先日、鶴岡市の致道博物館内に移築された、(国指定)重要文化財である、旧西田川郡役所を訪れました。
明治十三年(1880年)鶴岡市に住む大工棟梁・高橋兼吉(かねきち)によってつくられた(設計・施工とも)、いわゆる擬洋風建築です。
鶴岡市はかつて庄内藩の鶴ヶ岡城があった場所であり、この博物館の名称は庄内藩校「致道館」に由来しています。
現在の鶴岡市は、2005年(平成17年)10月1日 、平成の大合併で鶴岡市(旧)、藤島町、羽黒町、櫛引町、朝日村、温海町が合併し、改めて発足したものです。市の面積は東北最大で、全国でも第七位。人口は県庁所在地の山形市に次いで、県第二位の約13万人。郊外には庄内米やだだちゃ豆の農地が広がり、海の幸も豊富、食の都庄内のひとつの中心として注目されています。山形県内で建築物としては唯一の国宝、羽黒山五重塔、そして東北地方で唯一皇族(蜂子皇子)の墓がある、出羽三山神社も鶴岡市内にあります。
以前、古民家再生事例としてご紹介した「農家レストラン 菜ぁ」「古民家カフェ 藤の家」「金沢屋」「知憩軒」も鶴岡市内にあります。
致道博物館は、この四月より私が山形市からほぼ毎週通っている東北公益文科大学の、鶴岡キャンパス(大学院)の斜向かいにあります。(大学(学部)は酒田にあります。)
このほかにも、国指定名勝の酒井氏(庄内藩主)庭園や、旧庄内藩主御隠殿など、見ごたえのある庭や建物があります。
致道博物館は、上の絵図の、お城の西側、御用屋敷跡にあります。
鶴岡は、庄内平野のやや南に位置する城下町で、最上義光により1601(慶長6)年に最初に町割りされました。その後、徳川四天王の一人として知られる酒井忠次の孫の忠勝が、東北の押さえとして1622(元和8)年に入城し、現在の城下町の形態を完成させました、酒井氏による城下町建設は30年以上を要したといわれ、以来明治維新まで平和な治世が続きました。作家・藤沢周平の小説に、その舞台としてしばしば登場する「海坂(うなさか)藩」は、ここ鶴岡(庄内藩)がモデルになっています。
近現代の鶴岡は大規模な都市改造をせず、城下町の基盤の上に漸進的に都市づくりを進めてきました。廃藩置県とともに城郭は公園に指定されました。それが鶴岡公園であり、明治10年には、本丸に旧藩主を追慕して、庄内一円のひとびとによって、荘内神社が創建されました。江戸後期から明治初期に流行した藩祖を祀った神社の一つです。
旧城郭の外側に鉄道が敷設されたことで、城下町の基盤はほとんど壊されることなく、太平洋戦争の戦災もほとんど受けなかったため、城下町の面影が残されています。歴史的な街並みが積極的に保存されてきたとは言いがたいですが、歴史的に価値があると認められた古い建物が、ところどころに残っており、まちづくりの資源になっています。
幕末から明治維新にかけて、西洋から、ウォートルスなどの建築技術者がやってきて、洋式工場などをつくりました。1877(明治10)年、イギリス・ロンドンから、24歳の青年建築家ジョサイア・コンドルがやってきて、工部大学校教授として、造家学科第一期生、辰野金吾、片山東熊(とうくま)などに建築家教育を行います。
これが日本人に対する初めての建築家教育ですが、それ以前、明治維新からしばらくの間は、文明開化をもっともわかりやすい形で庶民に体感させる目的で、役場、学校、病院等を洋風建築として建てようとした新政府の求めに応じて、全国各地の大工棟梁が、基本的には石造でつくられてきた西洋の建築を模して、それらを木造でつくろうと苦心しました。その一つが、この西田川郡役所です。
