11月20日 新潟県立近代美術館のあとに、空中歩廊を渡って、道路を挟んで向かいにある、「長岡リリックホール」に向かいました。
設計・監理:伊東豊雄建築設計事務所
劇場計画:本杉省三
施工(建築):大林・小杉芸文建築特定共同企業体
設計期間:1993.4-94.3 施工期間:1994.9-96.10
工事費:建築・設備・舞台・外構の合計が約60億円。
バブル崩壊後の建築ですが、企画自体はバブルのころからあったものでしょうし、設計開始時点で、まだバブルが崩壊して2年ほどしかたっていなかったので、「バブル経済」としての総括がなされていなかった時期のプロジェクトでしょう。
この建築は確かに以前雑誌に載っていたことは記憶の片隅にありましたが、さほど気に留めることもなく忘れていました。
今回何も予備知識なしに訪問しました。面白い空間だとは思いましたし、地方都市にこれくらいの、あまり大きすぎない規模のホール、劇場があるのはよいことだと思いました。20年たった今でも比較的きれいに使われていて、変わった形の割にはきちんと公共建築として成立していると感じました。内部は思ったよりがっしりしていました。
伊東さんが目指したのは、施設全体を、地形のような「建築ではない建築」としてつくること、内部は林のような空間をつくることで、この時期の地方都市(の新興の文化ゾーン)における、風景の貧しさ、文化的貧しさを打破しようということのようです。
写真と文章を見比べて皆さんはどのように感じられるでしょうか?
以下、GA JAPAN 24 (1997年1・2月号)に掲載された、伊東豊雄氏本人による解説文を引用します。(カギカッコ内)
タイトルは「地形をつくる 林をつくる」です。
「■地形をつくる
コンペティションの時、この建築のイメージは建築というより小さな丘であった。与えられた敷地の南側にあたる前面は公園である。この公園が延びていってそのまま緩やかに盛り上がって丘のような屋根を形成する、というイメージであった。
公園と建築の間に植えられる芝生が屋根の上まで連なり、人々が屋根の上も散策できるようにしたかった。RCのスラブを防水した上にプレキャストーコンクリートで浅いプラントボックスを並べ、ユニットごとに芝生を管理してはどうかという提案である。積雪荷重2.5mという豪雪地帯でいかに芝を越冬させるかの実験をしようとまでしていたのだが、市からの強い要請でこの屋上緑化計画は中断された。芝生のメンテナンスに自信が持てないという理由からであった。
実現された屋根はアルミパネルに覆われている。雪止めのために深い溝か長手方向に切られ、ストライプ状のパターンが大きく波打っている。」
「延長約140mに及ぶ屋根は断面力向に湾曲しているだけでなく、平面的にも大きく弧を描いている。つまり三次元の曲面を形成していることになる。その点で三年前にでき上がった「下諏訪町立諏訪湖博物館」(1993年)の屋根に近いとも言えるが、二つの山を形成しながらうねっている、という点ではより複雑な形状を構成している。同じアルミパネルに覆われていても、諏訪の場合逆さまにした船とか魚の形態が連想されたのに対し、長岡ではもっと自然の形態に近いように思われる。つまり、ここでは人工的に新しい地形をつくり出したとも言える。そして、大屋根の上に突き出した楕円形のコンサートホールと劇場のフライタワーは、さながら丘の上に置かれた二つのミニマル・アートのように見えるかもしれない。あえて幾何学的形態を採ったのも、大屋根とのコントラストをはっきりさせたかったからである。」
「しかし、一体なぜ自然の形態を模した屋根、人工の地形をつくらねばならなかったのか一言で片付ければそれは、建築をつくりたくなかったからである。だが、そうは言っても、所詮それは建築以外の何物でも無いのだから、建築的建築をつくりたくなかったと言うべきであろうか。
このホールの敷地は信濃川河川敷に新しく開発された文化ゾーンの一画を占めている。近年県立美術館や展示ホール、大学などが次々に設立され、公園を囲む。公園を含めそれらのいずれもが、かなりな規模を持ち、それぞれの設計に注がれたエネルギーもそれ相応の濃度を感じさせる。」
「にも拘わらず、この文化ゾーンが総体として表出する風景は、決して人の心を和ませるものではない。都市の文化施設が居並ぶ風景としては貧困としか言いようがない。まったく平坦で起伏のない地形の単調さ、川の流れからも隔絶され、何らの歴史を感じさせることもない土地が、建築の単調さを生み出しているのであろうか。
