先日、鶴岡市の致道博物館内に移築された、(国指定)重要文化財である、旧西田川郡役所を訪れました。

明治十三年(1880年)鶴岡市に住む大工棟梁・高橋兼吉(かねきち)によってつくられた(設計・施工とも)、いわゆる擬洋風建築です。

鶴岡市はかつて庄内藩の鶴ヶ岡城があった場所であり、この博物館の名称は庄内藩校「致道館」に由来しています。

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鶴岡市の位置

現在の鶴岡市は、2005年(平成17年)10月1日 、平成の大合併で鶴岡市(旧)、藤島町、羽黒町、櫛引町、朝日村、温海町が合併し、改めて発足したものです。市の面積は東北最大で、全国でも第七位。人口は県庁所在地の山形市に次いで、県第二位の約13万人。郊外には庄内米やだだちゃ豆の農地が広がり、海の幸も豊富、食の都庄内のひとつの中心として注目されています。山形県内で建築物としては唯一の国宝、羽黒山五重塔、そして東北地方で唯一皇族(蜂子皇子)の墓がある、出羽三山神社も鶴岡市内にあります。

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羽黒山五重塔(国宝)
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出羽三山神社(三神合祭殿)

以前、古民家再生事例としてご紹介した「農家レストラン 菜ぁ」「古民家カフェ 藤の家」金沢屋」「知憩軒」も鶴岡市内にあります。

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博物館の受付前より、西田川郡役所を見る。受付に併設されているのは、地産地消の新しいビジネスモデルを切り開いたといわれるイタリアン・シェフ奥田政行がプロデュースした「Zupperia 荘内藩しるけっちぁーの」。「汁」をテーマにした食堂。「汁を知ることで始まる庄内の食」というキャッチフレーズ。奥田氏の営むリストランテ、アル・ケッチァーノも鶴岡市内にある。

致道博物館は、この四月より私が山形市からほぼ毎週通っている東北公益文科大学の、鶴岡キャンパス(大学院)の斜向かいにあります。(大学(学部)は酒田にあります。)

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東北公益文科大学・大学院

 

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この致道博物館には、旧西田川郡役所のほか、同じく敷地内に移築された擬洋風建築である旧鶴岡警察署庁舎、田麦俣(庄内地方東南端)の民家(旧渋谷家住宅)の、計三件の国指定重要文化財がある。

このほかにも、国指定名勝の酒井氏(庄内藩主)庭園や、旧庄内藩主御隠殿など、見ごたえのある庭や建物があります。

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鶴岡城下絵図 延宝期(1673~81)に描かれたものと思われる。通常は「御家中」と呼ばれる上級武士の屋敷しか描かれていないが、同図には下級武士の居所が記されている。(灰色の「御給人」の部分) 別冊太陽 『藤沢周平』より

致道博物館は、上の絵図の、お城の西側、御用屋敷跡にあります。

鶴岡は、庄内平野のやや南に位置する城下町で、最上義光により1601(慶長6)年に最初に町割りされました。その後、徳川四天王の一人として知られる酒井忠次の孫の忠勝が、東北の押さえとして1622(元和8)年に入城し、現在の城下町の形態を完成させました、酒井氏による城下町建設は30年以上を要したといわれ、以来明治維新まで平和な治世が続きました。作家・藤沢周平の小説に、その舞台としてしばしば登場する「海坂(うなさか)藩」は、ここ鶴岡(庄内藩)がモデルになっています。

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藤沢周平の小説の舞台と推測される場所をプロットした地図。②が藤沢生誕の地。(別冊太陽『藤沢周平』より)

 

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鶴岡公園から西田川郡役所を望む(鶴岡市観光連盟HPより)

近現代の鶴岡は大規模な都市改造をせず、城下町の基盤の上に漸進的に都市づくりを進めてきました。廃藩置県とともに城郭は公園に指定されました。それが鶴岡公園であり、明治10年には、本丸に旧藩主を追慕して、庄内一円のひとびとによって、荘内神社が創建されました。江戸後期から明治初期に流行した藩祖を祀った神社の一つです。

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荘内神社(鶴岡市観光連盟HPより)
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鶴岡は東に月山、北に鳥海山を望む、日本海沿いの庄内平野に位置する。

