今回は、ニューヨークのメトロポリタン美術館で見た、ムンクとマティスの絵を紹介します。
ともに日本でもよく知られた画家ですね。ムンクは『叫び』、マティスは『ダンス』によって。
ムンク(1863―1944)、マティス(1869-1954)と、二人の生きた時代はほぼ重なっています。
まずは、エドヴァルド・ムンク(1863―1944:ノルウェー)から
ノルウェーの国民的画家であり、ノルウェーの紙幣の肖像にもなっています。
貧しい医者の子として生まれ、幼くして母と姉を結核で失い、彼自身も慢性気管支炎で喀血、こういった出来事が彼の人格形成に大きな影響を与え、孤独や病、死への恐怖といった内面の不安が作品を支配することとなりました。1864年一家が移住したクリスティニア(現オスロ)で、美術工芸学校に入りますが、これに飽き足らず、クリスティアニア・ボヘミアンと呼ばれるアナーキーな新世代の画家グループに属しました。しかし、1889-90年のパリ滞在を転機に、写実や印象主義的な芸術を超え、自己の内面の孤独と不安、肉親の死の記憶を表現する絵画を目指しました。表現主義の画家に分類されています。
「表現主義」とは外界の印象(=impression)に基礎をおく「印象主義(印象派)」に対して、内面の(感情の)表出(=expression)を目指す芸術です。
「表現主義」という言葉自体は、歴史的にいうとマティスのフォービズムについて用いられていましたが、フランスでは定着しませんでした。しかし、1911年ころからベルリンで前衛的な美術を中心に音楽、文学、演劇、映画、建築に及ぶ革新的芸術の合言葉として広まりました。「表現主義」は、広義にはムンク、ルオー、シャガールらに至る個々の画家やマティスら「フォーヴィスト」、ピカソら「前期キュビスト」などを含めてよいでしょう。
つまり、印象主義と表現主義は、日本語に訳すとその関係がよくわかりませんが、原語でみればin(内向き)とex(外向き)、世界と内面の境界を挟んで、重視するもののベクトルが逆向きということであり、単純化していうと、「表」と「裏」のような関係にあります。
一見すると、写実を超えた表現を目指している点では印象主義の絵と同じように見えますが、印象派は自分の目でとらえ、心で感じた印象をそのまま忠実にキャンバスに定着させようとしたのに対し、表現主義のムンクに至っては、極端にいうと外界に対象物が存在していなくても、自分の精神の「叫び」を絵にぶつけようとしたという点で、さらなる跳躍があるといえるでしょう。
アンリ・マティス(1869-1954:フランス)
最初パリで法律を学びましたが、やがて画家を志し、1892年、フランスの国立美術学校であるエコール・デ・ボザールでギュスターヴ・モローに師事。その後セザンヌ、スーラらの影響を受け、フォーヴィズム(野獣派)をブラマンクとともに興し、その指導的存在となった。その運動が終息した後も、色彩・フォルム・描線の単純化・装飾化によって独自の世界を構築し、20世紀美術に影響を与え続けました。
フォーヴィズム(Fauvisme:野獣主義)とは20世紀初頭の絵画運動で、1905年、パリのサロン・ドートンヌに出品された一群の作品の、原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチを見た批評家が「まるで野獣の檻(Fauverie)の中にいるようだ」と評したことから命名されたといいます。
フォーヴィズムはキュビズムのように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩は構図に従属するものではなく、画家の主観を表現するための道具として自由に使われるべきだとします。
「フォーヴィズム」は、ルネサンス(14世紀にイタリアで始まり広まった古典古代(ギリシヤ、ローマ)を範として、中世のキリスト教的な抑圧から、より人間的な創造を復興しようとする一連の運動)以降の伝統である「写実主義」と決別し、心が感じる色彩を表現しました。マティスとムンクは、画風では「明」と「暗」という感じがしますが、大きくは同じ方向を目指していたといえるでしょう。
フォーヴィズムは日本にも大きな影響を与えました。影響を受けた画家には、梅原龍三郎、岸田劉生、佐伯祐三、中川一政、萬鐵五郎など錚々たる面々が挙げられています。
しかし、マティスがフォーヴィストとして活動していたのは1905年から3年ほどで、それ以降は静かで心地の良い作品を描くようになりました。マティス自身は「私は人々をいやす肘掛椅子のような絵を描きたい」といって、フォーヴィズムの画家と呼ばれることをひどく嫌っていたといいます。
パリ南西のイシー・レ・ムリノーにあったマティスのアトリエの様子を描いたこの作品は、彼がモロッコでの長期滞在からフランスに戻った1912年に制作されたものです。構図では左側に木製の肘掛け椅子の右半分が描かれ、右側には金蓮花を生けた花瓶が三脚テーブルに置かれています。背景全体に配置された人物群は、この作品のタイトルに《ダンス》とあることからわかるように、ニューヨーク近代美術館所蔵のマティスによる油彩の大作《ダンスⅠ》(1909年)の一部が描かれています。マティスはこの主題で同サイズの作品を2点制作し、1点目であるこの作品がスケッチ風で明るい色使いであるのに対し、2点目(モスクワ、プーシキン国立美術館蔵)は情熱的な色彩で、背景に《ダンスⅡ》(1909-10年、サンクト・ペテルブルク、エルミタージュ美術館収蔵》を描いています。(『メトロポリタン美術館ガイド』より)
人々をいやす「肘掛椅子」を、心の声に従って、構図に入れたのでしょうか。(笑)
マティスがこのような絵画の世界を切り開いたのは、「象徴主義」の画家モローから最初に手ほどきを受けたということの影響もあるでしょう。「象徴主義」とは、「自然主義」などへの反動として1870年ころにフランスとベルギーに起きた芸術運動です。
その背景としては、18世紀末から19世紀前半に欧州で起こった「ロマン主義」という精神運動があります。「ロマン主義」は、それまでの理性偏重、「合理主義」に対し、感受性や主観に重きをおいた運動であり、のちに、その反動として、「写実主義」「自然主義」などをもたらしました。それに対するさらなる反動として、「象徴主義」がでてきたというわけです。
世の中には、さまざまな対立する概念があり、その両極を振り子のように揺れ動きながら、世界は進んでいくのでしょう。ムンクとマティスも時代のうねりの中で、自らの内面から湧き出ずるものを素直に表現しようとしたいえるでしょう。