11月20日新潟県立近代美術館に行きました。
県都 新潟市ではなく、長岡市にあります。
それはなぜか?
「長岡現代美術館」を運営していた、大光銀行(当時の大光相互銀行)の大光コレクションの約半分を収蔵している関係で、長岡市に設置されたということです。
「世界の美術」の大光コレクション。 明治以降の美術の流れを展望する「日本の美術」。県ゆかりの作家の作品を中心とした「新潟の美術」。この三つの系統を基本とする収蔵作品は6,000点を数えるそうです。世界の美術館の作品を紹介する特別企画展を含め、数々の企画展が開催されています。
設計は日本設計、1990年7月に行われた5者指名コンペ(設計競技)で最優秀を勝ち取りました。1991年にバブル崩壊ですから、バブルの終末のあたりに行われたコンペですね。建物はポストモダン調といったらいいのでしょうか、近代建築が「Less is more(より少ないことはより豊かだ)」(ミース・ファン・デル・ローエ)「装飾は罪悪である」(アドルフ・ロース)などという標語を掲げて、切り捨ててきた、多様性、複雑性、装飾的要素などを建築に積極的に取り入れようとしたのが、1980年代からのポスト・モダンの流れです。そんな思潮の中で生まれた建築かと思います。ちょっと過剰な感じは、バブルのにおいもします。
2003年7月に開館した、朱鷺メッセ(設計:槇文彦)内にある新潟県立万代島美術館は、この美術館の分館で、約6000点の所蔵作品を、両館で共有しているそうです。万代島美術館は何度か行ったことがありますが、長岡の本館は初めてです。
「長岡現代美術館」を調べて、いろいろなことがわかってきました。
長岡現代美術館は、日本で初めて「現代」という言葉を館名に冠した美術館です。
1964年に開館し、79年に閉館しました。15年の短い命でしたが、日本の美術界に残したものは非常に大きかったようです。
1950年、新潟市出身の山本孝は日本最初期の現代美術専門画廊「東京画廊」を東京・銀座に開業。大光相互銀行社長で長岡の実業家であった駒形十吉は東京画廊開業以来の顧客であり、東京画廊は駒形の財力で成長し、駒形のコレクションは山本の目利きで充実していったといいます。そのコレクションをもとにして、駒形を館長とする長岡現代美術館を1964年8月に開館しました。
大光相互銀行が建設した文化会館が施設に使用されましたが、長岡現代美術館は新潟初の本格的な美術館でした。
企画展「亀倉雄策と『クリエーション』」
『クリエーション』は亀倉が、20号で幕を閉じることを最初から決めて刊行し、責任編集した季刊デザイン専門誌。11月3日までやっていた「会田誠展」も盛況のようでした。見たかった。
長岡現代美術館の開館時の常設展示には、ピカソ、レジェ、カンディンスキー、フンデルトワッサー、岡本太郎、元永定正、白髪一雄、青木繁、岸田劉生、萬鉄五郎、佐伯祐三、梅原龍三郎、安井曾太郎、加山又造などが陳列されたといいます。1964年に地方都市でこれだけの常設展示というのは一つの事件だったのではないでしょうか。
1964年の開館とともに、長岡現代美術館賞が創設され、これを機に現代美術作品も数多く収蔵されていきます。1967年時点、日本全国で、現代美術を扱う施設は、ここ以外には、具体美術協会のグタイピナコテカと大原美術館の新館しかなかったということです。ここは現代美術の聖地のひとつだったわけですね。
日本初の現代美術館の開館は各地に反響を呼び、横浜美術館、足利市立美術館などは、この長岡現代美術館に刺激を受けて政治家や行政が動き開館に至ったようです。札幌市や私が住む山形市などの美術館建設の動きにも影響を与えたそうです。
駒形十吉は、地元選出の国会議員である田中角栄との交友を最大限に生かして、新潟県外に積極的に進出しますが、東京支店を中心に大口融資の拡大を続けた結果、オーバーローン状態に陥りました。1978年には乱脈融資が表面化、79年強制捜査を受け、80年上場廃止、駒形一族は引責する形で大光を追われました。