6月18日、カトリック新発田教会を訪れました。新潟県新発田市中央町にあります。
アントニン・レーモンドによる設計で、昭和41年(1966年)8月に竣工。昨年(2016年)11月3日、献堂50周年を迎えました。
さまざまな困難を乗り越えて、半世紀間、この地に建ち続けてきました。
この聖堂の設計者、レーモンドはチェコ出身のアメリカ人ですが、日本の建築界に対する貢献は大きく、アメリカにはもとより、日本にもリーダーズダイジェスト東京支社、東京女子大学、南山大学、軽井沢教会など多くの優れた作品があります。
建築当時、聖堂の正面は狭い道路に面していましたが、設計者は幅員16mの都市計画道路が完成することを見越して、聖堂正面を東側に向けていたといいます。広い道路が完成し、市民のみならず多くの来訪者、道行く人々の目にとまるようになり、この聖堂建築の美しさがあらためて認められるようになりました。
「教会の前の道は長年車も通れないような細い道であったが、2000年代に新発田市の都市計画道路「中央町緑町線」が教会の敷地を大きく削る形で計画された。建物のすぐ脇を車道が通ることによる教会の環境悪化や建物の保存に対する懸念から、計画見直しの要望が建築家などから新発田市へ寄せられた。後述の日本建築家協会による「第5回 JIA 25年賞」大賞の受賞には、この問題に対する支援の側面もあった。 同協会はその後、新発田市に対し教会の環境保存の要望書も提出している。
計画は最終的に、教会付近の歩道の幅を広めに取るとともに、教会前の歩道を湾曲させ緑地帯を設置することで決着。 中央町緑町線は2008年11月に開通した。」(カギカッコ内はウィキペディアを参照しました。)
着工は昭和40年(1965年)7月。発注者は、カトリック新潟教区 教区長 伊藤庄治郎司教。建築当時の主任司教はヨゼフ・ノツオン師(カトリック神言修道会元日本管区長)
構造は組積造(レンガ+補強コンクリート造)+木造。いま流行りの(?)ハイブリッド構造を先取りしているようです。
レーモンドは日本の大工の技を高く評価しており、とくに丸太材の組み合わせの技量には感心していたそうです。その点ではアメリカの大工の技量は問題にならないレベルと言っていたらしい。
「これも北の国、越後にある〈カソリック教会〉。〈聖ミカエル教会〉が構造の決定に半年かかったように、〈新発田教会〉も永い時間が費やされた。名古屋の〈神言神学院の礼拝堂〉のあと、教会の平面の決定が宗教上の儀式を明らかに変えることを知り、木造教会でも変化を示そうとしたのである。この扇形プランは木造ゆえに構造の難しさがあった。〉(『現代日本建築家全集1 アントニン・レーモンド』(以下『全集1』)より)
現地では、施工を担当した新発田建設の執行役員(営業推進部長)の齋藤昌弘さんが、聖堂について詳しく説明してくださいました。
レイモンドは米国人でありながら日本の建築に通暁しており、戦後の混乱期に、日本の建築設計界をまとめ上げた重鎮でした。
三一書房から1971年に刊行された『現代日本建築家全集』(全24巻)の第一巻が「アントニン・レーモンド」であったことがなによりの証左でしょう。
「日本で仕事をする外人建築家には、ひとつの特権がある。現代建築の目標とされて再発見された基本的原則が、日本建築や文明の中で、具体化されていくのを眼前に見られるからである。西欧では、深く根を張る唯物史観が邪魔をして、この純粋な原則にまだ気づかず、精神構造ばかりが追求されている。これらの原則は、日本の古来の建築の中に、きわめてはっきりと表現されているのである。」(『わが回想』(アントニン・レーモンド)より)
アントニン・レーモンドは、1888年5月10日、チェコのグラドノに農家出身の中産階級の子として生まれました。やがて一家はプラハに移り、アントニンはプラハの理工科大学に入学します。
