2017年10月27日金曜日、JIA(社団法人 日本建築家協会)東北支部主催の「第21回JIA東北建築学生賞」の公開審査に聴衆として参加してきました。
この賞はJIA東北支部の主要事業の一つであり、建築文化の向上と交流を目的として、東北で建築を学ぶ学生のためにもうけられたものです。各校ごとの自由参加ではありますが、東北の大学、高専、専門学校の学生の通常の設計課題を対象に行われる建築賞としては、もっとも大会としての規模が大きく、その価値が幅広く認められているようです。
毎年一回、これまで計20回開催されており、昨年までの入賞作品はJIA東北支部のホームページで見ることができます。
私が今年から非常勤講師をつとめる日本大学工学部建築学科(福島県郡山市)からは3名のエントリーがありました。(各校から3名まで登録可能)
日大工学部建築学科からは、毎年、3年生から一人、4年生から二人、この「東北建築学生賞」に選ばれて出場することになっています。
4年生に関しては、前期(4月~7月)の授業「建築計画設計」の課題の提出案の中から優秀なものが選出されます。
その授業は、今年は4つのスタジオに各一名ずつの講師がついて指導を行いました。
私が講師を担当したスタジオからは、学内予選を経て、柳沼明日香さんが学部の代表の一人として今年の「東北建築学生賞」に参加しました。
「建築計画設計」は、90分の授業2コマを一日で行い、計15日30コマの授業で一課題を作成します。
建築学科の学生、もしくはかつてそうだった人はわかると思いますが、授業の時間は、自分の進捗を講師に見せて指導してもらう(エスキース・チェック)や、そのスタジオ内での中間発表などに充てられ、基本的に設計課題の作成は、本人が、学校や家で授業以外の時間をつかって進めることになっています。
私は、建築学科で授業を行うのも設計製図を教えるのも初めてで、大学の製図室に足を踏み入れること自体、二十数年ぶりでした。極端に言えば紙と鉛筆と定規しかなかった我々の時代と比べ、やはりインターネットやCADを使える環境というのは隔世の感があります。そのようなギャップも少しは感じつつ、試行錯誤を繰り返しながら学生たちとの授業を進めていきました。
しかし、建築を考えるのはあくまでも人間です。コンピューターは道具にすぎません。もちろんコンピューターを使わないと表現できない形というのもありますが、コンセプトを練り、模型やスケッチ、図面などで検討を重ねていく、学生時代の設計演習の進め方はそれほど大きく変わっていないようにも思いました。
私の設定した「課題」は
「 <東北に外国人観光客を呼べるような,新しい名所をつくる> 東京や大阪,京都などの大都市は,年々海外からの観光客が増え,宿泊施設が足りないほどにぎわっている。しかし最近は,大都市の観光に飽き,地方の中小都市を訪れる外国人観光客も増えているという。だが東北諸都市の状況を見ると,統計上も街の様子からも,そのインバウンド効果はまだ現れていない。その一因として,東日本大震災後のさまざまな東北の困難な状況が挙げられることがある。だが,世界中にある悲しみの遺産を巡るダークツーリズムが注目されたように,被災地の復興経験が観光資源となることも十分ありうるし,それをいつまでも言い訳にしていては現状を打開することはできない。元来,東北は尽きせぬ魅力をもっている。それらを引き出すのでもよいし,明暗を対比させるのでもよい。日本のみならず世界中の人々が足を運び,東北の素晴らしさを知ってもらえるような施設の提案を求める。郊外型量販店,ネット通販が隆盛を極める今日において,観光と連携した商業を活性化することは地方都市が生き残るための数少ない選択肢の一つだ。観光を依り代にして地方再生の糸口が見えてくることにも期待したい。既存施設の改装・再利用でも,新築でもよい。用途は,文化施設,宿泊施設,飲食・娯楽施設,それらの複合体等,自由に設定して構わない。規模も任意。敷地も自由だが,実在の場所とする。」
というものでした。(スタジオごとに各講師が異なる課題を設定します。)
それに対して、参加した学生は、自分で敷地を探し、テーマや建物用途を設定して、課題に取り組んでいきました。上記の課題に対して、学生によってさまざまなアプローチがあり、意外にも、場所やテーマが重なりあうことは、ほとんどありませんでした。課題をつくった私にも、予想すらつかなかったユニークな提案が数多く提示されました。
まず、最初の数回は、敷地を見に行ってきて、現状分析(敷地形状、地域文化、気候風土、法的規制など)すること、それに基づいたコンセプトを練ることにあて、節目には、それらに関してスタジオ参加者全員の前でプレゼンテーションをしてもらいました。この時にコンセプトを深くしっかり考えられた人ほど、後になって具体的な計画でつまづいたときでも、一段と強さを増して立ち直ることができたように思います。現実の設計でも同じことが言えると思います。