この旧西田川郡役所は上の系統図で、黄色に塗った「擬洋風下見板系」に属します。水色に塗られた「明治の歴史主義・イギリス系」に、イギリスからやってきたコンドル先生に学んだ工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科のもと)第一期生、辰野金吾が設計した、東京駅や日本銀行本店が含まれていることを考えると、文明開化間もないころ、日本人建築家が存在しない時代に、大工棟梁が見よう見まねでつくったものだという時代背景がよくわかるでしょう。(片山東熊はフランス派に属し、赤坂離宮(現・迎賓館)などを手がけた)
「高橋兼吉は町大工であったが、1876(明治9)年、32歳の時、旧藩主酒井家のお抱え棟梁の地位を襲い、同家の邸宅を建てている。旧城下筆頭の大工として認められたわけである。この酒井家邸宅のほか、兼吉は多くの社寺建築を手がけている。和洋の建築をほとんど同時にこなしているのである。明治9年朝暘学校の竣工した年には、鶴岡城址の荘内神社、明治15年、西田川郡役所の翌年には鶴岡清水深山神社、続いて16年には湯田川の由豆佐売神社、鶴岡警察署をはさんで18年には、鶴岡郊外の下川善宝寺五重塔を起工するといった具合である。
善宝寺五重塔は8年を要して明治26年に竣工したが、兼吉はその翌年、50歳で病没している。兼吉にとって、生涯の代表作はこの五重塔といってよいであろう。といって、洋風建築が片手間の仕事であったわけではない。開智学校の立石清重と同じように、当地に初めて建てられる洋風建築に起用されるのは、卓抜した技倆を認められてのことであり、栄誉であった。しかも兼吉には早くから洋風建築に目をむける明識があった。」(『日本の建築[明治大正昭和]1開化のかたち』越野武著より)
「兼吉は、明治初年頃横浜に出て、洋風建築を学んできたと伝えられている。二十歳を過ぎたばかりの時である。致道博物館に、兼吉の遺品が展示されているが、烏口、コンパス、分度器など、すっかり使い込まれた製図道具一式とともに、『西洋家作雛形』-明治5年初版-四巻が並べられている。これは西洋建築書の邦訳刊本として最も早いものである。独学ながら、兼吉なりに体系的な研鑽を心がけていたということがうかがえよう。」(同上)
「鶴岡最初の洋風建築は、1876(明治9)年の朝暘学校であった。この期の小学校としてずば抜けた規模の大きな、堂々たる建築であった。ただ、兼吉はこの工事には直接携わらなかったようである。3年後の明治12年に起工された東田川郡清川学校、その翌年の西田川郡役所が、兼吉の初めての洋風建築であった。この時も兼吉は再三上京して洋風建築を研究したという。『西洋家作雛形』もこの時もとめたのかもしれない。」(同上)
「もっとも、この建築(西田川郡庁舎)には山形県下郡役所庁舎に共通の標準設計に類するものが参照されたであろう。すでに述べたように、山形県では、県令三島通庸の指導の下に、明治10年頃から県庁、郡役所などの洋風庁舎をさかんに建てていた。あるいは兼吉が県下郡庁舎の先例に倣ったのかもしれない。中央部分を二階建てとし、さらに重層の塔屋―最上階は時計塔―をのせる形は、例えば天童の東村山郡役所-明治12年―によく似ているからである。」(同上)
「この中央がそびえるようなスタイルは、鶴岡警察署にもひき継がれている。バルコニーや妻の装飾彫刻は警察署の方が一段とはなやかである。兼吉は、いっそう自在に意匠の腕をふるえるようになったのであろう。その後も兼吉の洋風建築は数多く、再建朝暘学校(明治17年)鶴岡裁判所(同18年)、鶴岡警察署大山分署(同18年)、東田川郡役所(同20年)、同郡会議事堂(同21年)などを手掛けている。」(同上)
さて、本題の西田川郡庁舎に戻ります。創建当初は市内馬場町に南向きに偉容を誇っていたが、長く保存するためにこの地に移築されたとのことです。現在は西向きになっています。附属建物として議事堂と用務員室があったらしいですが、移築時に撤去されてしまったようです。(材が保管されているのかは不明)
