2018年1月23日、中国・上海の高架道路を走っていると、車窓から変わった形の建物が見えました。
そうに違いないと思いましたが、同行してくれた現地の方に聞くと、どうもザハ・ハディド設計の建築らしいということだったので、翌24日、朝の時間帯に建物周辺を歩いてみました。
2014年に竣工した、まだ比較的新しい建築です。
ZAHA HADID については、東大門デザインプラザ(DDP)を取り上げたときに、少し詳しく説明しましたので、そちらをご覧いただければと思います。女性初のプリツカー賞受賞者(2004年)です。
高架道路のインターチェンジがすぐそばにあり、周囲は中高層の集合住宅の建ち並ぶ、郊外の新興都市のようです。上海は今でこそ大都会ですが、以前は市の中心部を除いては田園風景が広がっていたそうです。ここもかつては郊外の農村だったのではないかと想像されます。
上海は、元代には市舶提挙司が置かれ港町として発展し始めました
アヘン戦争を終結させた1842年の南京条約により、上海は条約港として開港したことが、現在につながる発展の最初の契機と言えます。イギリスやフランスなどの上海租界が形成され、後に日本やアメリカ合衆国も租界を開きました。1865年に香港上海銀行が設立されたことを先駆として、欧米の金融機関が本格的に上海進出を推進しました。
1920年代から1930年代にかけて、上海は中国最大の都市として発展し、イギリス系金融機関の香港上海銀行を中心に中国金融の中心となりました。上海は「魔都」あるいは「東洋のパリ」とも呼ばれ、ナイトクラブ・ショービジネスが繁栄しました。
ちょうど、半農半漁だった横浜村が、黒船来航による開国により、外国人居留地がつくられて貿易港として発展し、今日、日本屈指の国際港湾都市「横浜」に発展していったのと似ているような気がします。
1978年の改革開放政策により、再び外国資本が流入して目覚ましい発展を遂げました。現在も、1992年以降本格的に開発された浦東新区が牽引役となって高度経済成長を続けています。
現在、短期滞在者も含め、上海市内には10万人を超える日本人が生活しているそうです。 (上の上海に関する記述は、Wikipediaの「上海市」の項目を参照しています。)
建物を上から見ると、高さと短辺方向の厚みはほぼ同じだが、長さと曲率の異なる四つの湾曲した棟が、ほぼ一定の間隔を保ちながら並んだ配置となっています。建物最上部は、それぞれを連絡するブリッジで結ばれており、屋上庭園もそれによって一体化されているように見えます。地上からアイレベルで見ると、このブリッジによる一体感の効果は、鳥瞰で見るよりもはるかに大きく感じられます。
Zaha Hadidは、2020年東京オリンピックのための、新国立競技場のデザインコンクールで最優秀に選ばれ、彼女のデザイン監修のもと実施設計まで行われたのち、白紙撤回されるという憂き目を見た、あの建築家です。
私はときどき職能団体の集まりなどに参加することがありますが、その中で新国立競技場のことがいまだに話題に上がります。「あのままザハ案で行くべきだった」という意見が多く聞かれます。(もちろんこれは私のまわりの話であって、統計的にそうだという訳ではありませんが。)少なくとも日本の建築家の一部は、ザハに対する申し訳ない思いと、ザハの建築を日本で見てみたかったという素直な気持ちを共有しているように感じます。
私は、最終的な結論はともかく、あの当時、国家的なプロジェクトの是非が、ワイドショー的なレベルに貶められてしまったことが残念でなりません。その後の豊洲新市場の問題にしても、専門家からすれば的はずれとも思える本質から離れた議論に終始したのち、問題とされていたことに対する具体的改善案も示されないまま、結局は鶴の一声で、実質豊洲移転に決まったような感じです。それを考えると、ザハは新国立競技場の件に関していえばと不運だったとしか言いようがありません。最近の大相撲の問題などもそうですが、国民は垂れ流される報道に右往左往しています。新聞・週刊誌であれば部数、TVであれば視聴率がとれるような興味本位の報道をして、それに国民が揺さぶられ、そのようにしてたまった国民の不満を、ときどき政治がガス抜きして支持率を維持するという、長期的にみれば国民の利益にならないことが繰り返されているような気がします。報道の自由や透明性も大事ですが、もう少し成熟した議論ができる社会にならないものでしょうか。
新国立競技場の問題は、十数年後かもしれませんが、いずれ再検証される時が来るでしょう。
