旧山形県庁(文翔館)から歩いて2〜3分くらいのところに、山口文象が設計した山形梅月堂があります。

私が30年前に山形に住んでいた頃から建っていて、いつも何気なく通り過ぎていた建物です。

何も知らずに見たら、どんな地方都市の街角にも建っていそうな、普通の建物に見えますよね。

しかし、これが、今からおよそ80年前の昭和11年(1936年)から建っていたとすれば驚きではないですか?

バウハウス校舎(デッサウ)の10年後、サヴォア邸の5年後です。この時代に日本(ましてや山形のような一地方都市)が世界と共鳴していたのは興味深いですね。

A few minutes walk from the old city hall of Yamagata Prefecture, there is Baigetsudo Building designed by Japanese Architect Bunzo Yamaguchi who had worked for Walter Gropius in Berlin, one of the greatest masters of modern architecture.

Incredibly, it was built in 1936, about 80 years ago, though it seems to be ordinary contemporary building in local city in Japan.

 

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山形梅月堂/Baigetsudo designed by Bunzo Yamaguchi

山口文象は日本の近代建築運動のリーダーの一人であり、バウハウスを辞してベルリンにいたワルター・グロピウスのアトリエでも働き、そこで学んだものを日本に持ち帰り、花開かせた人物です。

21歳で分離派建築会のメンバーとして建築家の第一歩を踏み出しますが、その直後に「創宇社建築会」を設立、28歳で渡欧するまでの7年間、グループを主導しました。

今回、山口文象と梅月堂について調べてみると、いままで知らなかったことがいろいろと浮かび上がってきました。

以下、カギカッコ内は、10+1web site に掲載された「サステイナブルな芸術の共同体──山口文象ノンポリ説からみたRIAの原点」(天内大樹)からの引用です。

「1902年、彼(山口文象)は山口瀧蔵として東京下町に生まれた。実家も養家も大工の家であった。エリート校の東京府立第一中学校に合格しながら、東京高等工業学校付属職工徒弟学校木工科大工分科に入学したのは、親の命ずるところだった(同校の年鑑には岡村瀧造と記されたが、当時の戸籍名は岡村瀧蔵である)。1918年に同校を卒業し、清水組の定夫(日給制の職人)となった。

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山口文象(1902-78)

営繕課──建築設計をめぐる身分差

1928年に東京帝国大学建築学科教授・佐野利器は上級の学校に進みたいという「上級熱」を煽り「高等遊民」を生む「漫然教育」=普通教育を敵視し、実業教育本位の体制を提案している。佐野のいう「万人皆悉く其の道に依て世に働かざるべからず」の思想、また「上級熱」を阻む職業の固定観念は、岡村の家を含め広く共有されただろう。

しかし当時の論者がしきりに採り上げたテーマは「文化」「芸術」だった。「文化」は、戦中にかけての日本建築界の指導者・佐野にとって「文明」と同義語であり、経済効率や衛生・防災など実務的な内容を指したから、「文化村」「文化住宅」などの流行語もあって、バラバラな意味合いで使いやすい言葉となっていた。

 

一方、佐野は「芸術」という「漫然」とした考え方を受けつけなかった。野田俊彦の1915年東京帝大卒業論文が「建築非芸術論」と改題・編集されて『建築雑誌』に掲載された黒幕は佐野であり、1920年卒業生のうち6名が分離派建築会という集団を旗揚げした際に「建築は芸術である このことを認めてください」と訴えた相手も佐野・野田らである。列強を前に危急存亡の秋にある国家に貢献する「建築家の覚悟」がみえない分離派界隈の議論に、8年後の佐野は歯がゆさを覚えて教育論に奔ったのかもしれない。」

※佐野利器(さの・としかた)(1880~1956)は、伊東忠太、中條精一郎と同郷の山形県置賜(米沢を含む地域)の出身。東大建築学科の2代目の大ボス(初代は辰野金吾、3代目は内田祥三(うちだ・よしかず))といわれる。小さい時から質実剛健を旨として育てられた国士的な硬骨の精神には「かたちの良し悪し、色の美醜など、婦女子の考えることで、男子の口にすべきことではない」と、建築学科に入るも煩悶し、耐震構造学(鉄筋コンクリートや鉄骨)に進路を発見し、芸術教育の色彩が濃かった東大建築学科に新風を吹き込み、関東大震災後の帝都復興院理事・建築局長や、清水組副社長を務めるなど、アカデミズムの枠に収まらない活躍をした。(参考文献:村松貞次郎『日本建築家山脈』)(※は矢野による註。以下同様)

