結び、自然の中に埋没された、「作庭されない庭園」という韓国らしいあり方を見ることができました。
ここも、通常のツアーを途中で切り上げるという、あわただしい訪問だったのですが、自然とともに生きる、そんな空間のあり方を考えるときに大いに学ぶ点があったと思います。