この駐車場で、レンタカーを乗り捨て、精算。レンタカー会社の担当の青年が、「自分は日本の青森で生まれ育った」と自己紹介する。父親が米軍三沢基地にでも働いていたのだろうかと想像する。
午後3時半にピッツバーグ空港を出発。シャーロット空港で乗り換え、ダラス・フォートワース空港に着いたのは夜9時半。
(ピッツバーグのような中規模の地方都市からは、ダラス行きの直行便がないらしい。)
空港でタクシーに乗り、ホテルの住所を告げると、運転手から「iphoneに住所を入力してくれ」と言われる。打ち込むと、そのままナビを使って、その指示通りに運転していく。あえてナビの音声が車内に流れるようにして。日本ではありえないが、違う班は、建物の近くでぐるぐる回られたらしいので、こちらのほうが良心的かもしれない。
ダラスとフォートワースは、下の地図を見ればわかるように双子のような都市です。
ダラスは人口約119万人、フォートワースは約53万人でダラスの方が約2倍ですが、この二つの都市を核にして、その中間のアーリントンを含め、約550万人の広域都市圏を形成しています。
テキサス州の都はオースティンですが、都市圏人口はダラスが一番大きく、ヒューストン、サンアントニオと続き、州都は4番目の規模です。
テキサスは、ヨーロッパからの入植後、最初はフランス領、次いでスペイン領となり、1821年~35年の間はメキシコの一部でした。1836年にメキシコから独立宣言をし、テキサス共和国を樹立、その時に定められた首都がオースティンです。その後、1845年にアメリカ合衆国に併合され、28番目の州となりました。
ダラスは、20世紀に入り、テキサス州東部で油田が発見されたことにより栄え、同時期に航空産業誘致にも成功したことにより、中南部最大の都市として目覚ましい発展を遂げました。
しかし、1963年11月22日に、遊説中のJ.F.ケネディ大統領が暗殺されたことにより、世界中にその汚名が知れ渡ることにより、受難の日々を送ることとなりました。
1970年に原油価格が高騰したことにより、活気を取り戻し、1975年には、ダラスとフォートワースの中間に、全米で2番目の規模の、ダラス・フォートワース空港をつくり、これが世界最大手のアメリカン航空の要塞ハブ空港として成功したことにより、世界的な交通の要衝となります。現在は、石油産業とエレクトロニクス産業を軸に繁栄し、金融、経済の中枢となっています。
9月22日に見に行ったのは、フォートワースの文化地区にある、4つの美術館です、
文化地区は、上のグーグル・アースの写真でいうと、中央上側の、緑の多い直角三角形の一画です。
ここに、写真左(西)から、Amon Carter Museum of American Art, Kimbell Museum of Art (Piano館、Kahn館),Modern Art Museum of Fort Worthの順で4つの美術館が、隣接して建っています。Philip Johnson, Renzo Piano, Louis Kahn, そして、私の師でもある安藤忠雄という、世界的な建築家がこんな近くで共演している。主役級ぞろいの大作映画を見せられるような気分ですね。
いかに大都市とはいえ、地方都市の一画に、これだけの美術館が集まっているのは大変珍しいのではないでしょうか。
ダラスは、G.W.ブッシュ元大統領のお膝元でもありましたし、前述のように石油産業で栄えた街です。詳しい経緯はわかりませんが、オイルマネーが、美術の収集も含め文化事業にむけても投資された結果、このようなまれに見る文化ゾーンが形成されたのでしょうか?どのような理由であれ、収蔵品もあわせて、アメリカが世界に誇れる文化地区だと思います。
キンベル美術館(カーン館)の裏手の車寄せで、車をおりる。
イサム・ノグチは、日本人の詩人、野口米次郎と、アメリカ人の作家、レオニー・ギルモアの間に1904年に生まれたアメリカ人の彫刻家です。1988年12月30日に83歳で亡くなりましたが、安藤忠雄先生はたいへん親しくされていて、その10日前にも彼とお会いしていたそうです。翌年2月に、安藤先生の設計した大阪・心斎橋の商業ビル「ガレリア・アッカ」でイサム・ノグチ展を開くことになっており、その打ち合わせのためだったそうです。なんでも、もっと格式ある美術館での開催が決まっていたのに、ノグチ氏が、「ガレリア・アッカ」の空間をみて、「ここがいい、ここで展覧会をやろう」といって変更したとのことでした。安藤事務所時代には、そのような、ノグチ氏の逸話をお聞きしたことがあります。
イサム・ノグチは生前いつも「石はいじりすぎると彫刻にならない。石が死ぬ」と言っていたそうです。そして「素材も殺さぬように、自然も殺さぬように」とも言っていました。(安藤忠雄『建築を語る』第三講より)
その通りに、彼の彫刻は、完全に手を加えてしまうのではなく、自然の表情を残しています。
日本の石庭を思わせるような、幾何学に則らず恣意的だが、絶妙の石の布置。
以前のルイス・カーン作品集を見ると、彫刻はなく、ただの芝生の庭になっていた。庭の片隅に設置された銘板に『ルイス・カーンに捧ぐ』というような言葉が書いてあったので、竣工後しばらくしてから、イサム・ノグチがルイス・カーンへの思いをこめてつくった庭なのだろう。
ノグチの彫刻は、カーンの建築に違和感なく寄り添っている。
イサム・ノグチと交流のあった人の多くが、彼はアメリカ人でも日本人でもない、孤独な感じが漂っていたと証言しています。
根無し草として、漂泊者としての生き方を強いられますが、それが芸術家としての彼の原動力でもあったのでしょう。
