2016年1月31日をもって「神奈川県立近代美術館 鎌倉」が65年の歴史に幕を閉じました。
この建築は、それ自身は重要文化財の指定を受けていませんが、2007年重要文化財の指定を受けこのたび(2016年7月17日)世界文化遺産に正式に選定された、ル・コルビュジエの国立西洋美術館と非常に深い関わりがあります。(このため、カテゴリーとして、重要文化財と世界遺産を加えました)そのことは、しばらく読み進めていただければおわかりになると思います。
1999年に国際的な近代建築保存運動組織DOCOMOMO(Documentation and Conservation of buildings, sites and neighbors of the Modern Movement) により日本の代表的な近代建築20選に選ばれた美術館です。本来はこの「神奈川県立近代美術館 鎌倉」も、国が力をいれて保護していかねばならないような重要な建物ですが、今後どのように扱われていくのかはっきりしていません。国立西洋美術館の世界遺産選定を機に、しっかりした保存の方針をまとめてほしいものです。
私は2016年1月10日に訪ねました。
Museum of modern art, Kamakura ended its role as a museum on January 31st, 2016. I visited there on Jan. 10th. It was established 65 years ago in the site of Tsurugaoka Hachimangu Shirine, only 6 years after WW II. The architect who designed this museum is Junzo Sakakura, one of 3 Japanese pupils of Le Corbusier who worked for him at his studio in Paris. Sakakura was selected as the architect of Japan Pavilion of Expo 1937 in Paris ,for whom Le Corbusier assisted as a French collaborator. When Le Corbusier visited Japan for the first time to see the site of the Museum of Western Art in Tokyo, Sakakura showed him around in this museum and it is said that the experience had some influence on the design of the museum in Tokyo. Sakakura assisted Le Corbusier to realize the museum in Tokyo with two Japanese seniors. The conservation of this facility has not been decided yet, (the main pavilion will be conserved) and DOCOMOMO Japan submitted the document of request to the Governor of Kanagawa prefecture and the chief priest of Tsurugaoka Hachimangu Shrine.
DOCOMOMO JAPANから、保存要望書が一般公開終了後の2月5日付で、神奈川県知事と鶴岡八幡宮宮司あてに提出されています。本館だけでなく、新館や附属屋を含む、坂倉準三のつくった環境全体を保存してほしいという内容です。
まず、産経ニュース(1月21日付)で、概要を押さえておきましょう。
「日本初の公立近代美術館として戦後間もない昭和26年に開館した神奈川県立近代美術館鎌倉(鎌倉市、通称カマキン)が、今月いっぱいで一般公開を終え、3月末に閉館する。65年の歴史に幕を下ろす最後の展覧会が開かれている。(黒沢綾子)
