昨日に続き、昌徳宮(チャンドックン)を見ていきます。
宣政殿から煕政堂の方に歩いていきます。
歴代の王が朝鮮王朝500年の間長く国を治めていた王宮は、第1の王宮である景福宮(경복궁)ではなく、ここ昌徳宮でした。ソウルの屋根とも呼ばれている北漢山(북한산)のふもとに建立された昌徳宮(창덕궁)は、景福宮など他の王宮が厳格な儒教思想に基づいて建てられているのに比べ、山の自然をそのまま活かして建物を配置し、自然景観を造景の一部として取り入れた庭園を作ったという点で高く評価されています。形式にとらわれず、自由な雰囲気が漂う建物は山の稜線との調和を考慮して配置されており、王の憩いの空間であった後苑には小高い丘や小さな渓流、森の中の小道などがそのまま活かされています。昌徳宮では、人間が作り出した調和の取れた建築美が鑑賞できます。季節の移り変わりを知らせてくれる各種の植物は、自然と調和した東洋の建築美の完成であり、宇宙の一部になろうとした朝鮮王朝の哲学的な思想から生まれた思惟の空間でもあります。東アジアの宮殿建築史において、非定型的な造形美が見られる代表的な王宮としての価値を認められた昌徳宮は、厳格な儒教思想の中で自然との共存を夢見た朝鮮王宮の理想を実現させた所です。(www.kampoo.comより)
王と王妃の生活空間。一部西洋式に改造されています。王の寝殿と業務の場であった煕政堂は幾度も火災に遭い、現在あるのは1920年のものです。同年に王妃の起居する大造殿も景福宮にあった建物を移しました。こちらは最後の王である純宗(スンジョン)が崩御した場所。
こちらは王と王妃の寝殿であり、王とその家族が生活していた中宮殿でもあります。この建物の特徴は屋根に棟瓦がないこと。韓国ではこの瓦を「龍棟」と呼び、国王は龍に例えられたので、国王の寝殿であるこの大造殿の瓦を省いたということ。内部の寝室周辺には、王と王妃を守る女官が使っていた小さな部屋があります。
日常生活を過ごすのに使用されていましたが、やがて、執務にも使用されるようにもなりました。
大造殿の西側には王室の台所である水刺間(スラカン)。ここは機能的にタイル張りになっている。近代以降に改築されたのか。
景薫閣(キョンフンガッ)は、王と王妃の寝殿である大造殿の裏手にある。王妃の部屋とのこと。
創建当時の大造殿は1917年に火災により焼失、1920年に景福宮の寝殿である交泰殿を移して中宮殿となりましたが、このとき、昌徳宮の地勢にあわせ両脇に翼棟を作り、景薫閣とも内部で互いに通じるように行閣(渡り廊下)で繋げました。正面に見えるのが行閣。
この景薫閣のあたりは元々の宮廷建築の様式を再現している唯一の場所だといいます。
「伝統的なオンドル」
本来の形式は台所の竈で煮炊きしたときに発生する煙を居住空間の床下に通し、床を暖めることによって部屋全体をも暖める設備。火災の危険を避けるためオンドルを備えた家の土台はすべてクドゥルジャン(구들장)という板石を用いて築き、部屋の床は石板の上を漆喰で塗り固め、その上に油をしみこませた厚紙を貼る。朝鮮半島においてはすでに三国時代から使用の痕跡が見られ、飛鳥時代の日本に渡来した高句麗や百済出身者もオンドルを備えた家に住んでいたらしい。しかしこの暖房方法は、日本には受け入れられなかった。 (Wikipediaより)