コンセプトが固まってきたところで、マスタープランから徐々に形をつくることをはじめ、途中からスタジオを3つのグループに分けて、グループ内で小さな発表会をして、学生同士が議論したり、そこに講師やTA(teaching assistant)が回りながら講評するということを何度か繰り返していきました。
正直、エスキース・チェックの際に、ノートPCやタブレットの画面を私に見せながら説明してくる学生には面食らいましたが(最低限、紙に印刷してきてほしい)、個人差はあるものの建築にかける情熱はそれほど我々の学生時代と変わっていないように感じました。
各スタジオ(私のスタジオは全部で15人)では、全15回の最後より一つ前の授業(=第14回)で、各スタジオ内での発表を行い、それぞれのスタジオから4人の代表者が選ばれます。
私のスタジオの場合は、スタジオを3つのグループに分け、13回目にグループ内予選を行い、その上位者が14回目のスタジオ内最終発表で競い合うようにし、学生による投票も行い、最終的に私が代表者を決めました。(学生による投票の獲得数の多かった順に上から4名の案を見たところ、私もそれらをスタジオの代表とすることに異論がなかったので、結果的にはそうなりました。)
そして、最終回の授業で、全スタジオ合同で、選ばれた計16名が学内の予選を闘って、そのうちの二人が4年生の代表としてJIA東北建築学生賞への挑戦権をえるというシステムになっています。
プレゼンの前になると、研究室などに泊まり込んで、数日徹夜をして模型などの製作に取り組み、プレゼンが終わると全力を出し切ってその場で突っ伏して眠るというような私が考えるステレオタイプ的な建築学生の姿が日大工学部にはありました。(私の学生時代もたいがいそうでした。)大学によっては夜になると学校を完全に閉鎖し、泊まりこんでの作業すらできないところもあるようですが、皆が寝泊まりして設計に没頭するような、あの製図室の一種独特の雰囲気を経験したものにとっては、それなくしては今の自分はないと思われるのです。ノスタルジアに過ぎないかもしれませんが、日大工学部にはまだ、そのような前時代的な(?)伝統が残っているようで、私個人としてはうれしく、その点についてはそのままであってほしいと思いました。
学内の審査については、大学施設の多目的ホールで公開で行われ(今年は2017年7月21日)、当該の4年生のみならず、他学年からも多くの聴衆が集まって、にぎやかなイベントとして行われます。審査員は、私のような非常勤講師を含めた建築学科の先生が2票ずつをもって、よいと思われる作品に1票ずついれていきます。
このような厳しい学内予選を勝ち抜いた二人の4年生と一人の3年生が、日本大学工学部建築学科から、このJIA東北建築学生賞に参加する権利を得ます。
日大工学部からは、4年生の柳沼明日香さん、遠藤尚弥君、3年生の小野菜津実さんが選ばれて参加しました。
そして、いよいよ、2017年10月27日のJIA東北建築学生賞の審査です。
おそらく、どの学校でも、上で見たような予選が行われ、それを勝ち抜いた優秀作品がここに集まってくるのでしょう。
「JIA東北建築学生賞」は、通常の授業で行われる設計課題に関して、東北の学生の設計のなかで一番優れたものを、JIAの会員である東北6県の建築家などが審査員になって選ぼうという趣旨の賞です。(卒業設計に関しては全国規模のまた別の大会があります。)
今回、東北各地から40作品の応募がありました。
会場は伊東豊雄氏の代表作でもある、せんだいメディアテークの1階のロビー空間(多目的ラウンジ)。
第一次審査は、会場に置かれたパネルを審査員たちが回りながら、作者に質問をしたりして行われます。審査員だけでなく、一般の人々もそれに混じって自由に見たり質問したりすることができるようになっています。JIAのこの賞の審査のために提出できるのは、このA1パネル1枚と、A4サイズ1枚の指定されたフォーマットに書かれた「課題趣旨」と「設計趣旨」のみで、模型等の立体物は表現手段として使えないことになっています。(模型写真をA1パネルに貼り込むことは可)
審査員の席は、聴衆の前に置かれ、完全な公開審査です。
審査委員長はJIA青森地域会の堀内将人氏。(右端に座られている方)