「軒・破風―簡明な日本建築の軒と異なって、華やかに飾られた洋風建築の軒も人々の目をひいた。ここでも和風の懸魚や雲形装飾が混淆するのはいうまでもない。軒飾りには、大きく二つの系統があった。ひとつは古典主義建築の軒蛇腹(コーニス)である。水平の繰形、歯形装飾(デンテイル)、持送(ブラケット)などが、適当に組み合わされ、省略して用いられた。歯形装飾は繁棰端の印象に重なったのであろう。山形県の官庁建築では標準的な手法であった。簡略な水平繰形だけの蛇腹は、特に広く流布した。しっくい塗でつくられる時には、土蔵軒の繰形と見分けがつかない。」(『日本の建築[明治大正昭和]1開化のかたち』越野武著より)
「窓・扉-『明治事物起原』に、文久頃、横浜を見物しての画中書き込みが紹介されている。「異国の屋敷 すべてしろいぬり……窗(まど)ひらく、皆ぎやまん窗…」 はじめて目にうつる洋館の印象は、まず白ペンキとガラス窓であった。ガラスは、まだ衆庶の手から遠く、高貴なギヤマン、ビイドロであった。異国へのあこがれに重ねて、やがて、風をさえぎり、光を入れるガラス窓の利便が理解されていく。ひろびろと障子を開け放つ日本の建築にとって、堅固な窓と壁は、唐様の花頭窓の如く、もともと異国風であった。窓は、洋風建築を習いおぼえる第一歩であった。」(同上)
「塔-寺の塔、城の天守は別として、日本のまちは平べったくつくられてきた。維新のシンボル、開化のシンボルとして、塔が受け入れられ、まちのスカイラインに加わった。人々は、素朴に高さを喜び、高さを競った。(中略)塔の意匠には、城や物見の櫓、支那風の楼閣までが援用された。役場や学校の中央に、高々とたちあげられた塔は、多く時計塔であった。(中略)教会の天空の象徴であるより、時を刻み、人々に告げる塔が好まれ、流行したのは、暗示的である。時計台は、近世市民社会の生み出したものである。物めずらしく、珍奇な建築の意匠として、素朴に受け入れられたにしても、やはり新しい時代の到来を、近代の象徴で飾ることにはなったのである。」(同上)
「柱頭―新しい建築の構法や、様式の概要は、図版や説明で何とか伝えることができる。しかし様式の細部、装飾、彫刻はそうはいかない。実際の建築にあたって、職人の手から手へ伝えるほかないであろう。伝え難い条件に加えて、装飾細部にこめる職人の個性や、伝統の力のひときわ強いのも常である。そのはざまに、独創的な、あるいは珍奇な装飾が生みだされた。函館博物場や見つけ学校のぎこちない柱頭彫刻、まだ硬さのぬけきらぬ群馬県衛生所の柱頭彫刻、(略)は習得の第一歩である。」(ここまでのカギカッコ内『日本の建築[明治大正昭和]1開化のかたち』越野武著より)
西田川郡役所の柱頭も、ぎこちなさを隠せないもので、見よう見まねで大工の棟梁が苦心したあとが感じられる。
「道路をつくることに熱心だった官僚に三島通庸がいる。土地県令(原文ノママ:土木県令?)とも呼ばれる彼は山形県、福島県で新道を開削し、地域の振興を計るとともに、その工事を画家の高橋由一に描かせたり、写真家の菊池東陽に山形県庁前の大通りを撮影させたりした。そこには明治の時代には珍しい、社会基盤整備による地域の近代化の姿勢が見られたが、同時にその強引な建設工事の進め方は地元の反発を招くものだった。彼の施策には、地域振興の裏に反政府派の民衆運動を圧殺する意図も込められていたからである。」(『都市へ』鈴木博之著より)
「国土の建設はあくまでも国の側からの建設であり、地元の側からの開発ではなかった。土木工事が富国強兵の一環としてなされる限り、そこには強権的な開発が起きる。三島通庸の施策には、明治期の国土建設の性急さと、本末転倒した地域振興の姿勢がどうしても浮かび上がってくる。道路の建設が地元への利益誘導となるのは当然だが、それを国家の目で行うときの問題点が、三島の業績に深く染みついている。これは戦後、おなじような道路建設が、地元への利益誘導のみを考えて行われるようになってしまうことと、表裏の関係をなしている。」(同上)