当時、大学では、ウィーン派の折衷主義、オランダのデ・スティル、ベルギーのアール・ヌーボーが問題とされ、1889年のシカゴの最初の鉄骨造が知られていましたが、グロピウスも、ル・コルビュジエも、オーギュスト・ペレーも知られていませんでした。
ただ、1909年頃出版されたフランク・ロイド・ライトの小さな作品集、および1911年頃出た大きな写真集は、学生たちの中に大きな波紋を引き起こしたといいます。
大学を卒業したアントニンは、活動の場を求めて、小さなイタリアの不定期貨物船でアメリカへと渡りました。
妻ノエミとの出会いは運命的なものでした。1914年、絵を描くためにアントニンがヨーロッパを旅行した際、その帰路に出会ったのです。その後結婚、二人で建築設計の仕事を続けました。そして、1916年アントニンはライトの下で働き始め、19年来日、23年にレーモンド設計事務所を設立しました。
この教会も二人の合作と言っていいものです。家具や燭台、そして建物の内外観の印象に決定的な影響を与えている特徴的な窓の和紙によるデザインはノエミ夫人によるものです。
「円弧を描くように祭壇のある中心に集中する。会衆席は三部分に分かれ、六角の聖壇の三辺に向かう。木造の明りとりが祭壇の真上に立ち上がり、鐘楼のように聳えて十字をいただく。その立ち上がりを支える六本の柱の中、二本は会衆席側、聖壇の縁に立つ。本来は邪魔な柱のはずだが、縁に立ったために、かえって空間を限定した。中心に屋根が迫り上がり、明りとりに昇る気配をはっきりと見せるのがこの柱である。再三使われてきた木と煉瓦の組み合わせが、ここではさらにはげしい。煉瓦は祭壇の裏側に立ち上がり、左右の壁となり、構造上も強く働く。札幌と同じく太い丸太が使われ、素朴な強さをみなぎらせる。」(『全集1』より)
祭壇の上部は六角錐のような形状で途中にサイドライトが設けられている。宙に浮いた十字架にはキリスト教徒のしるしである「魚」マークが付されている。ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ <イエス キリスト 神の 子 救い主>の頭文字を順番に並べると、「ΙΧΘΥΣ」(ギリシャ語で魚)になることから、迫害時代に同じ信仰をもった同士であることを暗示的に伝える手段として、この魚マークが使われた。今でも「魚」はキリスト教のシンボルであり、多くの西洋絵画にも魚が暗示的に描かれている。
総工事費(聖堂の建築工事費)は3万ドル。アメリカの一家族(篤志家シュルツ氏)の善意の寄付によってこの聖堂は建てられました。当時1ドル360円レートなので日本円で1080万円となります。
「教会はどこの予算に乏しい。普通には予算がないから木造にしているくらいであるから、経済的には限度の状態で、最大の効果をあげなければならない。しかし、設計にかける時間の長さは、たとえ設計料をもらっても匹敵するとは思えない。それでもレーモンドは教会を設計する。宗教に対する心の問題ばかりではない。彼にとって必要な空間の探求が、この場合宗教儀式の追求に代るからだろうか。ともあれ教会の作品はどれもが構造と、宗教の機能と、平面に一致する。」(『全集1』より)
アントニンが、優れたグラフィック・デザイナーである妻とともに、タリアセンにライトを訪ねたのは1916年の早春のことです。
「私がフランク・ロイド・ライトのもとで働くために、ウィスコンシン州、スプリンググリーンのタリアセンに行ったのは1916年の春のことであった。私が日本に来るようになったのはもとはと言えば彼のおかげである。また私が彼のもとに行ったのもほんの偶然の出来事だったのである。つまり、私の家内の友達が、ライトと一緒に住んでいた女性を知っていたところから、タリアセンに招かれたのである。」(『ライトの死に想う』アントニン・レーモンド(新建築1959年5月号)より)