「まずは建物にご苦労さまと言いたい。あなたは誠に美しく可憐(かれん)で、その活動も含め戦後文化の精華でした。本当にありがとう」
16日夕、同館と縁の深い美術関係者ら約500人が出席し開かれたお別れの会で、水沢勉館長は、坂倉準三設計によるモダニズムの名建築にこう語りかけた。老朽化や鶴岡八幡宮の敷地の借用期限などにより、まもなく美術館としての使命は終えるが、本館建物は保存される見通し。
昨年4月からの最終年度、同館は通年企画展「鎌倉からはじまった。1951~2016」を3部に分けて開いてきた。65年の歩みを現在から過去へとさかのぼる構成で、開催中の「パート3」では同館誕生から15年間の草創期を振り返っている。占領下、文化復興を願う県知事や文化人らの熱意で生まれたのは、建物も理念も「近代」に特化した本邦初の美術館だった。戦時中の文化的抑圧を反省し、国際的な視野で近現代の芸術を見つめることで、未来を形成しようと意気込んだのだろう。
展示は20世紀フランスの画家、アンドレ・ミノーの「コンポジション」に始まる。神奈川県立近代美術館全体の所蔵品は現在約1万5000点にのぼるが、この静物画が記念すべき第1号。当時は基本的に借用作品による企画展だったが、開館記念の「セザンヌ、ルノワール展」に始まり、佐伯祐三や高橋由一、松本竣介、古賀春江ら近代日本の重要画家に加え、ルオーやピカソら海外作家も意欲的に紹介していたことがわかる。
「古賀さんの絵を初めて見た時、衝撃を受けた」と振り返るのは、開館時にちょうど20歳だった画家の渡辺豊重さん(84)。「若い作家にとって、このカッコイイ美術館で展覧会を開くことは夢だった。いつの間にか個展を開けるようになったけれど、ここの学芸員は“上から”ではなく“同じ”目線で僕らと展示をつくってくれた。感無量だよ」
元館長で現在は世田谷美術館館長の酒井忠康さん(74)はカマキンを「人間的な美術館」と表現する。ほとんど無名の作家でも、良いと思えば出展を要請した。「頭で考える以前に、まず自分の感動がなきゃ。美術館は感動を社会化する場なんだ」と話す。
「これだけ日本の戦後文化において重要な役割を果たした美術館をなぜ閉じなきゃならないのか、理解に苦しむ」と静かな怒りをにじませたのは、世界的美術家の李禹煥さん(79)だ。「日本の近現代美術を世界の美術シーンの中で検証してきたこの館は、国際的にも知られている。歴史と伝統のある鎌倉に、近現代を扱う美術館がある。そこに大きな意味があるのに…」と悔しがる。
カマキンで個展を開き、常設作品もある李さんだが、外の風景も取り込んだ軽快で開放的な同館は、現代美術の展示空間としては一筋縄ではいかなかったようだ。「何を置いてもきれいに見えるホワイトキューブとは異なり、空間との兼ね合いを模索しつつ、緊張感のある展示を工夫しないといけない。だからこそ新しいチャレンジができた」と語る。
「美術館は器と中身が相乗してゆっくり発酵するもの。僕らは『鎌倉』を手放すけれど、建物が残る限り、何かがつながると信じたい」と水沢館長は言う。神奈川県立近代美術館は4月から、「鎌倉別館」と「葉山」(葉山町)の2館体制で新スタートを切る。」ここまでが、産経ニュースの記事です。
この神奈川県立近代美術館 鎌倉は、前回取り上げた鶴岡八幡宮の敷地内に、借地をして建てられました。日本で最初の公立近代美術館です。
設計者の選定は1950年指名コンペによって行われました。参加者は、前川國男、谷口吉郎、山下寿郎、吉村順三、そして坂倉準三。優勝した坂倉案は、ほぼそのままの形で、実施案としてまとめられ、翌1951年「新しい美術館」として鎌倉の地に誕生しました。
坂倉準三は、近代建築の巨匠ル・コルビュジエの3人いる日本人の弟子のうちの一人です。ほかの二人は、前川國男と吉阪隆正。前川と吉阪が2年程度であったのに比べ1931年から1939年(1936年に一時帰国)の長きにわたり、コルビュジエのアトリエで働き(最初の5年間)、後半は彼と共同で仕事をしていたそうです。前川や吉阪に比べ、師事していた期間が長かったこともあり、坂倉の作風はコルビュジエの影響をより強く、直接的に受けているといえるようです。この神奈川県立近代美術館にもそれがよくみてとれます。