「土木県令として言及した三島通庸は、同時に建築に対しても強い情熱をもっていた。彼は薩摩閥に属し、1874(明治7)年に酒田県令、1876年に山形県令、1882年に福島県令となり、奥羽越列藩同盟を組んで官軍に抵抗した地域を総なめするような地方官としてのキャリアを残し、さらには1883年には栃木県令となった。(中略)各地の人々の耳目を集める存在だった明治の西洋建築は、三島通庸が見抜いていた通り、たしかに文明開化を印象づけるもっとも効果的な装置であった。郡役所、警察署、学校などは、それぞれの機能を果たす施設であると同時に、あるいはそれ以上に、そうした施設の重要性を人々に知らせるためのものであった。」(同上)
「それらは文明開化の殿堂、いわば地方欧化政策の象徴であり、地方の鹿鳴館なのだった。(中略)明治の地方洋館の多くが、天皇や皇后、皇太子の行幸、行啓の際の休憩所や宿泊所に用いられたり、、そうした機会に建設されたりしていることも、西洋建築がそれぞれの地方でどのような役割を果たすべきものものと期待されていたかを教えてくれる事実である。」(同上)
「はじめての西洋建築には、今からは想像できないほど、多様な意味が込められていた。それらは公会堂であったり、郡役所、警察、学校であることを超えて、文明開化そのものであった。各地のひとびとがそう感じたのは、彼らが愚民だったからではなく、むしろ逆に建物を通じて文明開化に参加していくという意識をもっていたからである。」(ここまでのカギカッコ内『都市へ』鈴木博之著より)
「擬洋風は漆喰系をピークとするが、しかしそこで終わったわけではない。各地に残る擬洋風の中には、木骨石造系とも漆喰系ともちがうもう一つの系統が混じっている。例えば積み木を積み上げたような山形県の済生館(明治12年)やピラミッド状プロポーションの西田川郡役所(明治13年・高橋兼吉)(中略)など、形の奇妙さは明らかに擬洋風でありながら、漆喰の代りに下見板を張ってペンキで仕上げている。しかし、北海道の下見板コロニアルのようにアメリカンではない。これを”下見板擬洋風”と呼ぶ。
擬洋風の掉尾を飾るこのスタイルは、東京と山形の二ケ所で、明治7年(工部省庁舎)と9年(朝暘学校)の最初に姿を現わす。時期は遅れるけれど、質と量からみると山形県の方がはるかに充実しており、下見板系擬洋風のの震源は明治9年の山形県であったと考えられる。」(『日本の近代建築(上)-幕末・明治編』 藤森照信著より)
「明治9年、山形県-当時酒田県-の日本海側の城下町鶴岡に朝暘学校が出現する。大きい図体のふてぶてしい印象の建物で、擬洋風小学校としては(中略)日本最大の規模を誇った。(中略)以後、山形県では、下見板系擬洋風の建設が組織的に推進され、県庁舎(明治10年)、師範学校(同11年)、済生館(同11年)と大作三つが相次ぎ、さらに郡部にも広がり、今も残る例でいえば、西田川郡庁舎(同12年)、鶴岡警察署(同17年)などが生まれる。(中略)済生館のつくられた明治10年前後は全国的には漆喰系擬洋風の黄金時代というのに、どうして山形では下見板が先駆的に擬洋風に取り込まれたのだろうか。
口火を切った鶴岡の地が、ちょうどその頃、北海道と格別な関係でつながっていたからと考えられる。酒田港を外港に持つ鶴岡は、北前航路によって江戸期から北海道と深く結びついていたうえに、明治に入ってから、いっそう交流を深める出来事が起こった。鶴岡は、明治の農業開拓では先進の地で、、明治5年の旧鶴岡藩士による松ヶ岡開墾が着手され、成功を納める。これを知った北海道開拓使長官黒田清隆は、模範を示してもらうために招聘し(明治8年)開拓団は札幌で汗を流した。」(既出の藤森照信の著作『日本の近代建築』(上)より)
黒田清隆も三島通庸と同じ、旧薩摩藩士です。