旧城郭の外側に鉄道が敷設されたことで、城下町の基盤はほとんど壊されることなく、太平洋戦争の戦災もほとんど受けなかったため、城下町の面影が残されています。歴史的な街並みが積極的に保存されてきたとは言いがたいですが、歴史的に価値があると認められた古い建物が、ところどころに残っており、まちづくりの資源になっています。

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鶴岡の街の変遷。近代化されても都市の骨格は江戸時代から変わらずに残されている。(上の四点の図版は『図説城下町都市』(佐藤滋+城下町都市研究体)より)
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鶴岡市では、国の経済新生対策(1999年11月閣議決定)に位置付けられた「歩いて暮らせるまちづくり」を推進するためのモデルプロジェクトの採択を受けて「あるくら構想(歩いて暮らせる街づくり構想)」が進められた。「あるくら構想」が育んだ行政と市民による協働まちづくりの環境は、構想の策定から十数年たった現在、さまざまな市民まちづくり組織や企業、大学、行政の連携による事業として実現し、さまざまな顔の見える人脈が構築されているという。(出典:同上)

 

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旧西田川郡役所は昭和44年に重要文化財に指定されている。鶴岡市の大工棟梁、高橋兼吉と石井竹次郎が、明治13年6月に初代山形県令・三島通庸の命により着工したとある。14年5月に竣工し、その秋、明治天皇東北御巡幸の折りには行在所(宿舎)にあてられたという。
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明治天皇御巡幸時の絵葉書 『絵葉書が伝えるスペシャルコレクション南庄内鶴岡写真集』三上重義著より
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現在の旧西田川郡役所 明治14(1881)年 地元鶴岡の棟梁・高橋兼吉作。重要文化財。
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時計台がなくなっていた時期もあるようだ。自然災害(台風など)によるものだろうか?(出典:同上)
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かつてはこのような通りに面していた。 一軒はさんで向こうにも似たような様式の建物がみえる。この通りは官庁街だろうから、擬洋風の下見板張り木造建築で統一されていたのだろうか?(出典:同上)
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一方、西田川郡の議事堂(現存せず)は、下見板張りでも、パッと見、擬洋風とはわかりにくい形状。棟飾りや、窓、軒飾りなどを見ると、洋風を意識していることが見て取れる。(出典:同上)

幕末から明治維新にかけて、西洋から、ウォートルスなどの建築技術者がやってきて、洋式工場などをつくりました。1877(明治10)年、イギリス・ロンドンから、24歳の青年建築家ジョサイア・コンドルがやってきて、工部大学校教授として、造家学科第一期生、辰野金吾片山東熊(とうくま)などに建築家教育を行います。

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ジョサイア・コンドル
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辰野金吾
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片山東熊

これが日本人に対する初めての建築家教育ですが、それ以前、明治維新からしばらくの間は、文明開化をもっともわかりやすい形で庶民に体感させる目的で、役場、学校、病院等を洋風建築として建てようとした新政府の求めに応じて、全国各地の大工棟梁が、基本的には石造でつくられてきた西洋の建築を模して、それらを木造でつくろうと苦心しました。その一つが、この西田川郡役所です。

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日本近代建築系統図(『日本の近代建築』(藤森照信著)より)

この旧西田川郡役所は上の系統図で、黄色に塗った「擬洋風下見板系」に属します。水色に塗られた「明治の歴史主義・イギリス系」に、イギリスからやってきたコンドル先生に学んだ工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科のもと)第一期生、辰野金吾が設計した、東京駅や日本銀行本店が含まれていることを考えると、文明開化間もないころ、日本人建築家が存在しない時代に、大工棟梁が見よう見まねでつくったものだという時代背景がよくわかるでしょう。(片山東熊はフランス派に属し、赤坂離宮(現・迎賓館)などを手がけた)

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東京駅 1914(大正3)年 辰野金吾、東京
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赤坂離宮 1909(明治42)年 片山東熊、東京

「高橋兼吉は町大工であったが、1876(明治9)年、32歳の時、旧藩主酒井家のお抱え棟梁の地位を襲い、同家の邸宅を建てている。旧城下筆頭の大工として認められたわけである。この酒井家邸宅のほか、兼吉は多くの社寺建築を手がけている。和洋の建築をほとんど同時にこなしているのである。明治9年朝暘学校の竣工した年には、鶴岡城址の荘内神社、明治15年、西田川郡役所の翌年には鶴岡清水深山神社、続いて16年には湯田川の由豆佐売神社、鶴岡警察署をはさんで18年には、鶴岡郊外の下川善宝寺五重塔を起工するといった具合である。