ちなみに近代建築の巨匠とは、スイス人でパリにアトリエをもったル・コルビュジエ(のちにフランス国籍取得)と、ドイツ人でのちにITT(イリノイ工科大学)の教授となり米国シカゴに拠点を移したミース・ファン・デル・ローエ、アメリカを中心に多くの建築を残し、日本にも帝国ホテルなどの名作を残したフランク・ロイド・ライトの3人です。これにバウハウスの初代校長を務めた、ヴァルター・グロピウスを加えることもあります。
坂倉準三は、岐阜県の造り酒屋に生まれ、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。最初は建築ではなく美術史を専攻していたんですね。在学中から建築に関心を持った坂倉は、1929年に渡仏して専門学校で建築の基礎を学んだ後に、前川國男の紹介でル・コルビュジエの事務所に入所します。
坂倉は1940年坂倉準三建築研究所を設立、坂倉が逝去した後、坂倉建築研究所と改組し、日本の建築潮流の一翼をになってきました。現在も規模を維持しながら活動を続けています。坂倉事務所は、芦原義信、西澤文隆、池辺陽等、多くの建築家を輩出しています。
このたび、神奈川県立近代美術館 鎌倉は、借地権期限の満了によって閉館されることになりました。当初は閉館後に解体されるという話もあったのですが、本館のみは保存される見通しです。
2014年2月21日付で、DOCOMOMO JAPANは神奈川県知事あてに「神奈川県立近代美術館の保存・活用要望書」を提出し、その後神奈川県教育委員会は、2014年8月から耐震調査を実施し、その結果を受けて、2015年9月に、1951年に竣工した「本館」については、耐震改修を施したうえで存続させる方針が打ち出されました。
しかし1966年に建設された「新館」と「附属屋」については、いずれも取り壊して撤去すると発表されました。
DOCOMOMO JAPANは、「本館」だけでなく、「新館」と「附属屋」を含めた全体が一体となりつくりだしてきた環境造形の歴史的な意味と価値が、近年急速に共有されてきたとし、「本館」だけでなく、それ以外の二つの建物も保存活用の可能性を再度検討し、周辺も含めた環境の全体性を良好な形で継続してほしいと要望しています。以下に続く文章は、2月5日付の要望書(松隈洋氏の文章)を引用または参照しています。
戦後間もない厳しい時代状況のもと、当時の内山岩太郎神奈川県知事の高い見識と鎌倉在住の文化人たちの尽力、鶴岡八幡宮の借地の無償提供によって1951年に竣工した「本館」は、そうした敗戦後の時代精神を見事に結実させた日本で最初の公立の近代美術館として誕生し、戦後文化史に欠かすことのできない存在として歴史を積み重ねてきました。
同時に、竣工当時の厳しい経済状況もあって最小限の施設規模であったがために、当初から機能の充実のために増築が検討されていました。
こうして、本館の竣工から15年の時を経た1966年に、当時の館長だった土方定一の希望と、設計者である坂倉準三の考えの一致から、「自然の真っただ中で美術館を鑑賞できる展示空間」という展示方針によって、「新館」と「附属屋」が増築されたのだそうです。今でこそ、自然の中で自然を感じながら鑑賞できる美術館は少なくないですが、当時としては画期的なことだったでしょう。
この増築にあたって掲げられたのは「本館、池、八幡宮の境内を構成する樹木をできるだけ損なうことなく、新たにできる建物がそれらの群として調和しさらに現在の環境をよりよくするものでなければならない」そして「三つの建物ができることによって池から八幡宮の森までの連続感が損なわれることがあってはならない」という設計方針だったそうです。
このような考えのもと、「本館」と「新館」の間には、南側の平家池の水面を深く引き込んで拡張させ、二つの建物の間から北側の森へと自然の風景を連続させる工夫が施されました。
このことによって、手前の平家池側から見ると、水面が「本館」と「新館」の間に深くくい込み、背後の森へとつながる新しい風景が生まれました。
また、「新館」東側の参道との間には、樹木を増殖することによって、参道の雰囲気を損なわない配慮もなされました。