西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたためたのが「南洲翁遺訓」(庄内藩の関係者が西郷隆盛から聞いた話をまとめた遺訓集)である。(明治23年刊)平和裏に戊辰戦争を終結させてもらった大恩人・西郷隆盛に対する庄内人の律儀さを示す逸話として今も語り継がれているという。
「(鶴岡の開拓団が札幌で汗を流した)場所は開拓使本庁舎のすぐ裏手だから、毎日のように下見板西洋館の記念作を眺めたことになる。(中略)明治8年に札幌と鶴岡の間で開拓についての技術交流があり、その翌年の春に下見板第一号の朝暘学校の工事がスタートするのである。寒冷地での簡便な西洋館の作り方として発達した下見板の技法が、開拓技術の交流の一齣として札幌から鶴岡に伝えられた、と考えていいだろう。」(同上)
「こうした動きのバックにはいつも県令の三島通庸が控えていた。明治7年三島を県令として山形―当時酒田県に送ったのは内務卿大久保利通で、そのころの庄内地方に起こっていた一揆を鎮圧し、維新このかた新時代に立ち遅れて反政府の空気の漂う東北地方の一画に風穴を開けるためだった。三島は薩摩出身の維新の志士の一人だが、明治維新の後すぐ中央には上がらず、薩摩に隣り合いながらきわめて反薩摩の気風の強い都城に「地頭」として派遣され見事に治めた経歴を持ち、その後は中央に上って東京府の参事-副知事-を勤めているが、こうした地方を治める腕を買われたのだろう。」(同上)
「酒田にやってきた三島は持ち前の敏腕で直ちに一揆を鎮めて大久保の期待に応えた後、酒田県を鶴岡県と改称し、県庁を鶴岡に移した。ちょうどそこに札幌に招かれていた松ヶ岡の開墾団が帰ってくる。そして、マイナスを除いた後の最初のプラスの事業として、旧鶴岡城の土手と石垣を崩して濠を埋め、その上に下見板張りの朝暘学校を建てたのだった。完成とほぼ同時に、鶴岡県は廃され、鶴岡、山形、置賜の三県が合併して今日いうところの山形県が生まれ(明治9年)、三島は鶴岡から山形へと本拠を移してより広い場で存分に腕を振るうこととなる。(中略)文明開化政策は、鶴岡での朝暘学校の成功にならい、すでに述べたように学校、病院、県庁、郡庁舎、警察などの新しい機能の建物を洋風建築で作ることで通して行われている。(中略)
これほどの成果を残す山形の下見板系擬洋風だが、肝心の設計者がいまだ明らかにならない。県庁、済生館、師範学校いずれの記念的大作も、誰が奇抜なデザインを考えたのか分からない。西田川郡庁舎や鶴岡警察署などの県直営ではない建物については設計と施工を手がけた棟梁の名が残されているのに、三島が力を傾けた工事にかぎってデザイナーの名は現れない。(中略)
肝心のデザインを誰が決めたのか記録されなかったのは、当時の関係者にとってあまりに自明でわざわざ記すまでもなかったからではないだろうか。おそらく三島が決めていたのだ。彼の建築好きは明治の指導者の中では群を抜いていて、山形での第一作の朝暘学校の図面は巻物に仕立てられて三島家に長く伝えられているし、のちの警視総監時代には殉職警官を祀る「弥生社」の設計を自ら手がけたことが明らかになっている。(中略)
擬洋風の建築と都市を残して、三島通庸の山形時代は明治15年に終わる。」(同上)
「役所や学校をわざわざ洋風によそおうのは実用性が少ないうえに、出費ばかりかさむ。(中略)都市と建築を洋風で表現したい、という欲望の根にあるのはもちろん人間の表現本能で、井上(馨)や三島も個人資質としてその傾向が強かったのだが、もう一つ政策的な計算はしていたものと思われる。
三島が山形ではじめて建てた朝暘学校の記念碑には次のように刻まれている。
「朝暘学校は山形県の学なり。今県令三島君始めて任に莅(のぞ)むや、士明樸陋(ぼくろう)に安んずるを観て、以謂(おも)へらく、唯だ学のみ以て之を変通すべしと。而(しか)れども黌舎(こうしゃ)そうだいならずんば即ち亦以て衆に示す無し」