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高橋兼吉(1845~1894)

 

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善宝寺五重塔(善宝寺公式HPより) 明治26年、高橋兼吉、晩年の作。

善宝寺五重塔は8年を要して明治26年に竣工したが、兼吉はその翌年、50歳で病没している。兼吉にとって、生涯の代表作はこの五重塔といってよいであろう。といって、洋風建築が片手間の仕事であったわけではない。開智学校の立石清重と同じように、当地に初めて建てられる洋風建築に起用されるのは、卓抜した技倆を認められてのことであり、栄誉であった。しかも兼吉には早くから洋風建築に目をむける明識があった。」(『日本の建築[明治大正昭和]1開化のかたち』越野武著より)

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「兼吉は、明治初年頃横浜に出て、洋風建築を学んできたと伝えられている。二十歳を過ぎたばかりの時である。致道博物館に、兼吉の遺品が展示されているが、烏口、コンパス、分度器など、すっかり使い込まれた製図道具一式とともに、『西洋家作雛形』-明治5年初版-四巻が並べられている。これは西洋建築書の邦訳刊本として最も早いものである。独学ながら、兼吉なりに体系的な研鑽を心がけていたということがうかがえよう。」(同上)

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高橋兼吉旧蔵西洋家作雛形  明治5年に刊行された最初期の西洋建築書。製図道具も使い込まれており、地方の都市にあって、新しい建築を学ぶべく努力していた棟梁の姿がしのばれる。

 

「鶴岡最初の洋風建築は、1876(明治9)年の朝暘学校であった。この期の小学校としてずば抜けた規模の大きな、堂々たる建築であった。ただ、兼吉はこの工事には直接携わらなかったようである。3年後の明治12年に起工された東田川郡清川学校、その翌年の西田川郡役所が、兼吉の初めての洋風建築であった。この時も兼吉は再三上京して洋風建築を研究したという。『西洋家作雛形』もこの時もとめたのかもしれない。」(同上)

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東田川郡清川学校(設計=高橋兼吉 竣工=明治13年)

「もっとも、この建築(西田川郡庁舎)には山形県下郡役所庁舎に共通の標準設計に類するものが参照されたであろう。すでに述べたように、山形県では、県令三島通庸の指導の下に、明治10年頃から県庁、郡役所などの洋風庁舎をさかんに建てていた。あるいは兼吉が県下郡庁舎の先例に倣ったのかもしれない。中央部分を二階建てとし、さらに重層の塔屋―最上階は時計塔―をのせる形は、例えば天童の東村山郡役所-明治12年―によく似ているからである。」(同上)

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東村山郡役所(明治12年竣工、天童市。山形県有形文化財)
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鶴岡警察署大山分署(現安良町公民館:設計=高橋兼吉 竣工=明治18年)

「この中央がそびえるようなスタイルは、鶴岡警察署にもひき継がれている。バルコニーや妻の装飾彫刻は警察署の方が一段とはなやかである。兼吉は、いっそう自在に意匠の腕をふるえるようになったのであろう。その後も兼吉の洋風建築は数多く、再建朝暘学校(明治17年)鶴岡裁判所(同18年)、鶴岡警察署大山分署(同18年)、東田川郡役所(同20年)、同郡会議事堂(同21年)などを手掛けている。」(同上)

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旧東田川郡会議事堂(明治21年) 1月27日撮影 以前「日記」でご紹介した「古民家カフェ藤の家」のすぐ近くにある。
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東田川郡会議事堂ファサード 木造コロニアルスタイルの建築で外国人技師が建てた模倣であり、いくつかの類型を模した擬洋風建築である。1階内部は長押付和風、2階は洋風である。外観の切妻と玄関の妻飾りはゴシック風でこれより古い師範学校の妻飾りと似ている。小屋組は、洋小屋切妻造りで、敷桁に陸梁を渡し、真束をたて洋式合掌を組み、母屋を渡し垂木をかけていて、合掌尻は軒天井とし垂木の鼻隠し及び妻飾りは玄関と同じバロック的飾りをつけている。
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1階から2階に上る階段。1階は和風。
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同二階内部 このホールが議場だったのだろう。 意外と内装は質素である。
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同ディテール バロック的飾り
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旧東田川郡役所 1878(明治11)年、郡区町村編成法により藤島に郡役所が置かれた。堂々たる洋館庁舎であったが1886(明治19)年4月18日火災で焼失、1887(明治20)年5月再建したのが現在の建物で、当時の名工「高橋兼吉とその子巖太郎」の設計監督といわれ、外観および内部は純和風手法で統一されているが、床張り、回廊に洋風を取り入れている。中庭の四周に建物をロの字型に配し、前面中央に玄関、背面中央に郡長室を突出させた左右対称形の建築である。