 

「1922年頃から岡村蚊象(ぶんぞう)と名乗ることになる彼は、分離派メンバーの山田守が1920年の卒業直前に、建築家の「生命」と「建築哲学」の意義を唱えて掲載した雑誌論考に共鳴し、山田に手紙を送っている。活字メディア上の理念の応酬は、大学卒業者の専有物ではなかった。この年、彼は世話になった清水組の監督に紋付き袴の正装で挨拶し、職人の世界と父に訣別した。建築家の中條精一郎を飛び入りで訪ね、最終的に製図工の職を紹介されたことで、設計に携わり始めた。

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東京中央電信局(山田守)1925  分離派建築会の代表作としても知られる

 

職場はたまたま山田守も就職していた、逓信省営繕課であった。岩本禄や吉田鉄郎も所属し、電信電話など最新技術を扱った開明的な組織とはいえ、帝大卒業者の技師=高等官と、図面の複写と清書を主とする山口ら雇員=判任官との身分差は、現在の公務員制度以上に露骨だった。しかし岡村の手紙に返事していなかった山田は、その埋め合わせか、分離派の会合に彼を同伴したという。彼は帝大卒業者の会話についていけず、設計と並行して外国語、数学、デッサンという「漫然とした」基礎教養と、「芸術」としての建築観を身につけた。

 

1923年、関東大震災直後の異様な昂奮のなか、彼は営繕課の製図工と現場係員らとともに創宇社建築会を旗揚げした。後からの加入者も、ほぼ同じ階級にあった。同時に彼は、山田と共に帝都復興院の土木部橋梁課に嘱託され、数寄屋橋、清洲橋などでみずから設計を手がけた。高等官以外でデザインを触れた唯一の人材として創宇社の指導的位置にあり、また分離派でもメンバーと認められ1924年以降展覧会に出品した。1926年から彼は、分離派結成メンバーの石本喜久治に招かれ、竹中工務店ついで片岡・石本事務所で、主任技師として腕を揮った。」

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白木屋(石本喜久治)1927-31 百貨店の建物です

 

創宇社──「文化」「芸術」への渇望

創宇社と分離派の違いは、発足直後から垣間見える。「専心建築の本道に進むべく努力はしながらも実生活においての周囲の関係やパンの問題やのために知らず識らずの中に建築の本質に離れ(…中略…)尊い創造の心をも不純なものにしてしまいがちです」。岡村は同僚雇員の収入を気にした。

 

とはいえ初期の創宇社は分離派のコピーでしかない。濱岡(蔵田)周忠や石本の場合、後に別団体に加入したことが分離派からの除名に繋がったが、創宇社を立ち上げていた岡村が除名されなかったことは、彼らが分離派と競合するものではないと思われていたことを示す。

 

なにより、所与の図面のトレースをもっぱらとしたメンバーらが団体活動に賭したのは「形の方面」の追究であった。それが「建築の本道」、自分たちになく帝大出身者にあるものだと彼等は考えたのである。この点には、「芸術」を訴えた団体結成以来、構造の軽視を散々叩かれながら実務や研究を重ねてきた分離派、また他の展覧会観覧者からも懸念が寄せられた。分離派も造形と機能の一致や新材料への対応を考えてきたが、その役割は終わったという谷口吉郎の指摘や前記仲間割れなどから、1928年以降活動を停止した。

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東京工業大学水力実験室(谷口吉郎) 1932  28歳の時のデビュー作

 

この前後から創宇社は東京美術学校出身者をメンバーに加え、造形的追究のみならず無選共同展や新建築思潮講演会の開催、ひいては1930年に各団体を糾合する新興建築家連盟への発展的解体を図った。しかしこれは佐野利器の意を受けた『読売新聞』記事で左傾的団体と断じられたのをきっかけに瓦解した。創宇社メンバーも1929年の判任官減俸に対する反対運動から検挙・解雇され、運動どころか生業も一時困難になった。なかには地下共産党の資金調達を仄めかされ、赤色ギャング事件を首謀させられた人物もいる。

 

この間、岡村蚊象は設計対象の用途が労働者階級向けか中産階級向けかに大別される点、また唯物史観から建築の「事実必然性」が重要である点の指摘をしてはいる。創宇社の左傾化を戒めた石本に反発し、岡村ら3名は石本事務所を辞職してもいる。しかし階級闘争に連なる明確な発言は彼にはない。創宇社が「文化」「芸術」を「上級」の持ち物として渇望し、次いで労働者階級の建築を志向し、そして階級闘争に加わりながら生活が逼迫した過程は、はたして彼にとって望ましい展開だっただろうか。創宇社は「日本の青年建築家が、建築家層としての社会層の認識を革新するまで」の役割を果たしたと、運動史家は集約した。建築から階級闘争への貢献はその後だという意味だが、階級の闘士としての岡村の限界を指摘してもいる。」

