2018年1月23日の夕方、上海の黄浦江沿いの、外灘を散策しました。川を挟んで反対側には、浦東新区の超高層ビル群が見えます。
外灘(ワイタン、拼音: 、がいたん)あるいはバンド(英語名:The Bund)は、中国・上海市中心部の黄浦区にある、上海随一の観光エリアである。黄浦江西岸を走る中山東一路沿い、全長1.1kmほどの地域を指す。
この一帯は19世紀後半から20世紀前半にかけての租界地区(上海租界)であり、当時建設された西洋式高層建築が建ち並んでいる。租界時代の行政と経済の中心であったことから現在も官庁と銀行が多いが、ジョルジョ・アルマーニやカルティエなどの大型旗艦店や、租界時代のレトロな雰囲気を売り物にしたバーやレストランなどが建物の中に入るようになり、お洒落な街並みに変貌しつつある。(Wikipedia「外灘」より)
「外灘」という名称は、「外国人の河岸」を意味します。
英語名の「バンド」は、築堤・埠頭を意味する “Bund” に由来する。この “Bund” はもともとインドで築堤を指す言葉(ウルドゥー語:band )に由来し、16世紀のはじめに英語に移入された。かつての大英帝国植民地の各地に「バンド」と呼ばれる堤防や埠頭があるが、固有名詞として単に「バンド」(The Bund)と言った場合には、上海のバンドを指す。(同上)
解放前は北部がイギリス租界、南部がフランス租界だったそうです。
高層ビルが林立する町となった今でも、上海の顔として知られるのが外灘(バンド)です。1842年、イギリスが強引に締結した南京条約によって外国の租界地(外国が租借した治外法権地)が最初に設定されたエリアのことです。西洋風建築が数多く残り、観光資源となっています。この黄浦江に面して並ぶ、重厚な建築群は、19世紀末から1940年頃までの半世紀にわたって建てられたもので、新古典主義、ネオルネサンス、ネオバロック、クイーン・アン、そして1920年代に流行したアール・デコ様式など、全て意匠が異なり、また、間口、奥行き、高さもまちまちで、それぞれに個性的なものです。(基壇部と、頂部、その中間の三層構成の建物が大半を占めていますが、それがこの時代の流行だったのか、この通りの他の建物との調和を意識したものなのかはわかりません。)この外灘の建築群の魅力は、一言でいうなら、その多様性にあるのだろうと思います。
中華人民共和国建国後、上海市政府はそれらを接収し、内部を改装して公共機関として利用してきました。現在もその多くが市政府の施設や金融機関として使われています。外灘〇号という名称がついてますが、建設の時系列には沿っておらず、あとから、街区の南側から順につけられたもののようです。
外灘は、上海の旧市街(上海県城、「城内」)の北に位置する。はじめは英国租界であり、1854年に英国・米国の両租界が合同して共同租界となった。19世紀末から20世紀前半にかけて、東アジアにおける金融のハブとなった外灘には、建築ラッシュが訪れた。これらの建物は、イギリス・フランス・アメリカ合衆国・ドイツ・日本・オランダ・ベルギーといった各国の銀行や、イギリスやロシアの領事館、新聞社、上海クラブやフリーメーソンのクラブなどとして使われた。租界時代の市政府もこの場所にあった。(Wikipedia「外灘」より)
1940年代までには、中華民国で活動していた銀行のほとんどが外灘に本店を置いた。国共内戦の結果共産党が勝利したことにより、金融機関は徐々に外灘から移転し、ホテルやクラブも閉鎖されて他の用途に転用された。川辺に点在していた、植民地を象徴するような像や外国人の像は撤去された。(同上)
1970年代末から1980年代初頭にかけて、中国が市場経済を導入していく過程で、外灘の建築物は次第にかつての用途で使われるようになった。行政機関が地域外に移転し、代わりに入ったホテルや金融機関が営業を始めるようになった。また、この時期には台風による洪水も数回発生した。地方政府は堤防を高くすることにし、道路より10m高い堤防がそびえる現在の景観が作られた。1990年代には、中山路が拡幅工事によって最大10車線まで広がったが、かつては道路沿いに広がっていた公園用地の多くがこれによって消滅した。またこの時期には、外灘と浦東を結んでいた渡し舟もなくなった(遊覧船は付近の埠頭で発着している)。(同上)
1990年代、上海市政府は「バンド」が指し示す範囲を拡大させ、南側(延安路以南)を「新バンド」、北側(呉淞江以北、閘北)を「北バンド」と呼ぶようにした。「植民地主義の残滓」と社会主義イデオロギーとの関係を調整し、外灘周辺の地域の観光的な価値や地価を上昇させようと図ったのである。もっとも、これらの呼び名は観光ガイドでもあまり使われていない。(同上)
2008年からは外灘一帯の交通の再構成が進められている。今までバンドと延安路の合流点にそびえていた巨大な高架道路の構造物が解体され、また外白渡橋の移転と復元工事が行われる。この復元は2009年初めには終了する予定である。その後、現在8車線ある道路を立体化して1層4車線の2層構造にし、かつて存在した公園用地を復元する。(同上)
伝統的な外灘の範囲は、南は延安路(旧名・エドワード7世通り)から北は呉淞江(蘇州河、旧称・蘇州クリーク)に架かる外白渡橋(旧名・ガーデンブリッジ)に至る一帯である。(同上)
この通りの名称は「中山東一路」。中山は孫文の号からとられています。中国では通りには、人の名前か、地名をつけることが多いそうです。(現地で聞いた話)
