11月21日に平等院鳳凰堂を訪れました。平成の大修理以降初めてでした。古色蒼然としていた以前の鳳凰堂の落ち着いた雰囲気も知っているだけに、やはり最初は違和感がありました。創建当時の顔料が丹土とわかり、以前の修復で使われた鉛丹より落ち着いた丹土の赤色で全面的に塗り直すことが決められたそうです。午後三時くらいに訪れたので、西日を背負う形になって、シルエットが強調されていたこともあり、すぐに慣れました。中国などアジアからのお客さんも多く、そういう人たちには、赤や金といった彩色が施された華やかな雰囲気の方が受けるのかなとも思いました。

以下、平成大修理の前の記事です。(出典不明、インターネット記事から転用)

平等院鳳凰堂(ほうおうどう)(京都府宇治市)といえば、十円硬貨の絵柄にも採用されている日本を代表する名建築だ。
その鳳凰堂の外観が来春、一新される。京都府教育委員会が進める「平成の大改修」で建物全体を赤く塗り、鳳凰に金箔(きんぱく)を施すなどして平安時代の創建時の姿に近づけることが決まったのだ。

現在の地味で枯れた印象から、
「真っ赤で金ピカ」の姿に大変身するわけだが、この改修をめぐり「歴史的に意義がある」「いや古色が失われ、違和感を覚える」
と研究者らの間で賛否の声がわき上がっている。

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現在の平等院鳳凰堂   柱・壁などの塗り替え、鳳凰を金箔で仕上げただけでなく、瓦も新しいように見えるが、どうなのだろう?

◆「丹土塗り」に復原
「新しい鳳凰堂の姿に期待してほしい」

7月9日、平等院で記者会見した神居(かみい)文彰住職と鶴岡典慶・府教委文化財保護課副課長は、こう言って胸を張った。
国宝で、世界遺産にも登録されている平等院。大改修は平成2(1990)年から始まった。
その過程の発掘調査で、天喜(てんぎ)元(1053)年、関白・藤原頼通によって創建された際は屋根瓦が木製だったのが、約半世紀後の修復で、現在のような粘土瓦による総瓦葺(そうかわらぶき)になったことなどが明らかにされた。

平成大改修の仕上げは外観の彩色、つまり柱や扉の塗り替えと、屋根を飾る鳳凰などの手直しである。
国宝建造物などの修復にあたっては、可能な範囲で古い形式や仕様に復原する方針が取られる。はっきりした痕跡などが確認されれば現状を改め、古い形態に戻すのだ。

鳳凰堂は戦後間もない昭和25年に修理された。その際の外観の彩色は、鉛を焼いて作った赤色顔料の「鉛丹(えんたん)」で塗り直した。しかし今回、古い瓦に付着した顔料を分析したところ、かつては鉛丹でなく酸化鉄と黄土を混ぜた「丹土(につち)」だったことが判明した。

同じ赤色顔料ながら、丹土は鉛丹に比べてより落ち着いた色調になる。最近再建された平城京大極殿(だいごくでん)も丹土塗りで、費用もほぼ同じことから、府教委は丹土塗りの採用を決めた。

昭和の修復では、柱の下方は鉛丹を塗らないなど、古色を重視していた。今回は柱をすべて塗り、赤色が目立つようにする。

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30年程前の平等院鳳凰堂

◆「特注瓦」も復活へ
彩色とともに注目されるのは、軒瓦を12世紀初頭のものに変更することだ。発掘で出土した瓦は、平等院の荘園だった向山(むかいやま)(大阪府八尾市)の瓦窯(がよう)で焼かれていた。軒丸瓦のデザインはハスの中心に巴文(ともえもん)があり、平等院用の特注品だった。これが、実に900年ぶりに復活する。

それ以上に目を引くのは、金具類に金箔を押すことだろう。鳳凰堂のシンボルで名前の起源の鳳凰は青銅製だが、創建当初は金鍍金(ときん)=めっき=されていたことがわかっており、今回、金鍍金か金箔押しで復原される。

また左右の翼廊(よくろう)の屋根を飾る「露盤宝珠(ろばんほうじゅ)」も金色に変わる。こうした変化を、観光客はどう感じるのだろう。
創建時の姿への復原がいいのか、くすみなどの経年変化が現れた現在の姿を大切にすべきか。古建築を多く抱える奈良や京都では、大きな化粧直しがあるたび、議論が巻き起こった。