 

さて、本題の西田川郡庁舎に戻ります。創建当初は市内馬場町に南向きに偉容を誇っていたが、長く保存するためにこの地に移築されたとのことです。現在は西向きになっています。附属建物として議事堂と用務員室があったらしいですが、移築時に撤去されてしまったようです。(材が保管されているのかは不明)

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玄関ポーチ かつて明治天皇もくぐられたという庇
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屋根には赤褐色の瓦が載っている。

「軒・破風―簡明な日本建築の軒と異なって、華やかに飾られた洋風建築の軒も人々の目をひいた。ここでも和風の懸魚や雲形装飾が混淆するのはいうまでもない。軒飾りには、大きく二つの系統があった。ひとつは古典主義建築の軒蛇腹(コーニス)である。水平の繰形、歯形装飾(デンテイル)、持送(ブラケット)などが、適当に組み合わされ、省略して用いられた。歯形装飾は繁棰端の印象に重なったのであろう。山形県の官庁建築では標準的な手法であった。簡略な水平繰形だけの蛇腹は、特に広く流布した。しっくい塗でつくられる時には、土蔵軒の繰形と見分けがつかない。」(『日本の建築[明治大正昭和]1開化のかたち』越野武著より)

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窓と軒のディテール

「窓・扉-『明治事物起原』に、文久頃、横浜を見物しての画中書き込みが紹介されている。「異国の屋敷 すべてしろいぬり……窗(まど)ひらく、皆ぎやまん窗…」 はじめて目にうつる洋館の印象は、まず白ペンキとガラス窓であった。ガラスは、まだ衆庶の手から遠く、高貴なギヤマン、ビイドロであった。異国へのあこがれに重ねて、やがて、風をさえぎり、光を入れるガラス窓の利便が理解されていく。ひろびろと障子を開け放つ日本の建築にとって、堅固な窓と壁は、唐様の花頭窓の如く、もともと異国風であった。窓は、洋風建築を習いおぼえる第一歩であった。」(同上)

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時計塔

「塔-寺の塔、城の天守は別として、日本のまちは平べったくつくられてきた。維新のシンボル、開化のシンボルとして、塔が受け入れられ、まちのスカイラインに加わった。人々は、素朴に高さを喜び、高さを競った。(中略)塔の意匠には、城や物見の櫓、支那風の楼閣までが援用された。役場や学校の中央に、高々とたちあげられた塔は、多く時計塔であった。(中略)教会の天空の象徴であるより、時を刻み、人々に告げる塔が好まれ、流行したのは、暗示的である。時計台は、近世市民社会の生み出したものである。物めずらしく、珍奇な建築の意匠として、素朴に受け入れられたにしても、やはり新しい時代の到来を、近代の象徴で飾ることにはなったのである。」(同上)

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バルコニーと柱頭のディテール 次の写真の棟飾りと似た形の装飾がバルコニーにも用いられている。

「柱頭―新しい建築の構法や、様式の概要は、図版や説明で何とか伝えることができる。しかし様式の細部、装飾、彫刻はそうはいかない。実際の建築にあたって、職人の手から手へ伝えるほかないであろう。伝え難い条件に加えて、装飾細部にこめる職人の個性や、伝統の力のひときわ強いのも常である。そのはざまに、独創的な、あるいは珍奇な装飾が生みだされた。函館博物場や見つけ学校のぎこちない柱頭彫刻、まだ硬さのぬけきらぬ群馬県衛生所の柱頭彫刻、(略)は習得の第一歩である。」(ここまでのカギカッコ内『日本の建築[明治大正昭和]1開化のかたち』越野武著より)

西田川郡役所の柱頭も、ぎこちなさを隠せないもので、見よう見まねで大工の棟梁が苦心したあとが感じられる。

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軒飾りは、擬宝珠の先をとがらせたような意匠。和風か洋風か微妙なデザイン。