私がザハの凌空SOHOの写真をSNSに載せると、さっそく「ザハの新国立競技場が見たかった」という声が聞かれました。
巨大な建築ですが、圧迫感のようなものはあまり感じず、1時間ほど気持ちよく建物(主に外部空間)を巡りました。
中国という国の印象も、メディアによってだいぶ歪まされているように、今回現地に行ってみて思いました。中国に関しては、PM2.5などの大気汚染問題、領土問題や太平洋上の覇権争い、国内の情報統制、コピー商品やニセモノのテーマパーク等、日本人が眉をひそめるような内容、脅威を感じるような内容が、近年、報道の大半を占めてきたように思います。それぞれは事実だしても、事実の切り取り方、取捨選択には恣意性があります。メディアは限られた時間の中で、極端な事象しか報道しない傾向があり、中国の実際がどうであるのか、人々の日常生活がどのように営まれているのかを、中国に最近足を運んだことのない普通の日本人はほとんど知らないのです。個々のメディア・リテラシー(読み解く力)も重要ですが、今のメディアのあり方では受け取る側がいくら注意深くあっても限界があるように思います。そうなると、人と人との直接交流を図っていくしかない。最近は既存のメディアとは違うインターネットを使った発信の仕方もありますが、可能なら現地に行って五官で感じるのがやはり一番です。
中国の近年の経済発展が著しいことはいうまでもありませんが、中国の中産階級の生活水準、文化水準は目を見張るほどの向上を見せています。「質」の向上が顕著です。今回、現地の方々とも交流しましたが、ファッションや髪形、食べ物や、住環境のレベルなどを見ても、日本を含めたいわゆる先進諸国とほとんど変わらないか、一部ではそれを追い抜こうとしているように感じました。発展の勢いという点では、もうだいぶ前に日本は完全に追い抜かれてしまいました。今やGDPは日本の2倍以上ですが、人口も多いので、国民一人当たりGDPは日本の1/4程度です。しかし中国は、都会と農村部では10倍近く年収の差があり、さらに大会社のトップにいたっては都会の会社員の100倍の所得があるという格差社会です。人口の1~2割を占める中産階級の生活水準は、日本のそれとほぼ変わらなくなっていると思っていいのではないでしょうか。中国はいつバブルがはじけるかとだいぶ前から言われ続けていますが、いまだに発展の勢いはとどまるところを知りません。国土も日本の25倍程ありますし、人口は10倍以上です。必要な施設はほとんど建て尽くしてしまった我が国と違って、中国の中堅都市では都市基盤や必要な建物の建設はまだまだこれからといった感じです。中国は今、「14億総中流」へ転換しようとしているということがささやかれています。その達成の暁には、中国は日本の10倍もの巨大経済圏となるはずですが、それにいたるまでの道のりは平坦ではないでしょう。日本への影響も無視できません。中国の動向には注視していきたいと思います。
近くで見ると水棲生物のエラか、甲殻類の胴体のようだが、それほど気持ち悪いという感じはしない。
外壁に見える、建物の中間に挿入された、丸みを帯びた帯状のものは、4棟の建物を一体的に見せるための意匠的なもので、構造とはあまり関係ないもののように見える。(断面図が入手できないので詳細は不明)大外では外皮のように建物をくるんでおり、妻面のない、生命体のような独特の表情をこの建物に与えている。ガラスのカーテンウォールは多角形でモジュール化されており、それほど特殊なものではない。こういったところでは節約して、アルミの縁取りの部分の表現に資源を集中しているようだ。
SOHOはSmall Office/Home Officeの略。日本ではパソコンなどの情報通信機器を利用して、小さなオフィスや自宅などでビジネスを行なっている事業者」という意味で使われることが多い。中国では、テナントを多く入居させる大規模な商業ビルに対して「SOHO」の名が冠せられている。中国の一部のSOHOは、日本の六本木ヒルズに近い印象の建造物群である。このことから、SOHOの語はブランド化しており、若干ニュアンスが異なる。(Wikipedia 「SOHO」より)
低層部(3階)の帯に挟まれた部分が妻部でせり上がり、そのまま伸びて、各棟をつなぐブリッジへとつながっていく。
橋脚を挟んで、左側の天井は金属(アルミ?)パネル、右側はプレキャストコンクリート版のようだ。ところどころでグラデーションを描くようなパンチング(丸い孔)が天井に開けられており、アクセントとなっている。
意外と外部空間には緑が多い。
