2018年1月25日 中国湖南省長沙市にある岳麓書院を訪れました。岳麓(がくろく)山の東麓に位置しており、現在の湖南大学の広大な敷地の奥にあります。
湖南省の人口は7000万人弱、長沙市の人口は約700万人。日本の人口の半分以上にあたる人達がこの一つの省に住んでいます。
「古代は楚の国があったと言われ、神農ともゆかりがあった。唐代に入り、湖南の名が使われ始める。1664年、清朝のもとで湖南省が成立した。19世紀半ばの太平天国の乱では、同省出身の曽国藩が湘軍を率いて鎮圧に活躍した。曽国藩だけでなく、清末の諸改革において譚嗣同や唐才常などの人材を輩出し、20世紀には中国共産党の中心となる毛沢東、劉少奇、胡耀邦などを輩出した。」(Wikipedia「湖南省」より) 毛沢東は長沙の南西の韶山の出身で、長沙の中学で学んだそうです。
岳麓書院は中国四大書院のひとつで、湖南大学の前身のひとつでもあります。(湖南大学の学生数は3万余人という。)
北宋の開宝五年(976年)、潭州太守の朱洞が設立。世界最古の大学のひとつとされています。
千年あまりの時間を経ても、この書院は国内外で有名です。宋、元、明、清などの時代の変換を経て、清朝末期に(1903年)湖南高等学堂となり、1926年に湖南大学と改称されました。
今回は、前門(1番:左下)とは反対側にある、山門(赤丸の41番:右上)から下に降りていくように巡っていく
岳麓書院の総面積は約21000平方メートル。現存している建築は殆んど明・清時代のものです。主な建築は大門、二門、講堂、半学斎、教学斎、百泉斎、御書楼、湘水校経堂、文廟など。これらの建築はお互いに回廊や中庭で結ばれ、中国古代の雄大な建築の様子を現代に伝えています。建築以外にも、多くの有名な扁額が岳麓書院では保存されています。岳麓書院の建物は、教学(授業をするところ)、蔵書(本を収蔵するところ)、祭祀(祭祀を行うところ)、園林(観賞用の庭園)、記念(記念の建築)という五つの部分からなっています。
1988年、中華人民共和国の全国重点文物保護単位に指定されている。
赫曦台です。昔、芝居が演出した舞台です。話によると、朱熹は書院で講義をしている間、毎朝岳麓山の頂上で日の出を見ました。赤い太陽が地平線からまさに昇ろうとしている時、彼はとても興奮して拍手しながら、赫曦だ、赫曦だと声を上げて叫びました。赫は赤いの意、曦は太陽の意味です。そしてのちの人が朱熹を記念するためにこの台を作ったというわけです。(漢声中文WEB SITEより)
大門。右に「惟楚有材」左に「於斯為盛」という対聯がある。「楚に人材ありて、はじめて書院の繁盛有り」ここは紀元前の春秋時代に「楚」という国があった場所。楚は人材の宝庫とされ、それが、この岳麓書院の歴史を支えてきたのだということ。毛沢東も湖南省の出身である。
続く「二門」には「名山壇席」の扁額。 この岳麓書院は多くの人材を輩出してきた。特に清末には、曽國藩、左宗棠、陳天華など中国近代史に足跡を残した人物がここで学び、活躍した。
皆様、この平面図をご覧下さい。この中軸線によって、それぞれ前門、赫曦台、大門、二門、講堂、御書楼となっており、講堂は書院の中心に位置しています。書院建築の機能によると、講堂は講義と学術研究用、御書楼は蔵書用、孔子廟は祭祀用の三つの部門に分けられています。
講堂の上には実事求是、学達性天と道南正脈など三つの額があります。「実事求是」とは物事の実際の状況に即して行うという意味です。毛沢東が青年時代、書院の半学斎に住んでいたので、この思想は彼に大きな影響を与えました。後にこの思想を発展させ、毛沢東思想の精髄となりました。(上の図、文とも「漢声中文」より)
「学達性天」の額は清の時代の康煕皇帝から賜ったものです。性は人間性、理学思想の中に人間の良い本性は天から賜ったものと認め、教育の目的は人間の本性を取り戻し、天人合一の境地に達するという考えがあります。また、この「道南正脈」の額をご覧下さい。清朝の乾隆皇帝は岳麓書院が理学思想を広く伝えた功績を表彰する為に、この額を賜りました。この額はその当時の原物です。岳麓書院が伝えた「湖湘学」は正統派という意味です。「道」は理学を指しています。理学というのは宋朝まで発展した儒教説です。皆様、続けてご覧下さい。講堂の真ん中には高さがおよそ1メートルの長方形教壇がご覧になりますね。これは昔先生が講義したところです。その二つの椅子は先生を記念するために置かれたものです。彼らが講義する時、とても盛り上がったそうです。(同上)
ここは講堂です。両側に刻まれた四つの字は忠、孝、廉、節で、朱熹が唱えた儒教の思想です。一人の人間として、守らなければならない規則であります。
