越後一宮(新潟県で一番の神社)彌彦神社。 旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社です。

ネット等で調べると、「新潟屈指のパワースポット」だとか。

訪問日は2017年10月10日、地名等は「やひこ」なので「やひこ」神社と言われますが、「いやひこ」神社が正しいそうです。

「『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。」(Wikipediaより)

彌彦神社は新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にあります。新潟市方面から弥彦村に向かうと、まず大鳥居に迎えられます。

大鳥居は昭和57年(1982年)に建立された。高さ30.16m。当時は日本一高い鳥居だった。特殊鋼製という。吉田と弥彦を結ぶ県道29号線上に立つ。日本最大の鳥居は熊野本宮大社のもので高さ33.9m。(2011年8月1日現在)

今は日本一の座こそ譲りましたが、最大級の鳥居といっていいでしょう。

すごい迫力です。鳥居の向こうに見えるのがご神体の弥彦山。

ご神体、弥彦山。634m。境内近くのいたるところに、東京スカイツリーの写真入りで、それと「同じ高さ」であることがアピールされていた。建造物と自然の地形は比べようもないが、弥彦山の方がどう考えてもずっと格上なのに、たまたま同じ高さだからといって、そこまでして宣伝したいかなと苦笑しました。

山のふもとにある、彌彦神社につきました。駐車場に車を止めて参拝します。

一之鳥居

御祭神は天照大御神の御曾孫で天孫御降臨に供奉して降り紀州熊野に住み神武天皇御東遷の時霊剣を奉りて大功をたて、後北辺鎮護国土開発の勅令を報じて越後に降られ、住民を導き、農耕漁業を始め諸産業を教え、地方文化産業の基を開かれた大祖神である。

されば夙く衆人その徳を仰いでこの地に社を創建し崇敬の誠を捧げた古社であり、遠く万葉集には彌彦の神をたたえ、平安期の始め神験の顕著により名神の列に加わり神階を授けられ、延喜式に名神大社と記す、鎌倉幕府三千貫の社領を寄せ、上杉謙信神助を祈り、徳川氏また五百石の朱印地を奉る。明治四年国弊中社に列し、皇室始め衆庶の崇敬極めて篤く明治十一年明治天皇が、昭和四十七年には天皇・皇后両陛下又昭和五十六年には皇太子・同妃両殿下がご参拝になる。昭和二十二年宗教法人となり神社本庁に属する。
一之鳥居をくぐり
表参道を進む
左手に御神橋(玉ノ橋)
神苑配置図
相撲場(土俵)

相撲場は、平成27年に、御遷座100周年を記念してつくられたもの。神道と相撲の深いつながりをあらためて認識する。

土俵開きでは、横綱日馬富士が奉納土俵入りしたという。(当時の新潟日報の記事

「土俵開きが行われる26日は午前9時半、伊勢ケ浜部屋が鳥居から拝殿まで行列し参拝する。永田忠興宮司は「奉祝行事が順調に行われる中、素晴らしい相撲場なども完成してうれしい。伊勢ケ浜部屋の行列は多くの人に御覧になってもらいたい」と話した。」(同記事より)

そのときにはまさか、先日のような事件が起こるとは誰も思っていなかっただろう。残念。

相撲場から日本鶏舎方向に進む。途中90度左に折れると本殿へ向かう参道
同じ場所で右を向くと、社殿へとまっすぐに伸びる東参道
社殿へと続く緩やかな傾斜の参道をのぼっていく
二之鳥居が見える
二之鳥居
同上

このおだやかな様子からは想像がつきませんが、かつてこの場所は、彌彦神社事件という群衆事故の教訓も残しています。(拝殿前で起こったとされる)

隋神門が見えてくる
隋神門
同上
隋神門をくぐり
社殿へ(背後にご神体の弥彦山)

社殿は明治45年(1912年)に焼失し、大正5年(1916年)に現在地に移って再建された。本殿 は 三間社流造。山形県出身の建築家・建築史家の伊東忠太が設計したそうだ。

通常の「二礼、二拍手、一礼」ではなく、「二礼、四拍手、一礼」が彌彦流だという。出雲大社も同じ。

参拝が終わり
参道を二之鳥居に向かって歩く
二之鳥居をくぐって東参道を下っていく
東参道の左手には鹿苑
東参道を振り返る
再び東参道をのぼっていくと左手に近代的なランドスケープ
案内図を見ると桜の木が数多く植えられた庭園のようだ。近年整備されたものか。
大鳥居をくぐって、帰路へ。

短い参拝でどれだけパワーを授かれたかわかりませんが(笑)、とても雰囲気がよく、環境造形としても一度は行ってみる価値のある素晴らしいものでした。清々しい気分で帰途につきました。

以上、2018年、第一回目の空間日記でした。

本年もよろしくお願いいたします。