昭和56(1981)年、薬師寺に西塔が再建された際、外観は創建時を想定して極彩色に塗られた。
この時は「“凍れる音楽”と例えられる東塔(国宝)の古色にそぐわない」と地元から大反対が起きた。
清水寺三重塔(重文)は修理の際の調査で創建時は極彩色だったことがわかり昭和62(1987)年、復原された。寺側は渋ったが、その後、西門(同)も極彩色で塗り直され、景観は華やかになった。

一方、「天平の甍(いらか)」として有名な唐招提寺金堂(国宝)は平成12(2000)年から解体修理されたが、彩色面では現状を変えなかった。創建時の彩色も一部判明したが、全体の復原には「資料不足」(文化庁)と判断されたためだ。

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当時はだいぶ話題になりましたが、いまここを訪れるお客さんたちは、あまり気にしていないようです。

以下の白洲正子さんのエッセイを読むと、以前の修理の直後も相当けばけばしい印象だったようですね。その修理以前はなんと、「ほったらかされていて」「宇治川の堤からずるずるとお寺に入っていけるようになっていた」ようです。

人の感覚というのは結構いい加減で、今の我々の感じ方をあまり素直に信じすぎてもいけないのかもしれません。しっかりした評価基準をもつというのはなかなか難しいものです。

今は少し華やかすぎる鳳凰堂も、そのうち落ち着いてくるでしょう。

以下「不滅の建築 3 平等院鳳凰堂 (毎日新聞社)」からの引用です。

 

「極楽いぶかしくは」 白洲正子

極楽いぶかしくは
宇治のみ寺を敬へ

平等院が建立された時、里人たちはこのように謳って、極楽浄土さながらの壮麗な美しさをたたえたという。
それは永承七年(一〇五二)三月のことであった。御堂関白道長の子頼通は、宇治川のほとりにある別荘を自らの終焉の地と定め、大伽藍を建立して平等院と名づけた。今遺っている鳳凰堂はその一部で、宇治川をへだてて七堂伽藍がそびえ立っていたのだから、その盛観は想像を絶するものだったに違いない。それは藤原文化の頂点に咲いた、いわば最後の花であったが、度々の戦乱に衰退し、再び元の姿に復活することはなかった。が、その花の中の花ともいうべき鳳凰堂が遺ったことはせめてもの倖せであった。周囲をとりまく緑の自然の中に、ゆるやかに翼をひろげた軽快な建築が、池水に姿を映している風景に藤原の昔を偲ぶことは必ずしも不可能ではない。

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平等院については実にさまざまの思い出がある。私が子供の頃は、境内も今ほど整備されてはいず、宇治川の堤からずるずるとお寺へ入って行けるようになっていた。池のほとりには雑草が生い茂り、淀んだ水のそこここにはあやめやこうほねが自生して、荒廃に近い有様だった。さすがに本尊の阿弥陀様は、今と変わらぬ慈悲深い姿で見おろしていられたが、それはそんな風に思っているだけで、子供の記憶には殆んど何の印象も与えなかった。それより大きな寺の半ば荒れた風情が幼な心にもなつかしく、源三位頼政が自害したと伝える「扉の芝」の跡や、みごとな藤棚の花房を眺めながら、境内を散策するのが私は好きだった。大人になってからもこの性癖は直らず、物事を丹念に研究したり、考証したりするよりも、周囲の景色や雰囲気を大づかみにとらえることの方に興味がある。平等院の場合もその例を洩れず、長年かかって付き合っている間に、漠然とではあるが何かつかんだように思う。
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中でも印象に残っているのは、キティだったかキャサリン台風だったか、戦争が済んで間もない頃、凄まじい嵐に出会ったことがある。その日も私は友人と平等院を訪れる約束になっていた。別に何の目的かおるわけではない、暇な時間があると、つい宇治へ足が向かうのがその頃の私の習性であった。既に朝から風雨は強くなっていたが、平等院へ着いた頃には雨が下から吹きあげるような激しさで、傘など何の役にも立たなかった。宇治川は逆巻く波を土手に打ちつけ、池も水かさを増して、鳳凰堂の回廊まで押しよせて来ていた。

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その時、一陣の風とともに、本堂の扉が開いた。誰かがあけたのか、自然に開いたのか覚えてはいない。が、あの大きな厚ぼったい扉が、破れそうな音を立てて開き、開いたかと思うと、また風にあおられて地ひびきを立てながら閉まる。何度もそういうことをくり返して肝を冷やした。うっかり傍によったらはねとばされただろうし、扉にはさまれて怪我をしたかも知れない。そのうち屈強の坊さんが何人か出て来て、力ずくで閉めたうえ鍵をかけたが、それでもなおおさまらず、いつまでもふるえつづけていた。ふだんは気にもかけない扉が、あんなにも大きく、強力なものであったかと私ははじめて知った。