イサム・ノグチはコロンビア大学の医学部に進学しますが、その時に同姓の野口英世と出会い、「医学と芸術、どちらが真理に近寄れますか?」と質問し、「それは芸術の方ではないか。」と言われ、彫刻家の道に進んだといわれています。
ノグチは1927年パリにわたり、ルーマニア生まれの彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシのアトリエを訪ね、弟子入りを志願しますが、「真理は自分でつかむもの」と言われ、認められませんでした。しかし、何度か赴いて、結局アシスタントとして傍に置かせてもらえたのですが、半年で彼のもとを去りました。
彼は後に、ブランクーシからの教えと日本文化を結んで、次のように書いています。
「ブランクーシは、日本人のように自然の真髄をつかみ取って純化する。ブランクーシは、素材そのものの真実を私に見せ、飾り付けたり不自然な物質を彫刻にくっつけたりしてはいけないと私に教えて、それらを日本の家のように飾り気のないままにしておかせた。」(前出『建築を語る』より)
丹下健三とも親しく、丹下の依頼で、広島の平和記念公園の、慰霊碑を計画し、デザインも固まり模型までできていたのですが、原爆を落としたアメリカの彫刻家になぜ慰霊碑をつくらせるのかという議論が沸き起こり、結果的に採用されず、丹下自身がデザインしなおしました。
丹下もそのことではとても苦しんだそうですが、ふたりの友情は変わらなかったそうです。
イサム・ノグチは女優・山口淑子(李香蘭)と結婚していた時期もあります。
岐阜提灯をモチーフにした「あかり」シリーズは有名で、ジェネリック品も含め多く出回っており、料理店や旅館などでもよく見かけます。
札幌の大通り公園にあるブラック・スライド・マントラや、同じく札幌のモエレ沼公園など、日本にも多くの作品が残されています。
私の住む山形県にも、酒田市の土門拳記念館の中庭に彼の作品があります。(建築は谷口吉生氏の設計)
イサム・ノグチは香川県の高松市近郊の牟礼とNYのロングアイランドにアトリエをもっていましたが、その両方ともが、今は美術館として公開されています。
六連のうちの手前側の一連が、ポーティコとして、屋根あり外部になっている。その発想自体が素晴らしく、この建築にふくらみを与えている。
ダラス付近は温暖湿潤気候だが、日本のように蒸し暑くはない。しかし、日差しがきついので、このように多くの木を植えて木陰をつくっているのだろう。
やっと開館時間の10時になりました。
サイクロイド曲線の天井頂部にトップライトがあり、細かい目のパンチングメタルのルーバーに反射して(一部は透過して)、コンクリート打放しの天井を柔らかく照らします。さらに、天井に反射した光が、室内を柔らかく包みます。スケールの設定の的確さと、光の取入れ方の絶妙さ、これだけ完璧な建築空間はまれです。
学生時代にこの美術館を雑誌で見たときは、何がそんなにすごいのかよくわかりませんでしたが、実際に経験して、この建築は古典に匹敵すると思いました。
Louis Isadore Kahn (ルイス・イザドア・カーン)(1901-74)は、しばしば最後の巨匠と言われる、20世紀を代表する建築家の一人です。
エストニア系アメリカ人で、ユダヤ人夫婦の子としてエストニアに生まれ、1904年にアメリカに移住してきます。
1921年ペンシルベニア大学美術学部建築学科に入学し、フランス人建築家ポール・クレのもと、ボザール(フランスの美術学校:ヨーロッパ古典様式を正統とするアカデミックな美術教育機関)流の建築教育を受けます。いわゆるアメリカン・ボザールといわれる流れです。
Louis Kahnが、建築家として認められたのは、彼が50歳の時に完成した、イエール大学のアートギャラリーによってでした。
それまでは、アメリカ合衆国住宅局の顧問建築家をしたり、フィラデルフィアの再開発のコンサルタントをしたりしていますが、建築家としては知られていませんでした。
しかし、73歳で亡くなるまでの24年の間に、世界的に影響力のある十ほどの建築を残してこの世をさりました。
彼は、インドのアーメダバードからの帰途、ペンシルベニア駅で心臓発作のために亡くなり、数日の間、身元不明者としてモルグ(遺体安置所)にさみしく眠っていたといわれています。
近代建築の巨匠は、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてフランク・ロイド・ライト(これに、ワルター・グロピウスを含めることもある。)ということになっており、これに異論をはさむ人は少ないでしょう。
しかし、後世に与えた影響力の大きさという点では、ルイス・カーンもそれらの巨匠に引けを取らない、20世紀の建築家として最も重要な人物の一人といっていいでしょう。
ボザール流の教育を受けていただけに、近代建築というよりも、近代建築の素材と建築言語を使って、古典主義的なものを実現しようとした建築家といえるのかもしれません。
キンベル美術館は1972年竣工の作品ですが、1966年から計画が始まっており、7年の歳月を費やしています。
驚いたことに、入館料は無料でした。(ピアノ・パビリオンも含めて)
上の最終案に至るまでに、多くのスタディがなされています。光の採り入れ方も、入念に検討されています。
トップライトと光庭からの自然光だけで十分に明るい
カーンがこの美術館を設計した時も、配置や全体構成を含め、多くのスタディをした記録が残っています。
これらはすべて、最終案に至るまでのプロセスの図面や模型です。