審査員は二週間ほど前に、JIA東北支部から送られてきた、全作品のパネルの50%縮小版を受け取って、お忙しい中貴重な時間を割いて、丹念に目を通してから会場入りされています。JIA会員でもある各県代表の審査員の方々は交通費などの実費が支給されるのみで無給と聞きました。JIA(日本建築家協会)東北支部としては、このような大会を催すことで学生に建築の設計に関心を高めてもらうと同時に、一般の方々の建築文化への理解を深めていただき、近年減少傾向にある建築設計の世界にフリーランスで飛び込もうという勇気ある若者を一人でも増やしたいという意図もあるのだろうと思われます。いずれにせよ、審査員のみなさんには本当に頭の下がる思いです。
一次審査は、東北六県をから各県を代表する1名ずつの審査員が、6~7作品を分担して講評し、その講評を聞いた上で、それ以外の4名の審査員も含めた10名が、一人5票ずつもって、気に入った作品に1票ずつ入れていきます。
第一次審査の投票結果です。全体の獲得票数を見たうえで、2票以上のものが、第二次審査に進めることに決まりました。12作品が残りました。一次審査で最も得票数が多いのは12番の9票、続いて27番の5票。
以下が、選ばれた12作品。後方にあった公開展示会場から、前方へと移されます。
第二次審査では、この12作品のA1パネルを、前面にある大きなスクリーンに投影しながら、2分間の時間を使って、作者である学生が自ら説明しながら、プレゼンテーションを行います。
学生は、所属学校名や自分の氏名を名乗ってはならず、「何番が発表します」というように言って始めます。いわゆるブラインド審査になっています。審査員は学生の出身校を事前に知ることはありません。
二次審査開始。(以下では主に、入賞作を取り上げます。)
まず、3番の「n Place」から。
9番の「共育の島嶼」
2分間の発表のあと、それぞれ3分ずつ、審査員による質疑をうけ、作者はそれに答えることになっています。
12番の「鼓動する橋」
私が受け持ったスタジオから出た柳沼さんの作品です。
25番の「農からはじめる復興計画~向きを変える建築」
27番「白帯の誘因」
32番「本育園」
35番「街の色と生活のリズム 七日町集合住宅」
38番「道草HOUSE」
このようにして12名のプレゼンテーションが終わりました。
全員の発表が終わって、最終審査に移ります。
第二次審査は、10人の審査員が、一人2票ずつもって、もっともすぐれていると思う2案に、一票ずつ入れていく方法です。
12番が第二次審査でも9票を獲得し、文句なしで、最優秀賞に選ばれました。
続いて、基本的に票数の多い順に、優秀賞2作品(票数が同じものが多数ある場合は、審査員が討議)、奨励賞4作品の上位7作品が選ばれました。
その他に特別賞が、それ以外の作品の中から、JIAの協力会により選ばれます。
そして、表彰式。ここで初めて、学校名と氏名が明かされます。
最優秀賞に選ばれたのは12番、日本大学工学部建築学科4年の柳沼明日香さんの「鼓動する橋」です。敷地は福島県浪江町請戸。今春、避難指示が解除されたばかりの地域です。
冒頭に述べたように、私の設定した「課題趣旨」は<東北に外国人観光客を呼べるような,新しい名所をつくる>というものでした。
それに対して柳沼さんは以下のように応答しました。
「課題に取り組むにあたって,私はまず目先の観光客数を増やすために新たな集客施設をつくるというよりはむしろ,地域伝統文化や土地の記憶を観光資源として注目し,その潜在力を引き出すことから考えたいと思った。そして観光にとって最も重要な要素のひとつである真正性を重視し,本物の体験がえられる場として,あえて,ようやく今年の春,避難指示が解除されたばかりの福島県浪江町の請戸地区を選んだ。原発事故からの復興という人類史的課題と,この地域に古くから受け継がれている地域文化の要素を結び付けて,世界と地域,普遍性と固有性といった二項対立を乗り越えていくためのひとつの実践が,この場所だからこそできるのではないかと思ったからである。具体的プログラムとしては,「竣工当初は復興支援の役割に重点を置きながら,徐々に観光客も受け入れて地域の活性化を促し,同時に地域住民の交流の場,心の拠り所,そして震災の記憶を風化させないための記憶装置ともなる施設」という設定にした。
請戸川に古くから守られてきた伝統鮭漁の簗(やな)場のあったあたりは,奇しくも多くの問題を抱えながらようやく始まった復興の地域と重なっている。そこで,復興の段階的達成の足掛かりとして,地域固有の文化である簗漁を取り入れた複合施設を提案する。本来仮設的に設置される簗の架構を伸長し,漁以外の機能を付加しながら,人道橋の役割も担う恒久的な建築とすることを計画の中心に据える。具体的展開としては,従来斜めに固定して使っていた簗を,ヒンジと滑車を用いた仕掛けによって水平にもできるようにすることで水上の涼やかな床に変身させ,帰還した住民の集いの場やマーケットとして,また施設が壊れ一度は開催不能となった「あんば祭り」の新しい舞台及び観客席として使えるようにする。そして上階を簗番や原発作業員のための住居とし,復興が進むにつれて観光者が宿泊できる客室へと段階的に改装していく。