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梅月堂(1936)前から旧山形県庁(1916)を見る

以下、カギカッコ内、「Web TOKAI 日本のモダニズム建築を訪ねる 第4回」(香川浩)からの引用です。

「昭和11(1936)年10月15日。山形市の中心街の一角に、菓子舗の入る商業ビルがオープンした。店の名を「梅月堂」といい、明治22年(1889年)に創業した老舗で、店舗が昭和8年(1933年)の山形市の都市計画決定による区画整理にかかったことから、あらためて建て直したのである。県庁に近く、銀行の斜向かいとなる角地で、当時は十字街と呼ばれた。いまも中心市街地の一等地といえる場所だろう。その新装開店を伝える新聞広告には、記念イベントにやってくる高杉早苗ほか松竹スターたちの名前とともに、こう書かれていた。『新築落成・東北に誇る唯一の近代式新興建築の粋』 設計は新進気鋭の建築家、山口文象(1902-1978)である。

建築家の誕生
山口文象はエリートではない。その放胆さによって運命を切り開き、建築家となった。浅草の大工の家に生まれ、職工徒弟学校を卒業後、清水組の定夫、つまり建築現場で働く職人となり、ほどなく退職し建築家を目指す。大正9(1920)年、最初に尊敬していた建築家、中條精一郎の元を訪ねるも雇ってはもらえなかったが、紹介された逓信省営繕課で製図工になる。今でいうトレイサー、いや、CADのオペレーターか。ここで建築家山田守と出会い「建築家の一番初めの門が開いた」

上司である山田は、山口の能力を高く評価し、建築のデザインにも関わらせていた。製図工としては異例のことである。また、山田をはじめとする東京帝大出身者たちが、新しい建築のあり方を求めて設立した「分離派建築会」への参加、製図工仲間との「創宇社建築会」結成など、建築運動にも積極的に関わるようになっていった。さらには東京帝大で、建築界の巨匠伊東忠太の講義を“もぐり”で聴講し、親しく接していたという。これが二十歳前後のことであるから、何と痛快な若者であったことだろう。社会のいたるところにヒエラルキーが厳然としてある一方で、このような寛容さを、大正という時代は育んだ。」

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一橋大学兼松講堂(伊東忠太)1927

 

※伊東忠太(いとう・ちゅうた 1867~1954) 山形県米沢市出身の建築家、建築史家。「造家学会」を「建築学会」に改めさせ、Architectureの訳語としての「建築」を定着させた。日本建築史を創始し、建築界で初めて文化勲章をもらった人物。平安神宮、築地本願寺などの設計も手掛けた。

※中條精一郎(ちゅうじょう・せいいちろう 1868~1936) 伊東と同じ米沢市出身の建築家。旧山形県庁の設計監修者。旧山形県庁(文翔館)の回参照。

「関東大震災の翌年大正13(1924)年、内務省に復興局が設置され、山口はその橋梁課に山田守とともに移籍し、主に橋梁デザイン(清洲橋、浜離宮正門橋など)を担当した。土木デザインに関わることは、さらなる飛躍のきっかけとなった。日本電力の仕事を兼務し、ダムのデザインを手がけるようにもなった。その後、竹中工務店、石本喜久治建築事務所を経て、ついに渡欧することになる。

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黒部川第二発電所(山口文象) 1936

名目は日本電力の黒部第二発電所の設計のための学術調査だったが、当時傾倒していたモダニズムの巨匠、ワルター・グロピウス(Walter Gropius, 1883-1969)の元での修行が主な目的であった。シベリア鉄道で欧州へ向かったのは昭和5(1930)年末、28歳のときだった。グロピウスの事務所では「ソビエト・パレスのコンペ案」などの仕事に携わり、カールスルーエ工科大学では発電所ダム形状についての指導を受け、欧州各地を視察し、パリではル・コルビュジエ(Le Corbusier, 1887-1965)にも会った。まさしく最先端の風を存分に浴び、洋行帰りの建築家として船で帰国したのは昭和7(1932)年のことである。

