11月22日、和歌山県の丹生都比売(にうつひめ)神社に行きました。
「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素として世界遺産に登録されています。
高野山に行く途中に、世界遺産があることを知り、急きょ訪れることにしました。
丹生都比売神社に関しては、弘法大師が高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られた、とする伝説が知られています。
空海の死後、その弟子達により丹生都比売神社の神領はさらに高野山の寺領となりました。丹生都比売神社が高野山に正式に帰属するようになったのは、10世紀末の高野山初代検校で第4代執行の雅真の頃とされています
以後も丹生都比売神社は高野山と密接につながり、高野山の荘園には神霊が勧請されて各地に丹生神社が建てられました。
元寇の際には、丹生都比売神社は神威を表したとして一躍有名なり、公家・武家から多くの寄進を受けたそうです。
明治維新後、明治6年(1893年)に近代社格制度において県社に列し、大正13年(1924年)に官幣大社に昇格しました。また、明治の神仏分離に伴い高野山から独立しましたが、今日に至るまで多くの僧侶が丹生都比売神社に参拝しており、神前での読経も行われています。 (以上、Wikipediaより抜粋)
「また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后 じんぐうこうごう の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。」
「ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝 ぎしわじんでん』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。」
「丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社であります。」
「丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。」
「これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ(絵図参照 3DCG再現映像)明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶で守られてきました。」
「また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入口で、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習でした。」
「鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから舞楽法会が明治のはじめまで盛んに行われます。」
御祭神
写真右から
第一殿 丹生都比売大神 にうつひめのおおかみ (丹生明神) にうみょうじん
第二殿 高野御子大神 たかのみこのおおかみ (狩場明神) かりばみょうじん
第三殿 大食都比売大神 おおげつひめのおおかみ (気比明神) けひみょうじん
第四殿 市杵島比売大神 いちきしまひめのおおかみ (厳島明神) いつくしまみょうじん
第一殿から第四殿まで、順に2%ずつ大きさが小さくなっているという。左から見るとより、パースが効いて見える(遠近感が強調される)ような工夫をしているということか。
「現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。
尚、平成十六年七月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内として世界遺産へ登録されました。」
平成24年~26年の2年にわたり、屋根の吹き替えと塗装の修理が行われ、きれいな状態でした。
御神徳
第一殿 丹生都比売大神 諸々の災いを祓い退け、一切のものを守り育てる女神。
不老長寿、農業・養蚕の守り神。
第二殿 高野御子大神 弘法大師を高野山に導いた、人生の幸福への導きの神。
第三殿 大食都比売大神 あらゆる食物に関する守り神、食べ物を司る神。
第四殿 市杵島比売大神 財運と芸能の神、七福神の弁天さま。
本殿は控えめなもので(一間社春日造の社殿としては全国でも最大級ではあるが)、内部空間といえるものは楼門くらいしかありませんでしたが、外鳥居→池を渡る輪橋→内鳥居→楼門→本殿と、森の中に構造物が一直線に並び、次第に厳かな雰囲気を高めていく奥行きのある空間構成はなかなかのものでした。(輪橋が改修中で渡れなかったのが残念ですが。)遅くとも、今の建物ができた室町時代には、このような、「奥」という空間概念が日本には存在したということですね。
この本殿の背後には、神社自体の規模の数千いや数万倍はあろうかという山地が控えています。公式HPによれば、この神社は1700年前からここにあったそうです。人間が自然に宿る神と出会う場所として、アニミズム的な自然に宿る土着的な神々をあがめた、様式化する以前の神道のありかたを見たようにも思いました。
神仏融合はじまりの社とされ、今でも高野山金剛峯寺と密接な関係にあります。
世界遺産の登録を受けたとき、ユネスコの委員の方がこられて、このありかたを「ユニーク」と評されたそうです。
1000年以上前から、本来違う宗教である仏教と共存していることが「世界中探しても他に類をみない」という意味でつかわれた言葉です。
世界で宗教対立に端を発する争いが続く中にあって、日本だけが危機意識を共有できていないともいわれますが、日本人のこのような宗教観も関係しているのかもしれません。日本が世界に誇るべき一面ではあると思いますが、世界から一人だけ取り残されないようにしたいですね。
日本には古来、対立を融和に導く何かの知恵があるのだろうと思います。それをうまく世界に発信できればいいのですが。