1階部分には各棟を貫く通路があり、回遊性を高めている。この部分は上層階までの大きな開口の一部だが、3階レベルと最上階では繋がれていて、各棟内部の横の動線を担保している。
オフィス内部はいたって普通のつくりのようだ。
日本やアメリカのファースト・フード店も入っている。
ディテールは「研ぎ澄まされている」とまでは言えないが、設計意図を満たすためにかなり頑張っているといえるだろう。
ブリッジの軒裏のパネルの形状は、一枚一枚違っている。この辺はすごく手間がかかっている。
朝方の訪問でしたが、それなりに人の流れも伺え、内部空間も空室は目立たず、よく使われているようでした。
「現地の人々は、〝虹橋空港に行く途中に、変わった建物がある”ということはよく知っていますが、それが国際的な建築家Zaha Hadidの作品だと知っている人は稀です。」と、案内してくれた現地の方が説明してくれました。
2016年3月31日に、ザハ・ハディドはこの世を去りました。享年65歳。それからもうすぐ2年が経とうとしています。
彼女の残した事務所Zaha Hadid Architectsは世界中で活動を続けているようですが、建築家Zaha Hadid が、これからこの世に新たに建築を構想し、残すことはもうありません。
彼女の初期の実作は日本につくられましたが、それも含めいくつかの日本での作品はすでに解体されており、新国立競技場の白紙撤回と彼女の急逝により、もう二度と日本ではZaha Hadidの作品を見ることはできなくなりました。
この凌空SOHOは、新国立競技場のザハ案に比べれば、外壁の多くが直立しており、難易度は低いかもしれませんが、中国でも立派に建築として成立しています。これをつくるためには、3次元の施工図の作図を可能とする特殊なCADやBIMの導入などが必要だったでしょう。
そういった問題も乗り越えて、中国では新しく、チャレンジングな建築が次々と成立しています。(韓国でも冒頭で紹介したDDPという相当難易度の高い建築に挑戦してこれを実現しています。)
彼女は長く「アンビルトの女王」と言われていたのは有名な話です。彼女の構想する建築に、作図や検討・分析をする技術、それを施工する技術が追い付いていなかったこともその一因だと思いますが、20世紀の終わりころから急速にコンピューターを用いた作図や建築の解析技術が進展し、それに伴い3次曲面を伴うような複雑な形状の建築の施工も可能となりました。(それは新しい技術の現場への浸透を含めて、現在進行中といえるでしょう。)そのことによって、彼女は21世紀の初頭から世界中で華々しく活躍するようになり、亡くなるまでの15年で、多くの建築を残しました。
ザハ・ハディドやフランク・O・ゲーリーなどが、豊かな発想力を発揮しながら斬新な形状の建築をデザインし、それを建設業と力を合わせて、苦心しながらつくりあげるのは、誤解を恐れずに言えば、自動車のF1レースのようなものと言えるかもしれません。億単位の価格のエンジンは1回のレースで使いものにならなくなってしまうと聞いたことがあります。F1に自動車メーカーが参加するには年間数百億の開発費がかかるとか。ボディにしても、1/1000秒を争うために、空気抵抗をいかに減らすか、強度を保ちつついかに軽量化するかを技術者がぎりぎりまで考える。そのような車が世界の街中を走っているわけではありませんが、そこで培われた技術は、我々の使用する汎用品に確実に生かされています。F1が「走る実験室」といわれる所以です。
本田技研工業の創業者本田宗一郎は生前、クルマは厳しいレースで鍛えられて初めて良くなると説いていました。 「レースはやはりやらなきゃならない。レースによって、自分の力量や技術水準が世界のどのくらいにあるかを知ることができるし、それによって経営の基盤をどこに置いたらよいかを決めることができるんだから」 道楽だと批判する内外の声にはこう返したそうです。「乗り物は一つ間違えると生命にかかわることだってある。こういう交通機関をつくっている我々は、レースを通じて得られた結果を早く製品に取り入れて、より安全な交通機関をお客さんに提供する義務がある」(Newsポストセブンの記事からの引用)
ところが今は、株主等、ステークホルダーの理解が得られなければ、自動車会社もなかなかレースにも参加できないような時代です。簡単に比較はできませんが、建築を取り巻く状況もよく似ているのかもしれません。
日本は残念ながら、もはや、建築におけるF1のような舞台を提供できる国ではなくなり、中国などにその座を譲ったということでしょうか?