土方館長は、新館の設計案を館長室で最初に見たときに「坂倉さん、僕は最近のヨーロッパのこういう外と繋がって景色と共にある展示室、自然光がコントロールされている所で見る、そういうのが欲しかったのだよ」といい、坂倉はそれに対して「僕もそう思っていました」と返したのだそうです。「土方さんも直射日光の問題があるのはわかっているけれど、美術館という閉じたところでただ絵と対峙してみるというのはもう限界があるなと。折角のロケーションの中で、ここであるからこそ、というのが欲しいと。自然光がコントロールされた状態で、景色もまた絵と共に欲しいと、ここにおられて考えられたのでしょう。」(当時の担当所員だった、建築家・室伏次郎の証言)
一方、「附属屋」は、北側の背後の森へと視覚的な連続性を保ち、「本館」と「新館」の背景として、低層で開口部の少ない建物にまとめられました。
さらに、「新館」は「本館」の閉じた展示室に対して、ガラス面を用いて環境へと大きく開いた空間性をつくりだし、柱を壁内に収める大壁造りの本館と対比的に柱梁を露出させた真壁造りとしつつ、階高の設定や外壁の平面的な位置もあえて「本館」と揃えないことで、「本館」の存在を際立たせる役割も果たしています。
このような方法から、3つの建物による群としての造形は、その間に広がる外部空間も含めて、単体の「本館」だけでは成し遂げることのできなかった全く新しい環境美を生み出したのです。
そしてそれは、坂倉準三が、師であるル・コルビュジエに学んだ近代建築の方法を拡張し、桂離宮に代表される日本の伝統的な建築や庭園に見られる、内外空間の融合による環境造形という特質を取り込むことによって実現した日本近代建築の卓越した達成でもありました。
神奈川県立近代美術館の建築的価値は、このような3つの建築のアンサンブルとして世界的に評価を受けてきたとDOCOMOMO JAPANの松隈洋氏(京都工芸繊維大学教授)は言います。
近年ではDOCOMOMO Internationalの会長やICOMOS20世紀委員会の委員長らも見学に訪れており、世界的な評価は高まる一方です。
それというのも、美術館建築の実現を待ち望んでいたル・コルビュジエよりも先に、その構想と重なる建築思想によって坂倉が実現させた美術館であること、上野の国立西洋美術館の敷地を視察に来日した際、1955年11月8日に坂倉の案内で見学に訪れたル・コルビュジエが影響を受けたということを、当時の設計担当者が証言しているなど、国際的な見地からも、その重要性が再認識されてきたからです。
坂倉準三は、ル・コルビュジエの事務所で1931年から36年まで5年間働いた後、日本に一時帰国し、パリ万博日本館の設計のためにパリに戻りました。パリ万国博日本館の計画は、東京帝国大学の岸田日出刀が中心になって、前田健二郎、市浦健、吉田鉄郎、谷口吉郎、前川國男を集めて簡単なコンペを行ったことに始まり、前川案が一等案になったのですが、商工省の役人によって構成されたパリ万博協会に「日本的でない」という理由で拒絶され、宙づりになっていました。前田案が一番日本的ということで一度前田案に決まりそうになりましたが、フランス側が求めたフランス技師との協働がうまくいかないだろうということでまた頓挫。コルビュジエからも日本館の設計にぜひ協力したいという話があり、コルビュジエのもとで直近まで働いていた坂倉に白羽の矢が立ったということのようです。コルビュジエ財団に残っている手紙によれば、パリ万博日本館は、クレジットは坂倉準三となっていますが、ル・コルビュジエとの共同設計に近い契約内容だったそうです。
パリ万国博日本館は、坂倉準三のデビュー作であるだけでなく、日本の近代建築としては、初めて世界的に知られた作品。日本建築の伝統的な手法である「なまこ壁」を使用するなど、それまでのモダニズム建築には見られなかった新しい表現が取り入れられている。「日本的なもの」と「モダニズム」の間で戸惑う、丹下健三などの若手に多大な影響を与えたといいます。協会がコンクール参加を辞退したにも拘わらず、審査委員長のオーギュスト・ペレの推薦によってグランプリに選ばれ、坂倉は一躍時の人となりました。
一方、ル・コルビュジエは、1939年に北アフリカのフィリップヴィル市のために無限発展の美術館を計画するなど美術館建築に対する情熱をもっていましたが、1959年の国立西洋美術館まで、「美術館建築」を実現することはありませんでした。