この建築は,上述の機能を超えて,原発周辺地域の「いま」を正確に世界に伝えるための「媒介」でもあり,また地域の復興の象徴としての「記念碑」でもある。また両岸に住まう人々の交流を促す橋であるだけでなく,浪江町と世界を結ぶ「架け橋」でもある。今後100年間,復興の礎として請戸の人々を見守ったあとも,人間の営みが続いていく限り,震災と復興の「記憶の器」として,この橋は鼓動し続ける。」(JIA東北建築学生賞に提出された「設計主旨」)
各審査員から、高い評価を受けました。詳しくは最後に掲載した新聞記事をどうぞ。
柳沼さんは私が設定した「東北に外国人観光客を呼べるような新名所をつくる」という課題に対して、敷地の場所をあえて福島原発に近い請戸地区に設定するという困難な選択をしました。私の課題に応えて観光に結びつけるためには、敷地として一番難しい場所だったと思います。そのままでは、批判的な見方もあるダーク・ツーリズム的手法をとるしか、課題との整合性が取れそうにないところを、簗(やな)という地域固有の文化とLiving Bridge (居住橋)の概念を設計に取り入れながら、100年というタイムスパンの中で建物の用途を次第に変更していくという物語を紡ぐことで、震災復興と、東北の観光振興を巧みに結び付けることに成功し、詩的な表現も相まって、多くの審査員の共感を呼んだのではないかと思います。
想像力に富んだ、壮大な時間的スケールの4次元的提案でありながら、決して荒唐無稽に陥ることなく、地域の人々に寄り添ったリアリティを感じさせるものに昇華できたのは、敷地に何度も足を運んで住民とも対話を重ね、被災地の現状を肌で感じながら設計を進めた、柳沼さんの地道な努力の賜物といっていいでしょう。
必ずしも一般化はできませんが、私のスタジオでは、難しい敷地やテーマに取り組んだ人ほど、より深い提案ができている傾向があるように思われました。
柳沼さんの受賞は私にとっても望外の喜びでしたが、私の指導期間はわずか4か月にすぎず、4年生までの3年間に日本大学工学部建築学科の諸先生方が常日頃から丁寧な指導をされ、基礎を形成していただいていたことが、このような形で結実したのではないかと思います。感謝申し上げます。
最後に、審査員の皆さんから、一人ずつ全体講評をいただきました。今年は全体としてレベルが高かった、近年稀にみる力作ぞろいだったという感想が多く聞かれました。その中での入賞はたいへん価値があるし、入賞できなくてもそれほど悲観する必要はないということかもしれません。競い合いながら、東北全体の学生の設計のレベルがますます向上していくことに期待しています。
この日発表された作品には、学生の設計ならではの、鋭い視点があり、私自身にとってもよい刺激になりました。
審査結果は以下の通りです。
入賞者と審査員の先生方が集まって記念撮影。みなさんお疲れ様でした。主催者、運営にあたられた方々、協力会の皆様、そして審査員の先生方、このような機会を設けていただきありがとうございました。
翌週には、建設産業新聞、建設通信新聞、建設新聞、建設工業新聞の四紙に記事が掲載されました。東北を代表する学生対象の建築賞としてメディアも高い関心をもって取り上げています。
ここで見てきたように、学内選抜(日大工学部の場合はその前にスタジオ内予選)、一次審査、二次審査と多くのステージを闘いぬいて、入賞にたどり着いたことにはとても大きな重みがあると思います。
入賞者のみなさん、本当におめでとうございます。今後、周囲の期待に応えてつねに結果を残していくのはなかなか大変でしょうが、さらに精進を重ねて、近い将来、建築設計の分野で、プロフェッショナルとして大きく羽ばたいてくれることを期待しています。
一方、この会場にたどり着けた学生たちのかげで、実力はありながらチャンスに恵まれず涙をのんだ人たちが大勢いることも私は知っています。
入賞作は、学内で切磋琢磨する仲間たちの作品からの刺激を大いに受けて、このレベルに達することができたのだと思います。
今回入賞できなかった人、そして出場機会に恵まれなかった人も、例えば大学4年生であればこれから本格的に取り組むであろう卒業設計など、それぞれに力を発揮できる場面が訪れると思いますので、がんばって取り組んでください。
「意志のあるところに道は開ける」
先日話題になったアインシュタインの1922年の来日時のメモにも記されていた言葉です。
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