「道路をつくることに熱心だった官僚に三島通庸がいる。土地県令(原文ノママ:土木県令?)とも呼ばれる彼は山形県、福島県で新道を開削し、地域の振興を計るとともに、その工事を画家の高橋由一に描かせたり、写真家の菊池東陽に山形県庁前の大通りを撮影させたりした。そこには明治の時代には珍しい、社会基盤整備による地域の近代化の姿勢が見られたが、同時にその強引な建設工事の進め方は地元の反発を招くものだった。彼の施策には、地域振興の裏に反政府派の民衆運動を圧殺する意図も込められていたからである。」(『都市へ』鈴木博之著より)

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三島通庸 旧薩摩藩士 酒田県令に着任したのち、これを鶴岡県とあらため、鶴岡、置賜、山形の三県を統一した山形県の初代県令となる。その後、福島県令、栃木県令を歴任し、第五代警視総監在任中に死去。戦前の県知事は公選ではなく、警視総監等とともに、内務官僚の重要ポストであった。
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2階のみ軒樋がついているが、あとからつけられたものだろうか?

「国土の建設はあくまでも国の側からの建設であり、地元の側からの開発ではなかった。土木工事が富国強兵の一環としてなされる限り、そこには強権的な開発が起きる。三島通庸の施策には、明治期の国土建設の性急さと、本末転倒した地域振興の姿勢がどうしても浮かび上がってくる。道路の建設が地元への利益誘導となるのは当然だが、それを国家の目で行うときの問題点が、三島の業績に深く染みついている。これは戦後、おなじような道路建設が、地元への利益誘導のみを考えて行われるようになってしまうことと、表裏の関係をなしている。」(同上)

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柱脚、階段、鋳鉄製の床下通気口

「土木県令として言及した三島通庸は、同時に建築に対しても強い情熱をもっていた。彼は薩摩閥に属し、1874(明治7)年に酒田県令、1876年に山形県令、1882年に福島県令となり、奥羽越列藩同盟を組んで官軍に抵抗した地域を総なめするような地方官としてのキャリアを残し、さらには1883年には栃木県令となった。(中略)各地の人々の耳目を集める存在だった明治の西洋建築は、三島通庸が見抜いていた通り、たしかに文明開化を印象づけるもっとも効果的な装置であった。郡役所、警察署、学校などは、それぞれの機能を果たす施設であると同時に、あるいはそれ以上に、そうした施設の重要性を人々に知らせるためのものであった。」(同上)

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内部は郷土の歴史や文明開化に関する展示室となっている。(内部は許可を得て撮影しています)

「それらは文明開化の殿堂、いわば地方欧化政策の象徴であり、地方の鹿鳴館なのだった。(中略)明治の地方洋館の多くが、天皇や皇后、皇太子の行幸、行啓の際の休憩所や宿泊所に用いられたり、、そうした機会に建設されたりしていることも、西洋建築がそれぞれの地方でどのような役割を果たすべきものものと期待されていたかを教えてくれる事実である。」(同上)

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鹿鳴館(明治16年、東京。設計=ジョサイア・コンドル)

 

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手漕ぎ放水(消防)車や電話器

「はじめての西洋建築には、今からは想像できないほど、多様な意味が込められていた。それらは公会堂であったり、郡役所、警察、学校であることを超えて、文明開化そのものであった。各地のひとびとがそう感じたのは、彼らが愚民だったからではなく、むしろ逆に建物を通じて文明開化に参加していくという意識をもっていたからである。」(ここまでのカギカッコ内『都市へ』鈴木博之著より)

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内部階段。何気なくのぼっていったが、直階段から、アール(曲面)壁にそって折れ曲がるように、江戸時代にはあまり見られなかったであろう、凝ったつくりになっている。上述の東田川郡会議事堂は8年後に兼吉が建てたといわれる建物だが、階段の折れ曲がりの処理の仕方がやはり似ている。兼吉の個性か、当時の流行なのかはわからないが。

「擬洋風は漆喰系をピークとするが、しかしそこで終わったわけではない。各地に残る擬洋風の中には、木骨石造系とも漆喰系ともちがうもう一つの系統が混じっている。例えば積み木を積み上げたような山形県の済生館(明治12年)やピラミッド状プロポーションの西田川郡役所(明治13年・高橋兼吉)(中略)など、形の奇妙さは明らかに擬洋風でありながら、漆喰の代りに下見板を張ってペンキで仕上げている。しかし、北海道の下見板コロニアルのようにアメリカンではない。これを”下見板擬洋風”と呼ぶ。

