続いて、誠正閣と楽善斎です。これで、昌徳宮は、後苑(秘苑)をのぞくと、ツアーのすべての行程を見終わったことになります。
宮闕で正殿の東には世子が暮らす東宮が、西には、国王を補佐する官庁の闕内各司が、裏手には、国王のワークスペースの便殿と生活空間の寝殿が位置しています。昌徳宮は便殿と寝殿が正殿の東側に位置し、東宮は便殿である熙政堂の東側に位置している。東闕図の東宮領域には、生活空間である重熙堂(ジュンヒダン)を中心に世子の教育のために書筵が開かれた誠正閣と観物軒、そして付属建物と行閣で構成されています。
東宮の東には、今は付属建物に見える中国風の七分序(チルブンソ)、三三窩、承華楼(ソンハル)、書庫と上凉亭(サンリャンジョン)などがあり、その前に士大夫の屋敷の形式に仕立てた楽善斎(ナクソンジェ)があります。これらの建物は、東闕図(200年前のこの周辺の絵図)には現われていないので、ほとんど旧韓末に建てられたと思われます。
(この周辺に関する文献が少ないので、建物に関する記述は、インターネット上の「culture & History Traveling by younghwan」の記事と観光ガイドを転載または参考にしています。一応、相互間の記述の食い違い等については確認し、直しているつもりです。)
東宮は朝鮮時代の王世子が暮らす領域をいい、景福宮正殿の東に位置しているので「東宮」と呼んでいます。(それに倣って昌徳宮でも類似した施設を東宮と呼んでいるのだと思われます。)
朝鮮の法宮であった景福宮の建物配置によったもので、文禄の役時に景福宮が焼失した後、昌徳宮が法宮の役割をしながら、国王の執務空間である宣政殿と熙政堂の東側に位置するようになりました。昌徳宮の東宮建物は、全体が残っておらず、今では王が経筵を開いたり、東宮が先生と書筵を開いたりした誠正閣と観物軒、世子が勉強していた中国風の七分序と三三窩などの付属建物が残っています。
誠正閣(ソンジョンガッ)または内医院(ネイウォン)
王位を継承する太子が、学者たちと儒教の勉強をした場所。喜雨楼(フィウル)や報春楼(ポンチュル)などの楼閣も付属しています。1910年からは宮中の医療機関である内医院として利用されました。医女も控えており、女性たちの治療を担当したとされます。また誠正閣後ろの観物軒(クァンムロン)は金玉均(キム・オクキュン)らが起こしたクーデターである甲申政変(1884年)の舞台となった場所です。
誠正閣(ソンジョンガク)は朝鮮時代の貴族、士大夫(サデブ)の屋敷の舍廊(サラン)や別堂(ビョルダン)のように建てられたもので、比較的高いところに位置しており経筵や書筵のような会議を開くのに良い所です。オンドル部屋と大きな床がある建物に広い楼閣を結んでいます。誠正閣の前には日帝強占期に純宗のための内医院があったので、内医院建物として知られたりしました。誠正閣の裏手には前面6間の観物軒があり、書院や鄕校の講堂建物と似たような形をしています。中央の2間は、大きな床、両側に2間ずつのオンドル部屋を置いている構造です。朝鲜後期の国王が経筵を開く場所として多く使用したといいます。
誠正閣(ソンジョンガク)は東宮に属する建物で世子が学問に励んだところで、前面6間、側面2間の建物である。左の1間はオンドル部屋、中央の3間は大きな床、右側には楼閣が突出しています。
迎賢門の東側の丘には、かつては内医院として使用された建物を見ることができます。もとは誠正閣は東宮に属する建物でしたが、日本統治時代、純宗が昌徳宮に滞在しながらここに内医院を置いたといいます。 「調和御藥」、「保護聖躬」という扁額も見えるが、これは正祖の御筆だとされます。ここに内医院を移した際、共に移されたといいます。「聖躬」と「御」の字がそれぞれ、すこし持ち上げられているが、これは「王」を意味する言葉なので高い位置に書かれているとのガイドさんからの説明でした。
誠正閣の右側には士大夫の舍廊や亭子で多く見られる楼閣がつくられています。前面1間、側面3間の建物で軒が大きく迫り出しまるで空に舞い上がるようです。南面には報春亭、東面に喜雨楼という扁額がつけられています。夏の間、多くの人々が参加する経筵を開いたり、お客を迎える場所として使われたのではないかといわれています。
誠正閣の裏手に観物軒。この建物は書院や郷校の講堂のようなものです。ここでは主に世子の教育のための書筵が開かれたり、国王が主催する経筵もここで開かれたりしたらしい。1884年にここで金玉均一派は高宗を擁護して清国の軍隊と対決したという逸話が残っています。昌徳宮の中でも狭小な建物で丘の上に位置しており、清軍の攻撃を防御するにいい所に位置しています。高宗は金玉均の引き止めを振り切って閔妃がいた北關王廟に戻ることによって甲申政変は三日天下で終わりました。