やがてアントニンは、ライトの下で働くようになり、1919年、帝国ホテル建設の際に彼とともに来日。
しかし、アントニンは、「この仕事にかかって一年後、私は全く飽きてきた。主な理由は、際限もなく繰り返されるライトのマンネリズムであって、彼はそれを文法と呼んでいたが、私には何ひとつ付け加えることができなかった。その文法も私には、この場所を考えると内容が場違いであるように思われた。そのデザインが、日本の気候、伝統、文化、あるいは人間に、何ら共通でないことに気付き始めたのはそれほど時がたたぬ頃であった。こんなことが、まさかライトに起こるとは、私には考えられなかった。だが彼の思想は、完全に自己の想像力の表現に集中されていた。ホテルは結局のところ、彼自身のモニュメントと化してしまったのだ。」とのちに回想するほどのストレスを感じ、ライトのもとを離れます。
その後、自らの事務所を設立、日本にとどまり、多くの近代建築を残しました。
彼の事務所(レーモンド設計事務所)は、前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなど多くの建築家を輩出しました。前川國男は1928年から30年までパリのル・コルビュジエの下で学び、帰国後、東京レーモンド事務所に入所。(英語版のWikipediaには、前川國男が事務所に入ったことで、レーモンドは以前から関心のあったコルビュジエの影響をより強く受けるようになったように書いてあります。)
前川は、コルビュジエのもとで2年間無給で働いたあと、帰国しても不況で仕事がなく資生堂パーラーのボーイにでもなろうかと考えていたところ、恩師の一人である佐野利器からレーモンドに対して「鼻っ柱の強いやつがいるから」と紹介されたのだそうです。前川は晩年のインタビューで、レーモンドとえらく話の馬が合ったと述べています。「レーモンドはそんなに人と話が合う性格ではないので、おかしいと思うが、本人がそう言っているので信じざるをえない。もう一つ、前川は、「レーモンドは非常に癇癪もちでよく怒鳴る。しかし、私は怒鳴られたことはない」と言っています。これもどうかと思う。同じことを、吉村(順三)さんも言っているからです。話が誇張されている。…ともかくも、こうして、1930年8月から1935年9月までの5年間に及ぶ、前川のレーモンド事務所での建築実務の修行が始まります。…前川がレーモンドから学んだのは、建築デザインの実務的な方法や、日本の伝統の何を近代建築化すべきかという創造性の問題だけではありません。建築家がどのように設計を進めていけばよいか、という設計事務所のあり方についても、レーモンドから学びそれを継承していったのだと思います。」(三沢浩「アントニン・レーモンドから学んだこと」(『前川国男 現代との対話』所収)より抜粋)
独立後の前川國男の事務所には1938年、大学卒業直後の丹下健三が入所しており(~41年)、丹下はレーモンドの孫弟子とも言えるでしょう。そして丹下門下からは、大谷幸夫、槇文彦、磯崎新、黒川紀章、谷口吉生など、戦後の現代建築をリードした多くの建築家が巣立っています。そして、それらの建築家の弟子や孫弟子が現在第一線で活躍しています。そのすべての源流はレーモンドにつながっています。
新発田建設からいただいた資料には、施工者としては、この聖堂は、創建約1400年の世界最古の木造建築、法隆寺と違い、鉄製のボルトが主要構造部に多用されており腐食が心配だと述べられています。100年くらいならまったく問題ないでしょうが、おそらく、これを書かれた方は、1000年以上のちの未来のことも想像して心配なさっているのでしょう。ものづくりとして見習うべき姿勢だと思います。
フロアヒーティング(床暖房)の設備があるのだが、コストの面で現在使用中止しているそうです。
冒頭でも紹介しましたが、この建物は2004年、第5回JIA25年賞大賞(全国に建っている25年以上経過した建物を、5年ごとに日本建築家協会が選んで表彰する賞)を受賞しました。