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札幌農学校演武場(時計台:明治11年。重要文化財 写真は日本の建築[明治大正昭和]より) 北海道のアメリカンな下見板コロニアルとはこのようなものを指すのだろう。札幌農学校では、建築が専門ではなかったものの、アメリカ人教師が、19世紀アメリカの木造建築技法を教え、開拓使の建築にも影響を与えた。移民の国アメリカの建築は開拓地北海道にうってつけであった。この演武場にも、土木教師ホイーラーが積極的にかかわっており、アメリカ風軸組のバルーン・フレーム構造が用いられているという。

擬洋風の掉尾を飾るこのスタイルは、東京と山形の二ケ所で、明治7年(工部省庁舎)と9年(朝暘学校)の最初に姿を現わす。時期は遅れるけれど、質と量からみると山形県の方がはるかに充実しており、下見板系擬洋風のの震源は明治9年の山形県であったと考えられる。」(『日本の近代建築(上)-幕末・明治編』 藤森照信著より)

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鶴岡朝暘学校(設計=原口祐之、高橋権吉、竣工=明治9年) 初期の洋風小学校としては規模の大きな建築である。山形済生館の(註:2年後の明治11年にこれを手掛けることになる)原口祐之が関わり、同姓異人の高橋権吉が棟梁をつとめた。当時高橋兼吉は隣接の荘内神社造営にたずさわっていたが、資材流用の記録もあって、親しく工事を見ていたはずである。(既出の越野武の著作より。藤森照信は、原口は実務を担当した技術者とし、三島通庸自身が意匠設計に深く関わっていたという説を唱えている。)

「明治9年、山形県-当時酒田県-の日本海側の城下町鶴岡に朝暘学校が出現する。大きい図体のふてぶてしい印象の建物で、擬洋風小学校としては(中略)日本最大の規模を誇った。(中略)以後、山形県では、下見板系擬洋風の建設が組織的に推進され、県庁舎(明治10年)、師範学校(同11年)、済生館(同11年)と大作三つが相次ぎ、さらに郡部にも広がり、今も残る例でいえば、西田川郡庁舎(同12年)、鶴岡警察署(同17年)などが生まれる。(中略)済生館のつくられた明治10年前後は全国的には漆喰系擬洋風の黄金時代というのに、どうして山形では下見板が先駆的に擬洋風に取り込まれたのだろうか。

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同じ高橋兼吉による旧鶴岡警察署庁舎(重要文化財)の致道博物館内にあるが、現在修復工事中。

口火を切った鶴岡の地が、ちょうどその頃、北海道と格別な関係でつながっていたからと考えられる。酒田港を外港に持つ鶴岡は、北前航路によって江戸期から北海道と深く結びついていたうえに、明治に入ってから、いっそう交流を深める出来事が起こった。鶴岡は、明治の農業開拓では先進の地で、、明治5年の旧鶴岡藩士による松ヶ岡開墾が着手され、成功を納める。これを知った北海道開拓使長官黒田清隆は、模範を示してもらうために招聘し(明治8年)開拓団は札幌で汗を流した。」(既出の藤森照信の著作『日本の近代建築』(上)より)

黒田清隆も三島通庸と同じ、旧薩摩藩士です。

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2016年9月12日、天皇皇后両陛下が松ヶ岡開墾場を視察されました。(→TBSニュース
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鶴岡市内の松ヶ岡開墾場(国指定史跡) 戊辰戦争で官軍に抵抗した庄内藩に対し、厳罰を求める官軍内部の勢力をおさえ、西郷隆盛が処罰せず養蚕業の振興など寛大な措置をとったことは有名である。その養蚕業の一つの拠点がこの松ケ岡である。その影響か、松ヶ岡地区では今でもほとんどの家庭に西郷隆盛の肖像が飾られているらしい。
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西郷隆盛の肖像画 弟や従弟の顔を参考にキヨッソーネが想像で描いたものだが、親類の考証も得ているという。写真は存在しない。

西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたためたのが「南洲翁遺訓」(庄内藩の関係者が西郷隆盛から聞いた話をまとめた遺訓集)である。(明治23年刊)平和裏に戊辰戦争を終結させてもらった大恩人・西郷隆盛に対する庄内人の律儀さを示す逸話として今も語り継がれているという。

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開拓使本庁舎(明治6年・開拓使工業局)  前掲書『日本の建築[明治大正昭和]』より。下の図も同じ。