中央の2間は大床、両側に2間ずつのオンドル部屋を置いている構造です。観物軒には高宗の13歳の時である1864年に書いた「緝熙」という扁額がかかっています。観物軒は東宮に属する建物ですが、一般の士大夫の家のようにリラックスした感じを与えてくれる空間であるためか、朝鮮後期の国王が経筵を開くなど、便殿の用途で使用したともいわれています。
東の隅に位置する楽善斎は24代王・憲宗(ホンジョン)が後宮(フグン。王の側室)であるキム氏を迎え入れるために、1847年に建築。その後も後宮や女官が余生を送る空間として使用されました。芸術作品を鑑賞しながら余暇を過ごす舍廊の役割をしていた楽善齋は憲宗の文芸趣向をよく示しています。楽善齋一帯は舍廊である楽善斎、内舍である錫福軒、大妃が暮す所として設けた寿康齋で構成されています。王朝末期の皇族たちが暮らした場所としても知られており、最後の皇太子である李垠(イウン)に、梨本宮家から嫁いだ方子(まさこ)も晩年を過ごしました。木の風合いが出た素朴なつくりで、木窓装飾や花壇など繊細な美しさが魅力です。
方子さまは日本の皇族・梨本宮家に生まれ、一時は昭和天皇になられる裕仁さまのお妃候補に名前が挙がったこともあったそうです。結局は旧大韓帝国の皇太子である李垠王子と結婚しました。この周辺の話を調べてみましたが、いわゆる政略結婚であることは疑うべくもありません。(李王子の邸宅は取り壊された赤坂プリンスホテルの旧館で、ご存じの方も多いと思います。)第二次世界大戦後、日本の敗戦による朝鮮領有権喪失と日本国憲法の施行に伴い、李垠・方子夫妻は王公族の身分と日本国籍を喪失して一在日韓国人となりました。邸宅・資産を売却しながら、細々と日本で生活を送り、韓国初代大統領の李承晩の妨害で韓国に戻ることもできぬまま、1960年、夫は脳梗塞で倒れます。63年、朴正熙大統領のはからいで帰国を果たし、その後は韓国政府の補助を受けて、この楽善斎で暮らしました。70年に夫と死別。韓国に帰化した方子さまは夫の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育に取り組みました。
方子さまの尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、81年には韓国政府から「牡丹勲章」が授与されました。1989年逝去、享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われたそうです。
歴史の大きなうねりの中で、周囲の仕立て上げた結婚で数奇な運命を辿った二人でしたが、生涯にわたり大変仲が良かったそうです。
ついこの間まで(28年ほど前ですが)、日本の皇族だった方が、韓国の宮殿に住まわれて余生を送られていたとは私もまったく知りませんでした。私も10年ほど前から韓国に時々出張していたのですが、ガイドさんからこの話を聞いてそんなことがあったのかと少し驚きました。2006年に菅野美穂が方子さまを演じてテレビドラマ化したことがあったらしいですが、もっと、両国民(特に日本人)に知られてもいい歴史的な事実なのではないかと思いました。
楽善斎の花階の裏手には、七分序、三三窩、承華樓と中国風の六角形の亭子である上凉亭があります。もとは世子が暮らす東宮に属する建物たちで書籍等を保管して、学問を論じた建物だったそうです。
楽善斎は士大夫の邸の舍廊のように建てたもので、当時流行した高い板の間(ヌマル)がある建物です。楽善斎には清国の名筆家である翁方綱が書いた柱聯(チュウレン)が広い板の間(デチョンマル)にかけてあるなど憲宗の中国文物に対した趣向がよく示されています。
楽善斎の庭と錫福軒を結ぶ夾門
楽善斎の高い板の間(ヌマル)。石で長く造られた礎の上に建物を乗せた高い板の間(ヌマル)は、旧韓末の両班の邸で多く見られる形態です。建物は質素に建てられたが、戸の桟や装飾などから宮闕殿閣の華やかさが残っています。
楽善斎の裏手の七分序。三三窩。承華楼の東側には、本を保管していた書庫と中国風の亭子建物である上凉亭が位置しています。
昌徳宮の他のエリアと違い、この楽善斎は、色彩や装飾が抑えられており、韓国の立派な文人の住まいという印象で、むろん手が込んでいてそれなりに豪華ではあるのですが、好感がもてました。方子さまの波乱に満ちた人生を知ったことも相まって、非常に印象に残る建物となりました。