孫文は中国では「孫中山先生」と呼ばれ、台湾はもとより、中国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として、近年「国父」と呼ばれています。海峡両岸で尊敬される数少ない人物だそうです。
〈孫文の号「中山」の由来〉
孫文は日本亡命時代には東京府の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主は貴族院議員の中山孝麿侯爵で、孝麿の叔母中山慶子(中山一位局)は明治天皇生母である。(Wikipedia「孫文」より)
外灘の中心を走る中山路の西側には、外灘の景観を特徴付ける52棟の西洋建築が立ち並んでいる。また、中山路の東側はかつては公園用地(黄浦公園)があった。公園用地は中山路の拡幅によってほとんどがなくなっている。そのさらに東側は堤防である。1990年代に嵩上げされた堤防によって、外灘の景観は大きく変わった。(Wikipedia「外灘」より)
様式はその特徴から、アール・デコといっていいのでしょう。世界恐慌(1929年)よりだいぶ後の竣工ですので、その世界的流行(1910年半ば~30年代)は去った後なのだと思われますが。アール・デコについては、「東京都庭園美術館」を取り上げたときに詳しく説明しましたのでそちらをご覧ください。
かつては多くの銅像が外灘に点在していたが、現在唯一見られる銅像は、南京路との交差点にある陳毅(共産党政権下での初代上海市長)のものである。外灘の北端に近い黄浦公園には、アヘン戦争以来、上海での革命闘争で斃れた人々を記念する人民英雄記念碑が建っている。
カリアティード《建築用語》
アーキトレーヴを支える柱の代わりに用いられる、少女をかたどった人像柱。起源は、古代ギリシア人の奴隷となったカリュアの少女たちをアテナイの彫刻家たちが、彫像にした事に始まると言われる。しかし、古代エジプトには既に柱に人物像を付したものや、柱頭部分の代用としてハトホル女神の頭部をあしらったものなどがあり、これらがカリアティードに先立つ類型として考えられ、こうした造形は元来東方起源のものとされている。(『世界美術大辞典』より)
アール・デコ様式の建物が二つ並んでいます。
一通り見終わって、元の道を引き返しました。
たぶん建築好きの人なら、これらの建築群のファサード(正面外観)を観察するだけで、一日が終わってしまうでしょう。それぞれの建物の成立した時代背景と様式の関係、内部の装飾なども詳しく見ていったら、ひとつの建築だけを対象にしてでも、立派な論文が書けそうです。日本にもかつては銀行の本・支店など、このような西洋風の重厚な洋式建築が各地にありましたが、その多くが高度経済成長期に味気ない箱型の近代建築に置き換えられていきました。近年は、日本でも保存・再生は重要な課題となっています。
中国・上海では黄浦江を挟んで、西側は今となってはそれほど効率的ではないであろう、帝国主義時代の歴史的建造物をあえて残し、東側は高さで世界一を争うような超高層ビルを集めて、超高効率の都市を形成しています。そのどちらが欠けても上海という街の魅力は半分以下になってしまいます。
もしかすると、中華人民共和国が成立した後、例えば文化大革命の時代などに、中国にとってはある意味負の文化遺産であるこの街区を、もっと整理して再開発したほうがいいという考えが噴出することがあったかもしれませんが、この外灘の歴史的建築群を残すことができて本当によかったと思います。このような建築は、今の時代につくろうと思ってもほとんど不可能でしょう。東アジアの金融のハブとなったこの地では、世界各国を代表する資本家がその国の威信をもかけて、競い合って、その当時にここでなしうる最高の技術を投入したのではないでしょうか。それぞれの建物に、当時の施主の野心や、建築家の思い、作り手の苦労がにじみ出ていて、時代を超えて、それらの人たちと対話することができるようです。
図の一番下の外灘信号台まで戻りました。
外灘の建築物群は、1996年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に指定されたということですが、現代の中国の開発について現地の人たちと話してみると、中央政府が主導して、とにかく猛烈なスピードで新しい都市基盤や建築をつくりあげていこうという勢いが強く、古いものを顧みることがおろそかになりがちだという意見も聞かれました。
日本でも高度経済成長期やバブル経済の時代は同じだったと思います。戦災を免れた文化的に価値ある建築でも失われたものがかなりあります。日本でも少しずつ古いものの価値に気づき始めて、今ではだいぶ保存・再生が行われるようになりましたが、戦災などの少なかった地方都市においては、恵まれすぎているために逆にその価値に気づいていない人の方が多いようにも思われます。文化財は一度失われると取り戻すことはできません。経済主導ではない、文化に着目したまちづくりがもっと広まっていけばと思います。
中国の文化財保護の実情は詳しくはわかりませんが、このバンドのような特別な歴史的な街区の保存だけでなく、人々の生活の根ざしていた街並みの保存なども含めて、全国で古いものの文化的な価値を見直すことを、政策だけでなく国民の意識として高めていけたらいいのだろうと思いました。
(参考文献:『地球の歩き方 上海 杭州 蘇州 2017~18』)