「(鶴岡の開拓団が札幌で汗を流した)場所は開拓使本庁舎のすぐ裏手だから、毎日のように下見板西洋館の記念作を眺めたことになる。(中略)明治8年に札幌と鶴岡の間で開拓についての技術交流があり、その翌年の春に下見板第一号の朝暘学校の工事がスタートするのである。寒冷地での簡便な西洋館の作り方として発達した下見板の技法が、開拓技術の交流の一齣として札幌から鶴岡に伝えられた、と考えていいだろう。」(同上)

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開拓使本庁舎の原設計は石造で考えられていたが、原形を変えずに、木造に変更された。

「こうした動きのバックにはいつも県令の三島通庸が控えていた。明治7年三島を県令として山形―当時酒田県に送ったのは内務卿大久保利通で、そのころの庄内地方に起こっていた一揆を鎮圧し、維新このかた新時代に立ち遅れて反政府の空気の漂う東北地方の一画に風穴を開けるためだった。三島は薩摩出身の維新の志士の一人だが、明治維新の後すぐ中央には上がらず、薩摩に隣り合いながらきわめて反薩摩の気風の強い都城に「地頭」として派遣され見事に治めた経歴を持ち、その後は中央に上って東京府の参事-副知事-を勤めているが、こうした地方を治める腕を買われたのだろう。」(同上)

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西田川郡庁舎 2階 現在は文明開化関連の展示室となっている。

「酒田にやってきた三島は持ち前の敏腕で直ちに一揆を鎮めて大久保の期待に応えた後、酒田県を鶴岡県と改称し、県庁を鶴岡に移した。ちょうどそこに札幌に招かれていた松ヶ岡の開墾団が帰ってくる。そして、マイナスを除いた後の最初のプラスの事業として、旧鶴岡城の土手と石垣を崩して濠を埋め、その上に下見板張りの朝暘学校を建てたのだった。完成とほぼ同時に、鶴岡県は廃され、鶴岡、山形、置賜の三県が合併して今日いうところの山形県が生まれ(明治9年)、三島は鶴岡から山形へと本拠を移してより広い場で存分に腕を振るうこととなる。(中略)文明開化政策は、鶴岡での朝暘学校の成功にならい、すでに述べたように学校、病院、県庁、郡庁舎、警察などの新しい機能の建物を洋風建築で作ることで通して行われている。(中略)

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山形県師範学校(明治11年、山形市)

これほどの成果を残す山形の下見板系擬洋風だが、肝心の設計者がいまだ明らかにならない。県庁、済生館、師範学校いずれの記念的大作も、誰が奇抜なデザインを考えたのか分からない。西田川郡庁舎や鶴岡警察署などの県直営ではない建物については設計と施工を手がけた棟梁の名が残されているのに、三島が力を傾けた工事にかぎってデザイナーの名は現れない。(中略)

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済生館(明治12年、山形市) 1月16日の日記で詳しく取り上げています。

肝心のデザインを誰が決めたのか記録されなかったのは、当時の関係者にとってあまりに自明でわざわざ記すまでもなかったからではないだろうか。おそらく三島が決めていたのだ。彼の建築好きは明治の指導者の中では群を抜いていて、山形での第一作の朝暘学校の図面は巻物に仕立てられて三島家に長く伝えられているし、のちの警視総監時代には殉職警官を祀る「弥生社」の設計を自ら手がけたことが明らかになっている。(中略)

擬洋風の建築と都市を残して、三島通庸の山形時代は明治15年に終わる。」(同上)

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内部は窓枠や廻縁等の洋風の意匠が見られるものの、シャンデリア、階段を除けば、質素ともいえる。東田川郡役所の内装にも共通した特徴のように思える。人々に、文明開化を知らしめる広告塔という役割が重視されたのなら、内部にはそれほど力を入れなくてもよかったのかもしれない。

「役所や学校をわざわざ洋風によそおうのは実用性が少ないうえに、出費ばかりかさむ。(中略)都市と建築を洋風で表現したい、という欲望の根にあるのはもちろん人間の表現本能で、井上(馨)や三島も個人資質としてその傾向が強かったのだが、もう一つ政策的な計算はしていたものと思われる。