江戸時代の影響が全てにしみ渡っている山形県を変えるには学校教育を変えるのが一番だが、そのためには費用を投じて壮大な洋風校舎を建てなければならないというのである。
江戸時代から明治時代への変化を建築史的にみると、時代の中心となる建物の種類が一変していて、江戸時代の城下町や門前町の景観を支配していたのは城郭と社寺だったが、明治時代になると、まず官庁と学校に資金と技術が注がれ、都市の中で一番目立つようになる。この全国の都市に見られた変化を象徴的に実行したのが山形の三島通庸で、旧鶴岡城の石垣と土手を壊して濠を埋め立て、そこに朝暘学校を建てたのだった。」(同上)
「壊した城の上に学校を建てても、もし表現が変わらずに伝統建築で作られたなら、それまでの藩校と同じように受け取られる恐れがあるが、三島は政治家として、中身と器の関係について終生変わらぬ考えを持っていた。「衆に示す」ためには中身の変革だけではだめで誰の目にも分かる器に変えないといけない、と。人間がつくる器の中で一番大きいのが都市や建築だとすると、三島がその洋風化に邁進したのは、かならずしも的はずれとはいえないだろう。都市や建築というのは、絵や文字の表現と違い、目をそらしても向こうから飛び込んでくるだけに、「衆」の気分に与える影響はきわめて大きいのである。」(ここまでのカギカッコ内『日本の近代建築(上)-幕末・明治編』 藤森照信著より)
鶴岡藩士が恩人と慕っていた西郷隆盛と同じ薩摩出身の、三島通庸だったからこそ、その治世を受け入れ、城の濠や石垣を壊されても文句が出ずに、洋風建築も開化のシンボルとして割と抵抗なく受け入れられたのかもしれませんね。そして鶴岡での実績を引っ提げて、ほぼ現在のかたちに統一された山形県の県都・山形市に初代県令として赴任し、洋風建築を象徴的に用いた都市づくりに乗り出し、成功したといえるでしょう。それが現在の山形市街の骨格をなしています。その時に、三島が日本近代絵画の祖・高橋由一に描かせたのが「山形市街図」です。
山形県令となった三島は新時代に立ち遅れた山形県の経済を再生させるために、まず交通体系の整備に取り掛かり、山形県と周囲の、秋田、宮城、福島県を繋ぐ新しい道路を開くなどの功績も残しました。その時に三島自ら双肌ぬいで櫓の上に立って太鼓を鳴らし、その合図に従って、人夫が作業を繰り返したという逸話を聞くと、地域の近代化にかける思いは私心のないものだったのだろうと感じます。
西田川郡役所は、三島通庸が生涯にわたって貫いた、建築によって文明開化を民に知らしめるという思想を土台にして生まれたものでありながら、山形市に残されている済生館や師範学校が、三島自身、デザインに深く関わっていたのだろうと推測されるのと異なり、鶴岡出身の高橋兼吉という一人の大工棟梁が、若いころから東京と鶴岡を行き来しながらほぼ独学で西洋建築を学び、従来の日本建築の仕事と併行しながらも、片手間ではなく情熱を傾けてつくりあげた、明治初期のものづくりのひとつの結晶だということがわかりました。
建築の、常に政治的に利用されているのかもしれないという側面も十分理解したうえでも、三島通庸が起こしたうねりが生んだ、鶴岡市、山形市などに残る擬洋風建築は、地域の歴史を物語るものとして、これからも大切に保存していかねばならないでしょう。
このようなことを考えるきっかけを与えてくれたのも、文字や写真、記憶の中だけでなく、実体として物理的に残り、後世に文化を伝えることができるという、建築の特性によるものなのですから。
今回、西田川郡役所をきっかけにいろいろと調べることで、鶴岡がとても魅力あるまちであることがあらためてわかりました。
隣接する湊町である酒田、そして周辺町村も含めて、庄内地方を巡り、その素晴らしさをまたご紹介できたらいいなと思います。
[…] 鶴岡市については以前、西田川郡庁舎の回で詳しく紹介しました。 […]