無限発展の美術館とは、1階部分がピロティとして開放されており、中央部にあるメインホールから入館する計画で、渦巻き状の展示室は、どこまでも増築して伸びていくことができるという、ユニークな提案。2階建てなので、最上階の展示室には、自然光を天窓からとることもできます。神奈川県立美術館 鎌倉は、1937年にパリ万博日本館で華々しくデビューしたものの、第二次世界大戦のために設計活動の事実上の中断を余儀なくされた坂倉準三が、そのパリ万博日本館の続きを日本で開花させたものと評されています。中央にあるホールを中心に展開する、コルビュジエの無限発展の美術館の計画案を、坂倉が知らなかったということはないでしょうから、このコルビュジエの構想にも、中庭を中心とした構成の神奈川県立近代美術館は、きっと影響を受けていることでしょう。
そして上で述べたように、国立西洋美術館の敷地を見に来たル・コルビュジエは、弟子である坂倉が先に実現した美術館建築である神奈川県立近代美術館をみて、その影響を受けたのではないかと当時の担当者が証言しています。面白い話ですね。もともと、坂倉はル・コルビュジエの弟子なので、どちらが先かといっても意味はないのですが、坂倉が近代建築に取り込んだ日本的感性がもしかしたら、ル・コルビュジエの建築にも影響を与えたのかもしれません。
国立西洋美術館は、コルビュジエの基本設計そのままではさまざまな問題があって建てることが難しかったといいます。仕方なく前川國男が旗振り役となって、弟子たちで協働して実施設計をやろうよという話になり、坂倉に建築を任せ、自分は設備を、吉阪が連絡・調整係をつとめ、前川が黒子になって坂倉を立てる形でコルビュジエとやり取りさせて実現されたのだそうです。ル・コルビュジエと3人の弟子たちの合作なのですね。その中でも、坂倉が意匠面、計画面で果たした役割は大きかったのでしょう。
神奈川県立近代美術館 鎌倉に話を戻します。
この壁画は、1957年に、当時副館長だった土方定一の提案により設置されました。赤を基調にしたのも土方のリクエストによるといいます。作者はこの年に第一回安井賞を受賞した新進の画家田中岑(たかし)(1921-2014)。後年、田中は描いた年に長女が生まれたこと、また、当時喫茶室はお見合いやデートの場としての利用が多かったこともあり、女性たちの幸福を願って《女の一生》をテーマとして、出会いから結婚、子供の誕生、晩年までを描いたと語っています。
《女の一生》はわずか2日間で描かれました。作期間中、喫茶室を見下ろすこの学芸員室から土方や学芸員たちが声援を送ったといいます。
設計者の思いだけではなく、施工者や、館長、学芸員、この美術館にかかわったアーティスト、そして来館者のすべての思いが、建物の端々に刻み込まれています。
「神奈川県立近代美術館 鎌倉」は、すでに重要文化財となった国立西洋美術館(1959年)と不可分の建築として同等、あるいはそれ以上の価値を有し、世界に誇れる文化遺産であるとDOCOMOMO JAPANは考えています。
ちなみに、「国立西洋美術館」が重要文化財に指定されたのは2007年。戦後の建築として重要文化財に指定されているのは、村野藤吾の教会堂世界平和記念聖堂と丹下健三の広島平和記念資料館(いずれも2006年に指定)と国立西洋美術館のみです。
DOCOMOMO JAPANは新館、附属屋を含めた一体的な保存の要望を出していますが、現状はかなり難しいようです。
もし土地の借用の延長が可能なのであれば、DOCOMOMO JAPANが要望するように、本館、新館、附属屋を合わせて耐震補強し、20世紀の建築の巨人ル・コルビュジエと日本の交流の証しでもあり、歴史的な価値も深いこの美術館を全体として残すことを、県レベルにとどめるのではなく、国としても検討すべきではないのでしょうか?
耐震補強して全体を残すならば、規模は不十分でもギャラリーとしての機能は存続できるはずなので、「美術館として、カマキン復活!」ということに他ならないと思うのですが、どうなるでしょうか?
「神奈川県立美術館 鎌倉」は、ただ、日本で初めての公立近代美術館というだけでなく、日本における近代建築の受容の過程や、ル・コルビュジエとその弟子たちの物語、そして日本の近代美術の歩みが詰まっている建築でした。