三島が山形ではじめて建てた朝暘学校の記念碑には次のように刻まれている。

「朝暘学校は山形県の学なり。今県令三島君始めて任に莅(のぞ)むや、士明樸陋(ぼくろう)に安んずるを観て、以謂(おも)へらく、唯だ学のみ以て之を変通すべしと。而(しか)れども黌舎(こうしゃ)そうだいならずんば即ち亦以て衆に示す無し」

江戸時代の影響が全てにしみ渡っている山形県を変えるには学校教育を変えるのが一番だが、そのためには費用を投じて壮大な洋風校舎を建てなければならないというのである。

江戸時代から明治時代への変化を建築史的にみると、時代の中心となる建物の種類が一変していて、江戸時代の城下町や門前町の景観を支配していたのは城郭と社寺だったが、明治時代になると、まず官庁と学校に資金と技術が注がれ、都市の中で一番目立つようになる。この全国の都市に見られた変化を象徴的に実行したのが山形の三島通庸で、旧鶴岡城の石垣と土手を壊して濠を埋め立て、そこに朝暘学校を建てたのだった。」(同上)

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塔屋へと上る階段。

「壊した城の上に学校を建てても、もし表現が変わらずに伝統建築で作られたなら、それまでの藩校と同じように受け取られる恐れがあるが、三島は政治家として、中身と器の関係について終生変わらぬ考えを持っていた。「衆に示す」ためには中身の変革だけではだめで誰の目にも分かる器に変えないといけない、と。人間がつくる器の中で一番大きいのが都市や建築だとすると、三島がその洋風化に邁進したのは、かならずしも的はずれとはいえないだろう。都市や建築というのは、絵や文字の表現と違い、目をそらしても向こうから飛び込んでくるだけに、「衆」の気分に与える影響はきわめて大きいのである。」(ここまでのカギカッコ内『日本の近代建築(上)-幕末・明治編』 藤森照信著より)

鶴岡藩士が恩人と慕っていた西郷隆盛と同じ薩摩出身の、三島通庸だったからこそ、その治世を受け入れ、城の濠や石垣を壊されても文句が出ずに、洋風建築も開化のシンボルとして割と抵抗なく受け入れられたのかもしれませんね。そして鶴岡での実績を引っ提げて、ほぼ現在のかたちに統一された山形県の県都・山形市に初代県令として赴任し、洋風建築を象徴的に用いた都市づくりに乗り出し、成功したといえるでしょう。それが現在の山形市街の骨格をなしています。その時に、三島が日本近代絵画の祖・高橋由一に描かせたのが「山形市街図」です。

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旧山形県庁(二代目)文翔館に飾られた高橋由一の「山形市街図」(レプリカ) 1月6日の日記で詳しく取り上げています。

山形県令となった三島は新時代に立ち遅れた山形県の経済を再生させるために、まず交通体系の整備に取り掛かり、山形県と周囲の、秋田、宮城、福島県を繋ぐ新しい道路を開くなどの功績も残しました。その時に三島自ら双肌ぬいで櫓の上に立って太鼓を鳴らし、その合図に従って、人夫が作業を繰り返したという逸話を聞くと、地域の近代化にかける思いは私心のないものだったのだろうと感じます。

西田川郡役所は、三島通庸が生涯にわたって貫いた、建築によって文明開化を民に知らしめるという思想を土台にして生まれたものでありながら、山形市に残されている済生館や師範学校が、三島自身、デザインに深く関わっていたのだろうと推測されるのと異なり、鶴岡出身の高橋兼吉という一人の大工棟梁が、若いころから東京と鶴岡を行き来しながらほぼ独学で西洋建築を学び、従来の日本建築の仕事と併行しながらも、片手間ではなく情熱を傾けてつくりあげた、明治初期のものづくりのひとつの結晶だということがわかりました。

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建築の、常に政治的に利用されているのかもしれないという側面も十分理解したうえでも、三島通庸が起こしたうねりが生んだ、鶴岡市、山形市などに残る擬洋風建築は、地域の歴史を物語るものとして、これからも大切に保存していかねばならないでしょう。

このようなことを考えるきっかけを与えてくれたのも、文字や写真、記憶の中だけでなく、実体として物理的に残り、後世に文化を伝えることができるという、建築の特性によるものなのですから。

今回、西田川郡役所をきっかけにいろいろと調べることで、鶴岡がとても魅力あるまちであることがあらためてわかりました。

隣接する湊町である酒田、そして周辺町村も含めて、庄内地方を巡り、その素晴らしさをまたご紹介できたらいいなと思います。