受賞理由 「優れた設計と施工そして長年立派に維持してきた信徒の皆さんの努力に対して25年賞を贈る。」
受賞の概要
作品名:新発田カトリック教会
設計者:アントニン・レーモンド
申請者:JIA関東甲信越支部
建築主:カトリック新潟教区 司教伊藤庄治郎(資料による。プレートでは菊地功)
施工者:新発田建設
JIA25年賞大賞のパネルの左側には、この聖堂を寄付してくれたシュルツ一族の銘版が控え目に設置されています。(順序としてはこちらが先でしょうが。)どこにも「いくら」とか、寄付したことさえ書かれておらず、「記念のために」とのみ記されています。シュルツ氏の謙虚さと信仰の深さが偲ばれます。
レーモンドは素材そのものを大切にする考え方の強い人であったので、南山大学も恵比寿にあった神言会修道院等、彼の設計するものにはコンクリート打放しが多い。
聖堂内部、信徒席が祭壇を取り囲み、全体が祭壇を中心として、まとまりを持っています。第二ヴァチカン公会議以前の聖堂はこのような形式ではなかったそうです。全員参加のミサを中心テーマとした平面で設計されたので、このような形になったのでしょう。内部の使い勝手は動線も、音響効果も、信徒の求める宗教的雰囲気も、全てが十分に満足されている優れた建築といえます。
「レーモンドは、日本の建築についてくりかえし語っているが、彼があげているあの根本原則から言って、彼が最も大きな讃嘆を注ぐのが、伊勢神宮であるのは、容易に推察しうるところだ。彼は、伊勢神宮を「世界の建築のもっとも偉大な傑作のひとつ」と見なし、「構造と平面プラン」という建築のもっとも基本的な原則のもっとも高いもっとも純粋な達成と評している。すなわちここでは、構造そのものが美的要素と化しているのであり、そのこのうえなく純粋な形が建築そのものとなっている。…伊勢神宮に対するこのような讃嘆は、レーモンドよりも15年のちに日本に訪れたブルーノ・タウトにも見られるばかりか、この両者の観点が酷似していることは、今世紀前半の気鋭の建築家たちにとっての日本建築の意味合いを示すものとして、私には興味ぶかい。」(粟津則雄)
煉瓦壁は外壁であると同時に内壁でもあり、極めて耐震性の強い構造になっています。煉瓦をタテ・ヨコに組み合わせ、その中に補強鉄筋とコンクリートが打ち込まれています。煉瓦壁の厚さは21cm、鉄筋の太さは13mm。
丸太材(杉)は村上市の山中で伐採したものを、使用部位別に伐採現場で選り抜いて運んだ。
「私は木が非常に好きです。というのは、これが本当の建築家の使うべきもので、これを使ってこそ本当の職人といえるものです。造ったものでもなんでもない。ですから、木というのは今日、私どもがもっている他の材料にくらべてすばらしいと思います。」(岡本太郎、栗田勇との鼎談より)
この教会で使われたレンガは約3.6万枚。荒川町坂町の煉瓦工場で高温焼成されました。1000度程度の低温で焼いたものは水を通して凍ってしまうが、1300度の高温焼成した新発田協会のレンガは、透水したものはいままで一枚もないといいます。
建物の音響効果も抜群の出来だといいます。床と壁と窓は硬い材料ですが、天井は丸太と垂木と野地板で音を吸収し、その絶妙のバランスが優れた音響効果を生み出していると思われます。
「12世紀以来、禅の影響のもとで、宗教哲学と美学の達人による茶道が誕生し、発達した。それとともに、茶の宗匠は、建築についても、これを導いてきた。茶の宗匠は、誰よりも、現代建築の観念に近い真の答をもっていたのである。」「人びとは自然の呼びかける材料をえらぶ」(アントニン・レーモンド)
レーモンドは、茶室を、人間は自然界の帝王として自然を支配するのではなく自然の一部であるという日本人の自然観から直接生じたものとして、高く評価しています。