確かにこの風景の単調さや貧困さを建築家に押しつけるのは酷と言うものであろう。私白身もこのホールの設計に際して、周辺環境から何らのコンテクストも持ち得なかった。」
「前面の公園云々にしても、公園のデザイン自体がホールの敷地に対して何かを語りかけてくるような印象は一切なかったと言うしかない。このような風景を目の当たりにした時、建築は暴力的に振る舞うか、それとも消え入るかのいずれかしかないのではないか。すなわち、建築の暴力的な程の自己表現の強さによって、環境に変化を与えるか、それとも建築をほとんど自然環境化してしまうしかないように思われるのである。そして私は後者を採った。」
「建築のランドスケープ化、あるいは図としての建築と地としての庭園の逆転、という手法を私は公共施設、もしくはそれに類する施設の設計に何度か利用した。「札幌ビール北海道工場ゲストハウス」(1989年)に始まり、「八代市立博物館」(1991年)、「フランクフルト市立エッケンハイム幼稚園」(1993年)などがその典型であり、「下諏訪」の場合も湖に同化する形態という意味では同様なカテゴリーに入れられるかもしれない。」
「最近では多くの建築家が用いているこの方法が、ある程度敷地に余裕のある地方自治体の公共施設に多く見られるのは決して偶然ではない。
戦後に建てられた地方自治体の施設は老朽化したり、施設規模の拡張という要求に応えるべく、移転し新たに建て直すケースが続いている。近年の公共建築ブームやコンペティションの増加現象も、このような移転建て替えと深く関連していると言えよう。
そして多くの場合にその敷地は広さを求めて、建てられていた街の中心部から、新しく開発された敷地へと移転する。山の手の丘陵地帯から平坦な田畑であった土地や海岸の埋立地へと動くケースが圧倒的に多いのである。」
「人々が集まって住んできたことの証を喪い、同時に地形をも喪ってしまったひたすら平坦な土地、それが多くの新しい公共建築のための用地である。しかもその敷地の大半はパーキングの用に供せられる。幹線沿いのスーパーマーケットやドライブ・イン・レストランの如く、分不相応のスケールのみを誇示している公共施設。それが往々にして私たちの前に呈示される新しい公共建築のための敷地である。街づくりとか街おこしという言葉が叫ばれるのとは裏腹に、その地方が蓄積した都市空間としての遺産は「規模」だけのために何らかの思慮もなく自ら消失させられている。
このような現実を前にして、設計者としては一体何か可能なのか。私たちは、地形をつくることからしか始まりようがないのである。」
「■林をつくる
「長岡リリックホール」における屋根が丘のような地形を形作っているとすれば、それを支える柱は内部空間において林をつくっている、と言って良いだろう。三次元の曲面を形成するコンクリートの無梁版は、ランダムに立てられたスティールの柱群によって支えられている。それらのスパンは約7.5m、高さは3~9mに及んでいる。ランダムと言っても構造的な力の流れのバランスが崩れない程度の範囲内においてであることは言うまでもない。したがって、それはランダムに見える柱、と言った方が良いのかもしれない。」
「しかしいずれにしても、それらは規則性を強調する建築化の方向ではなく、不規則性をアピールする非建築化、自然化の方向を指向している。
このような方向も建築のランドスケープ化とほぼパラレルに繰り返されている。必ずしもそれは同じプロジェクトで用いられているわけではないが、「八代市立博物館」、「永山アミューズメント・コンプレックス」(1993年)、「八代市立養護老人ホーム」(1994年)、「八代市立広域消防本部庁舎」(1995年)等において採られた方法である。」
「ランダムな柱による規則性のない空間は流動性を推し進めることになる。不規則な柱はまずフィジカルに、壁を立てにくくするし、部屋という空間単位を意識しにくくする。木立の間を抜けていく空間体験のように、それは森や林のように自然の中での体験に近いと言えよう。
しかしここでもまた、なぜに非建築でなくてはならないのか。それは建築の閉鎖性、つまり環境からの自立性を除去したいのであり、また建築のもつ強い中心性や空間のヒエラルキーを排除したいからである。」
「今日の公共建築は先に述べたような都市における風景としての貧しさと同時にもう一つの貧しさを表現している。文化的な貧しさとでも言うべきか、それは大概の場合、そこで行われる人々の活動に対する自治体のアイデアの無さ、退屈さから生じている。端的に言えば、ほとんどの施設が極めて慣習的で御座成りな、市民のための文化活動を支持する空間として提案されているのである。」