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その騒ぎの中で、鳳凰堂は微動だにしなかった。瓦は飛び散っても、てっぺんの鳳凰の彫刻は雨風に抗して胸をはっていたし、仏様はいつものように静かであった。千年の風雪に堪えるとは正にこのことに違いない。私はそこに見かけは優美な藤原文化の力強さと、底の深さを見るように思った。

こんなことを書いても信じる人はいないだろうが、当時の平等院は、それほどまでに放ったらかされていたのである。やがて修理がはじまり、建築も境内もけばけばしい程に整備された。そのけばけばしさも数年の間に落ちつき、今見るような姿に還っている。そうしたある日のこと、私は王朝びとの見た「極楽浄土」の有様を、ほんの一瞬ではあるが垣間見る幸運にめぐまれたのであった。

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春の彼岸の頃、鳳凰堂に朝日が当たる瞬間は、感動的な景色であると、教えてくれたのは奈良飛鳥園の小川光三氏である。その頃私は芸術新潮に『道』という連載を書いており平等院の周辺を取材していた。ちょうどお彼岸の頃だったので、その話を聞くと直ちに実行に移した。私はいつも京都に泊まっていたので、翌朝四時半に起きると、まだ暗い中をタクシーで宇治へ向かった。

平等院は、「朝日山」の山号を持つように、宇治川をへだてて朝日の出る山に東面して建っている。その日はお天気がよく、御来光を拝むには絶好の日よりであったが、宇治川に近づくにしたがい、曇って来た。お天気が悪くなったわけではなく、川霧が上昇して一時的に曇るのである。平等院へ着く頃には一面灰色の空となり、しばらく経って太陽は出たことは出たが、ぼんやりした輪郭を現したにすぎない。極楽浄土はそう簡単に現出する筈はなかったのである。

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翌日も私は性懲りもなくまた試してみたが、同じことであった。それは川霧のせいばかりでなく、公害も手伝っているに違いない。そんなことをおよそ四、五へんもくり返したであろうか。いくら閑人の私でもそのうち用ができて東京へ帰ったが、再び平等院を訪れたのはその年の秋も終わりの頃であった。

私はもうあまり期待してはいなかった。じっと我慢して待っていれば、そのうち向こうの方から語りかけてくるに相違ない。おまけにその日は曇っていた。また今日も駄目か。そう思っていると、あにはからんや突然朝日山の左肩から太陽が現れ、屋根の上の鳳凰がにわかに飛び立ったような気配がした。

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それからは秒刻みに驚くべき変化が鳳凰堂の上に現れたが、その時の感動を、ここにくり返し書くことはできない。文章もまた一期一会のものなのだ。そこで読者には申しわけないけれども、前に書いた『平等院のあけぼの』の中からかいつまんで記しておく。
「太陽が登るにしたがって、鳳凰堂は屋根から下へ向かって明けて行く。それは昼と夜とが真二つになったような奇妙な印象を与えた。……そうしている間にも、朝日は刻々と鈍色の衣をはいで行き、やがて鳳凰堂はかがやくばかりの全景を現した。朝日をあびて、白い壁が桃色に染まり、翼廊は羽を左右にのばして喜びの讃歌を謳う。それは正しく『欣求浄土』の希望と光明にみちた景色であった」

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だが、そこで終わったわけではない、日光が水面へ降りて来ると、今度は逆にお堂を下から上へ照らしはじめる。水面に反射する朝日は強烈で、お堂の隅々にまで浸透し、たださえ金色に輝く堂内を眩ゆいばかりに染めて行く。内陣はその時生きもののように蘇り周囲の白い壁にもさざ波が立って、天人は音楽を奏でながら飛翔して行く。水鏡は本尊の微笑に不思議な動きを与え、天蓋の唐草がゆらめいて、「内陣ばかりか鳳凰堂全体が、虚空に浮かんで鳴動するように見えた」のである。

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おそらくそれは私にとって、一生のうちに二度と出会えぬ光景であった。「極楽いぶかしくは、宇治のみ寺を敬へ」それはほんとうのことなのだ。ほんとうのことと信じなければ、極楽も地獄も、いや、この世の真実も見えて来ないに違いない。