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バウハウス校舎(ワルター・グロピウス) 1926

帰国後すぐにプロジェクトに恵まれ、「日本歯科医専・附属病院(1934)」、「番町集合住宅(1936)」、「黒部川第二発電所・小屋ノ平ダム(1936、DOCOMOMO Japan選定建築物)」など、最新のインターナショナル・スタイルを山口流に使いこなし、次々とモノにしていった。山口文象のキャリアにおける、ひとつのピークといえる時代。山形の「梅月堂」は、そんなときに出来上がった。

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日本歯科大学(医専) 半球臨床講義室模型 (山口文象) 1934

カフェの人びと

時間を少し遡って、山口文象がまだ6歳だった明治41(1908)年、横浜港を出港するアメリカの船に、日本人の一団が乗船していた。朝日新聞社主催の「世界一周会」参加者の面々である。日本初の海外パッケージ・ツアーであり、96日間で世界一周する行程という、今から考えても十分に豪華なツアーで、財界人を中心とする参加者の中に、ひとりの菓子職人がいた。小川茂七といい、神楽坂にある菓子舗「紅谷」の主人である。小川茂七もまた、時代の最先端を求め世界に旅立ったのである。各地で洋菓子づくりを見聞し、果たして紅谷はハイカラ文化人の集まる人気店として大成功をおさめた。

この小川茂七、実は山形出身で梅月堂の縁者で、先述の山形市中心街の土地を自ら取得するなど、梅月堂に深く関わっていた。梅月堂のほうでも、東京で洋菓子店・カフェとして成功した神楽坂紅谷を、理想のビジネスモデルとして見ていたであろう。ある菓子店研究者による「梅月堂設計での山口文象の起用は小川茂七の紹介ではないか」という指摘があるが、筆者もそう考えるのが自然であると思っている。無縁な地方都市の小さな店舗といえども、東京の名店からの依頼とあれば、当然引き受けただろうし、若き山口文象が神楽坂紅谷を訪れ、そこに集まる人々と交流を持っていたとしても何の不思議もない。

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竣工当初の梅月堂のある交差点。右上が梅月堂。 今とまったく変わらぬ姿でそこにあります。梅月堂だけ未来からタイム・スリップしてきたかのようです。左下の古典主義建築が両羽銀行(現山形銀行)本店でしょう。もし、これも残っていたら、山形の街並みに風格と重厚感を与える要素になっていたかと思うと少し残念ですね。

モダニズム建築との邂逅
梅月堂が竣工間もない頃の、山形市中心市街地が写った絵はがきを見ると、区画整理によって整備された街並の中に洋風のデパートなども建ち、仙台と山形を繋ぐ仙山線の開通もあり、山形市全体が活況を呈していた様子が伺える。そんななかでも、梅月堂のモダニズム建築としての純度の高さは群を抜いている。

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外観パース

都市計画による角切り部をファサードとし、スチールサッシによる大開口部としているのが最大の特徴である。外皮は連装窓のある薄い鉄筋コンクリートの壁によって構成され、1階のセットバックにより地面と切り離し、屋上には庭園が設けられている。ここに典型的なモダニズムのかたちが見て取れ、グロピウスの影響だけでなく、ル・コルビュジエの近代建築5原則さえ読みとることもできる。

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1階平面図

プランは道路に面した鉄筋コンクリート造の部分と、敷地奥の木造部分からなり、土地形状に合わせ角部で接続しているのがユニークだ。鉄筋コンクリート部は一部地下にボイラー室、1階に菓子売り場、2階は喫茶店、3階はパーティー用のホール、屋上はパーゴラのある庭園で、竣工写真に植物が置かれているのが見える。木造部分は1~3階に客室とあり、畳が敷かれている。これは椅子に座る習慣のない客にも対応したのだろう。3階の一部に使用人室、4階に物置と物干し場が設けられている。構法的にもプランとしても和洋を組み合わせたハイブリッドであり、その両方を巧みに扱うことのできた山口文象ならではの設計である。

山口文象も、それに素直に答えてみせたのではないか。当時の先端技術たる船をメタファーとしたモダニズム建築は数多い。

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現在の梅月堂

梅月堂と神楽坂紅谷は、その後も菓子職人の修業などの交流が続いたと伝えられている。小川茂七は昭和20(1945)年3月に疎開先の山形で死去、神楽坂紅谷は東京大空襲で焼失し、再建されることはなかった。梅月堂は長く繁栄したが、平成9(1997)年に倒産し、建物は売却された。鉄筋コンクリート造の店舗部分は、改装されテナントビルとして、裏側の木造部分は撤去されウイークリーマンションを増築し、現在に至っている。山口文象は戦後、新たにRIAを立ち上げ、大きな組織へと発展させてゆく。」(香川氏論文終わり)

