今回は、9月25日にNYのメトロポリタン美術館で見た、三人の画家の絵画を紹介します。
ギュスターヴ・クールベ(1819-1877 フランス)
ピエール・オーギュスト・コット(1837-1883 フランス)
グスタフ・クリムト(1862―1918 オーストリア)
クールベはフランスの写実主義の画家とされていますが、活動時期は印象派と同時代であり、従来の権威的なサロンに挑戦したという点では、彼らの同志だったといえるのではないでしょうか。
「1860年代のサロン・ド・パリではヴィーナスを題材とする作品が圧倒的に人気を博しました。この状況に嫌気がさしたクールベは、融通が利かず独断的になっていた審査委員会が受け入れざるを得ない写実的な裸体画を描くことで、アカデミーに挑みました。1864年の最初の試作は下品だとして退けられましたが、2年後の1866年に《女とオウム》が入選し、クールベは、「ずっと前に、やつらの顔に一発くらわせてやると言っただろう」と豪語しました。人体のポーズと繊細に描写された体は、従来のアカデミー様式の絵画に倣うものでしたが、クールベの作品は、脱ぎ捨てられた衣装と乱れた髪が、裸体を神話化あるいは理想化し題材とするサロンの絵と一線を画しています。」(『メトロポリタン美術館ガイド』より)
印象派の画家エドゥアール・マネが《草上の昼食》や《オランピア》でサロンに挑んだのと同じように、クールベも権威と闘っていたわけです。その姿勢はマネ以上だったという話もあります。
コットは、アカデミック絵画に属し、肖像画で有名です。そしてその作品の大半が肖像画です。しかし、彼にしては例外的ないくつかの作品は不朽の芸術的価値をもち、特に『春』と『嵐』の人気が高いといいます。
たとえば、印象派の画家マネは1832年生まれ1883年没で、コット(1837-1883)の活動期間と完全に重なっています。コットの表現は極めて写実的ではありますが、当時話題となっていた印象派は当然意識していたでしょうから、表現法は従来の伝統的技法のままでも、テーマとしてはより自由で大胆なものを模索したのではないでしょうか。その結果、このような名作が生まれたのかもしれませんね。
クリムトはウィーン郊外の生まれ。いわゆる印象派ではないがルノワールの影響を受けているそうです。活動期間をみると印象派よりも一世代後の前衛的な画家といえます。1897年に、古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家グループ、ウィーン分離派が結成されましたが、その初代会長を務めたのがクリムトでした。彼の作品を生涯通してみると、妖艶さと死の香りを同時に漂わす独特の雰囲気の絵がクリムトを象徴するイメージといえるでしょう。
薄い生地のドレスをまとった貴婦人の肖像画。なまめかしさはあっても、妖艶や死というクリムト独特の世界はこの絵からはあまり感じられません。
「この作品は、ウィーン工房の融資者だった企業家オットー・プリマヴェージの依頼により、1912年に作成された娘メーダの肖像画です。クリムトはウィーンのアトリエでメーダをモデルにこの作品を描きましたが、1914年には同じアトリエでメーダの母で女優のユージェニア・プリマヴェージ(旧姓パットチェック)の肖像画を描いています。クリムトは数多くの鉛筆画による習作でさまざまなポーズを試した後、この完成品にたどり着きました。正面を向いて真っ直ぐ立つメーダの姿に、9歳の少女のはつらつさがあらわれています。」(『メトロポリタン美術館ガイド』より)
いわゆる印象派ではないが、彼らとほぼ同じ時代を生き、時代精神を共有し、刺激したり、刺激されたりしたであろう、3人の画家たちでした。