ところどころに中庭がある。
楚の時代の楽器(鐘)を演奏してくれる(見学は自由だが、演奏は有料で、お金を払わないと締め出される。)演奏する様子は時間の関係で見なかったが、音階に応じた鐘があり、それを数名で叩きながら演奏するようだ。
講堂を通り抜けて「半学齋」へ
現在に至っても、国家重点文物保護機関である岳麓書院は、教育事業をおこなっています。ここは湖南大学の人文社会学科の研究基地であり、国学と湖南省湘文化の研究の拠点でもあります。
現在の岳麓書院は宋明理学、中国書院史、湖湘文化史、中国礼制史の分野において、その研究水準は中国国内でトップクラスといわれています。そして、内外で学術の地位が高い、中国伝統文化研究、中国書院研究の拠点として、中国と外国との文化交流センターになるように、取り組んでいるそうです。
半学齋のなかには、現在、岳麓書院の歴史などを詳しく解説した、博物館(展示室)があります。
建物の一画は、岳麓書院の歴史を伝える、展示室になっている。
宋代、政府によって書院の造成が奨励され、政府や私人が書院を創設した。白鹿洞書院(江西廬山)・応天府書院(河南商丘)・嵩陽書院(河南太室山)・岳麓書院(湖南岳麓山)は、宋の「四大書院」と呼ばれる。(Wikipedia 「書院」より)
北宋の976年の創建以来、千年以上もの間栄え続けてこれたのは、有名な学者がここに集まって講義をし歴代の帝王が題字を贈ったことと大きな関係があるとのこと。
始まったころの岳麓書院
岳麓書院が輩出した文人たち
湖南大学の扁額(右端の小さな文字を見ると、たぶん毛沢東によるもの)
大成殿にいたる。
この書院のなかでも最高位にある孔子様の像
中国でも日本の狛犬のようなものが見られる。中国の別の場所では左右とも口を閉じていたが、ここでは日本と同じように阿形と吽形がある。
狛犬のもともとの起源は古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。日本には唐時代の獅子の像が伝わり、時代を経て狛犬となった。
また、後ろの方へどうぞ。書院には「御書楼」という書庫のところがあります。ここは即ち現代でいえば図書館です。蔵書の一番多い時、2万冊を超えたことがあります。(「漢声中文」より)
元の場所(山門)に戻る。
広大な敷地にあるのに、スケールアウトしたようなところもなく、敷地の高低差を巧みに取り込みながら、かなり多くの施設群が建て込んでいるはずなのに、息苦しさも感じさせない。格調の高さはもちろん感じるのですが、巨大な文教施設というより、貴族の別荘か、僧院か、あるいはひとつの集落を散策しているようでした。建築と庭園(ランドスケープ)の境界があいまいで、それらが一体となったような環境のあり方はとても魅力的でした。それらを無理やり別分野に仕分けしようとすること自体が近代以降の思考の所産なのかもしれません。
どの場所にいても、光や風や雨を感じることができて、学びの場、思索の場、語らいの場としては、最高の環境だと思いました。静かに降る雨がしっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出していて、こんな日の見学もたまにはよいと思いました。
囲われた敷地に中庭型で居住空間を形成するのは、古代ローマや中世ヨーロッパの修道院などにもある形かとは思いますが、庭や室内外が連続した縁側空間があることで自然と一体となった東洋的な環境を体験することができました。日本建築や庭園もこの流れをくむものでしょうが、中国の方が色彩が豊かで、より形式性が強いような感じがしました。日本の場合は、建築には色がなく、自然の色を引き立たせることの方が多いように思います。また、仕上げの質感は、やはり中国は良くも悪くも少しあらあらしく、日本の方がより繊細と言えるでしょう。
世界最古の大学のひとつとして、その文化的な雰囲気は、歴史遺産として世界的な価値のあるものです。
直接ここに学んだかはわかりませんが、毛沢東、劉少奇、胡耀邦など、国土の広さや人口において日本とはくらべものにならないスケールの大きな国、中国を束ねようとした指導者たちは、こういう環境から生まれてきたのかと、妙に納得するものがありました。
一旅行者としてそんな感想を持つ一方で、建築に携わる者としては、千年以上前から受け継がれてきた環境に宿る知恵は、現代の建築やまちづくりにも参考になるところがたくさんありそうだとも思いました。
写真と全景図を頼りに、もう一度、世界にも稀にみるこの優れた書院を散策して、先人の教えを学びとりたいと思います。