「自然は人工より美しい。単純さと軽快さは複雑なものより美しい。建物の広さにしても材料にしても、節約は浪費より美しい結果を生む」
この教会は、いわゆる日本建築の「切妻」でも「入母屋」でもなく、もちろん「四ツ屋根」でもない独特の形状です。キリスト教の聖堂としての使用目的を最優先し、かつ建物の諸機能を充足している建築です。内部のデザインも協会の聖堂としての使命に徹して設計されています。
アントニン・レーモンドは、1975年10月25日祖国アメリカのニューホープで永眠しました。
現場では、すべての指示は英語で行われたといいます。レーモンドは、日本語は十分に理解したのだが、施工者の前では日本語は話さなかったそうです。写真を見ると少し怖い感じがしますが、仕事熱心な優しい人だったそうです。建設当時かなりの高齢でしたが、ノエミ夫人と協力しながらの姿は聖堂と同じように、美しくたくましい建築のようであったといいます。
いまから、15年ほど前、新発田市に隣接する豊栄市(現・新潟市北区)で、図書館と中学校の仕事に、安藤事務所の担当者として携わっていたころ、お隣の新発田市でレーモンド設計の教会が道路拡幅で危機に陥っているというような噂を耳にしていました。その頃は忙しさもあって、見にくることができなかったのですが、この春ようやく外観を目にすることができました。
この度、建築士会酒田支部女性部会のお誘いを受け、見学会に同行させていただき、やっと内部を見ることができました。
その豊かな空間に素直に感動しました。これまで維持管理にあたられ、また建物を守るために闘ってこられた方々の努力に敬意を表します。
建築士会酒田支部女性部会、新発田建設、そして教会のスタッフの皆様に感謝申し上げます。
そしてあらためて、レーモンドについて調べてみると、彼がどれだけ日本建築や日本文化を深く理解し、愛していたのか、そして、いかに大きな影響を日本の近現代の建築に与えてきたのかを知ることができました。ライトとの愛憎相半ばする関係を知ると、レーモンドの建築がまた少し違った風に見えてくるから不思議です。
「フランク・ロイド・ライトの性質のなかで、もっとも私に強い印象を与えたのは彼の不屈の勇気である。私はいつも困難にぶつかると彼の勇気を思いうかべる。…ライトは涸れることなき想像力と素晴らしいデザインのセンスの持主であり、そのためいつもすべての束縛から離れ、装飾過剰にとらわれることもなかったのであろう。が、彼の自信に反して彼は材料に対する感覚が欠けていたようである。彼はよく質の悪い木材や石膏を使い、管理の義務をおこたったので、素晴らしい建築のいくつかは、短期間のうちに壊れてしまったことがあった。彼は次々と新しいヴィジョンを追うのに熱心なあまり、建設を完成する時間がなかったのである。建築家としての彼を知っている人にとっては、彼は偉大な霊感を与える人として、崇高な勇気の持主としていつまでも心に残るであろう。あの輝かしい強烈な個性が、もはやこの世のどこででも動いていないのだということは、私にはとても信ずることができない。」(『ライトの死に想う』より)
明治21年にチェコの地方都市で生まれ、関東大震災の当日に竣工したフランク・ロイド・ライトの帝国ホテルの設計・監理のために初来日し、その後日本にとどまり戦前・戦後多くの建築を日本に残し、昭和50年にアメリカで亡くなったアントニン・レーモンド。
カトリック新発田が、設計当初のレーモンド夫妻の思いをとどめたまま、ここに残っていてくれたことが奇跡のように感じられます。
佇んでいると、今までに携わってきた多くの人々の思いがにじみ出してくるような、あたたかく深みのある建築でした。
(特記なき限り、教会の建築に関する記述は、当日新発田建設よりいただいた、資料に基づいています。)
この教会はあくまでも宗教施設です。見学には事前予約が必要です。詳しくは教会のホームページをご覧ください。