「近年、市民の文化活動自体はかなり積極的で、オリジナリティに満ちた創作活動も行われているのだが、そうした活動が、もっと自由に楽しく振る舞える場の提案には容易に結びついていかない。自治体という壁がそれらを平均化し、可もなく不可もない施設に置き換えられてしまっている。」
「新しいプログラムの提案、という言葉でこのような公共施設の事業の貧しさに対する議論は度々繰り返されてきた。しかし、この壁の厚さは測り知れない。個人としての建築家が解決するには余りに堅固な壁である。それは日本の社会全体を覆い尽くしている「管理」という壁であり、この壁に向かった時、建築家なんてほとんどお手上げ状態と言った方が良いくらいである。」
「プログラムの提案といくら唱えたところで、われわれ建築家に可能なことは所詮、フィジカルな空間の提案である。その限界は見えていると言うべきであろうが、しかし様々なフィジカルな空間の提案が、多少は管理の仕方を変えていかざるを得ないであろう。いくら歩止まりが悪くても、われわれにはそうした方法しか採りようがないのである。」
「空間の非建築化といった方法がどこまで有効かは定かではないが、私にとってそれは、閉塞状態の公共施設を開放する一つの空間的戦略としてあり得るのではないかと考えている。今回の「長岡リリックホール」に関して言えば、コンサートホールと劇場、この二つの空間が柱の林立する空間の中に溶融してしまうことはなかった。丘の上に置かれた二つのミニマルアートのようなマッスは、内部においても閉じられた二つの空間をそのまま温存させている。ホールとかシアターという空間のタイプがそうさせたと言ってしまえばそれまでだが、この二つの牙城をわれわれは攻められなかった、と言わざるを得ない。それらは私たちにとって未だ難攻不落の城であったのだ。」(伊東豊雄氏による論文はここで終わりです)
確かに今から20年ほど前、1990年代半ば当時、地形に沿うような自由な形態の建築がそれほど多くなかったということもあり、その当時の状況では、この論文は「なるほど」という説得力をもっていたのかもしれません。
「「長岡リリックホール」における屋根が丘のような地形を形作っているとすれば、それを支える柱は内部空間において林をつくっている、と言って良いだろう。」とありますが、「丘のような地形」「林」というのは、訪問時も感じなかったし、説明を読んだあとも感じることができませんでした。ちょっと無理があるのでは?と思いました。
私は、むしろ、この屋根は「地形」というよりも、布のように柔らかいものをイメージしてつくられたのかと思いました。外観上はヒラヒラと布が宙に浮いているようにしか見えないのです。それがRCのスラブでつくられていたので、少し驚いたくらいです。
「内部空間が林」となるともっと難しいと思いました。ライトのジョンソンワックス本社などは、均等グリッドで柱が並んでいる割に、「林」という感じがしますけれど。
「楕円形のコンサートホールと矩形のシアターという幾何学形状の目的空間を、柔らかい三次曲面の自然な形態のホワイエ、ホールという共用空間で結んだ」くらいの説明なら、誰しも納得できるでしょうが、「地形」、「林」となると人によって感じ方が違うのではないでしょうか。「建築的建築をつくりたくなかった」というのも文脈から意味はわかりますが、私は現地では恣意的表現の強い「建築的建築」と感じたのでした。
建築家の言葉と実際につくる建築の間には、密接な関係があります。言葉を手掛かりにコンセプトがつくられ、そのコンセプトを原動力として統一感のある建築がつくられていくという場合があります。それとは逆に、形から始まって、その形を正当化するためのレトリックとして言葉が使われるということもあるでしょう。
建物を見るときに、最初素直な気持ちで見て、そのあと説明を聞いたり、読んだりしたときに、「なるほど」と腑におちる場合と、そうでない場合があります。そうでない場合であっても、建築家本人にとっては、あるいは当時の状況の中では、そのコンセプトが本当に形を導いてきたのだろう、と納得したりします。
建築は常に、政治、経済などの外部要因とのせめぎあいの中で生まれてきます。立ちはだかっているものを突破するために、何か先鋭的なスローガンのようなものが必要になってくる場合がありますが、いざでき上がってみると、その言葉の役割はすでに終わっており、もっと違う言葉で表現したほうがしっくりくるという場合もあると思います。
絵画など美術作品の鑑賞のように、その歴史や時代背景を知ったうえで、作者や批評家の言葉に接することで、より深くその作品を理解できるようになるというのは建築でも同じなのでしょう。