 

再び、天内氏の論文からの引用です。

RIA-「青年建築家」が建築設計に専念できる体制

『疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり[1953-69]』(彰国社、2013) 表紙は代表作のラムダ・ハウス

事務所解散後、彼はまず美術団体の新制作派協会(1936年発足)に建築部をつくった(1949)。彼の建築観のベースに「芸術」は存続している。3年後RIAとして初めて制作したローコストハウスも新制作展で発表された。
ただし下の階級に着実に「芸術」の果実をもたらすには、彼らを設計に集中させなければならない。ここにいう下の階級とは、なによりRIAを支えた「青年建築家」である。指導者とメンバーの立場の乖離は、彼らを造形の探求から遠ざけてしまう。これを避けて建築制作の共同体を維持するための、平等な立場で競われた所内コンペと勝利案に対するチームサポートであり、階級闘争や金銭的困窮に足を掬われず「建築の本道」に「専心」するための、コンピュータの導入も厭わない大量設計だったのではないか。(中略)彼らが考えたのは設計者がきちんと食べていける建築体制の設計であった。

戦後の切迫した住宅事情を改善し、これから住宅を入手する階級を手広く救うことは、その帰結である。
以上の脈絡はアトリエ系事務所の住宅作品のように、才能に溢れた個人=作家による一品生産として名作=「芸術」を理解する主流的な考え方から外れている。特権的な作家という権威を排した先例として、今泉善一ら元創宇社メンバーによる新日本建築家集団の共同設計が挙げられるが、これは施主である労働組合にも評判は芳しくなかった。そこでRIAは担当はあくまで個人ではあるがあえて名前を出さず、チームとして活動する体制を選んだ。コンペの準備は私宅で行なうというルール、施主の要求に歯噛みしたのが設計担当ではなく交渉・聞き取り担当だったエピソードなど、個人としての確立と社会への呈示をズラした点にRIAの面白さがある。」(天内氏論文終わり)

 

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山形市七日町にあるE-NAS(イイナス)は山口文象が設立して、今も活動を続けるRIA(アール・アイ・エー)が設計して、平成15年(2003年)竣工した建築で、この界隈には珍しく、通りに面して大きなオープンスペース(ほっとなる広場公園)を取っている。

RIAは今では、建築設計はもとより、日本各地でまちづくり、再開発事業を手掛けている、建築・都市に関する設計・コンサルティング会社として知られています。RIAが山形の七日町で設計を手掛けたのは、まさか創始者である山口文象が設計した山形梅月堂が近くにあることが関係しているとは思いませんが、不思議な縁を感じます。

山形市の中心街を5~6分歩くだけで、伊東忠太、中條精一郎、佐野利器、山口文象、そして彼のつくったRIAと、日本の近代建築の物語が浮かび上がってきます。

山口文象は東京生まれですが、山形県出身の伊東、中條、佐野ともともと直接間接に縁があったことで、山形に親近感を持っていたことでしょう。そこに梅月堂の縁者である小川茂七の紹介があって、隠れたモダニズムの名作が奇跡的に、東京から遠く離れた地方都市・山形に誕生したのでしょう。

今回、1920~30年代に竣工した建築をいくつか写真で取り上げてみましたが、さまざまな思潮がぶつかり合いながら、それぞれに勢いがあって面白い時代だったのだなと感じました。その年代の建築の一つが山形にあることを誇らしく思います。

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ちなみに、山形梅月堂は、1971年発行の『現代日本建築家全集 11 山口文象とRIA』の作品リストには載っていません。山口文象本人にとってはそれほど重要な作品ではなかったのでしょうか?それでも山形にとっては貴重な文化遺産です。以前は1階にドトール・コーヒーが入っていましたが、2、3階は使われていなかったようです。現在は1階に串揚げ(串焼き?)屋さんが入っていますが、上階はいまだに使われていないように見えます。

でも、よくぞ今まで、経済至上主義の荒波の中、生き残ってきました。

山形市民はこの「山形梅月堂」に愛着はあるとは思いますが、その歴史はあまり知られていないのではないでしょうか?

先人たちの思いの込められたこの近代化遺産を大切に守っていくためには、まずより多くの人に、その歴史や価値を知っていただくことが大切かと思います。(建物には一応説明プレートが貼ってありますが・・・)

この建物の前を通りかかることがあったら、一度足を止めて、労をねぎらい、建物と向き合って対話してみてほしいと思います。(笑)