かつては、国の威信をかけて行う国家的プロジェクトは、そのような役割を担う建築の代表格だったのではないかと思います。
右肩上がりの経済のころは、見たことのない世界への国民の夢が大きかったし、企業もリスクをとって「つくる実験」をしてもそのことで技術を向上させ、いつか回収できるという期待値で行動することができた。縮小時代の今の日本の状況はそのころと同じではないというのはわかります。
しかし、新しい課題に挑戦していくことに消極的な社会では、建築を含め、国全体の技術水準の維持し向上させていくことは難しいような気がします。
F1が時代遅れのスピード競争だと見限って、電気自動車や自動運転の技術開発に注力することにしたのだというなら、それは賢明な判断とも言えるかもしれない。(最近はフォーミュラEというのもあるようですが…)確かに日本の建築を取り巻く状況も、高度経済成長やバブルの時代とは様相が一変しています。環境技術やリノベーションなどが脚光を浴びている。でも、そのような時代にはZAHAのような建築は日本にはいらないという判断をしたのかというとそうではなく、一般にはただ事業費の高騰だけ(一部専門家の間では景観問題)が取り沙汰されていました。
今回の中国、そして2年ほど前には韓国で、ザハの建築作品を見ました。それぞれ、相当な苦心の跡が見られましたが、それを何としてでもつくりあげていこうという、建築家と事業主、そして施工者の、意地と気合が感じられました。そして破綻なく成立していました。それが市民のプライドにもつながっていることでしょう。
今回の凌空SOHOとは、敷地となる場所の周辺の、既存の都市の文脈はまったく異なりますが、日本でも世論を含めた合意形成・コーディネーションさえうまくいけば、ザハ案の新国立競技場が建設されていた可能性はあったでしょう。
当初案とは似て非なる実施設計案と言われ、それも論点の一つとなりましたが、ザハ自身は自分の作品として認識していたからこそ、白紙撤回のあとに抗議したのだと思います。
そのあとは、設計者と建設会社のチームによる、予定調和的なプロポーザルによって、設計・建設チームが決定されました。
日本の建築設計、建設のレベルはもともと高いとは言われてきましたが、世界水準の難易度の高い建築に挑戦していれば、未踏の分野を開拓する機会として、力をより高め、プレゼンスを示せたかもしれないと思うと残念ではあります。
昨日から平昌オリンピックが開幕しました。何やら政治色の強い開会式となりましたが、TVに映る選手たちのひたむきな姿にはいつも心打たれます。そう、むろん、主役はいつも選手たちなのです。
新国立競技場が無事期限内に竣工し、今から2年後に、スポーツの祭典の主会場として、選手をはじめ世界の人々の思いを受けとめる器となることを切に祈るばかりです。
ザハ・ハディドは、フランク・ゲーリーなどとともに、建築における自由な表現の可能性を押し広げたという意味で、未来にも記憶されていく建築家だろうと思います。
先日、紹介したI.M.ペイは50歳を前に独立し、それから50年間現役を続けられていますが、今までに発表された作品数はそれほど多くはありません。しかし、一つ一つが記憶に残るような名作です。
ザハ・ハディドは、50歳ころから実作を次々とつくるようになり、毎年、世界各地で多くの作品を残し、それから15年ほど猛スピードで駆け抜け、忽然と逝きました。しかし、生涯に残した作品の数はもしかしたらペイを上回っているのではと思うほど、ここ数年目覚ましい活躍を遂げました。
二人の国際的な建築家は、表現も、その人生も、対照的でした。
3000年前の古代文明から現代の最先端技術まで、そして同じ現代でも、異なる表現の両極を受け入れる懐の深さのある中国は、その思考の射程が日本人にはなかなか理解できないようなところもありますが、同時に魅力的な場所でもあります。
今年は、日中平和友好条約締結40周年の節目の年だそうです。
機会があれば一度行ってみて、メディア越しではない、実際の中国を体験してみることをお薦めします。