先日、『もしも建物が話せたら』という映画を見ました。

I went to see the movie ” Cathedral of Culture” produced by Wim Wenders who was once called as the standard bearer of  German new Cinema.

It is an omnibus film which has 6 parts directed by 6 different directors, including Wenders, and heroes and heroines are 6 different architectures, which continue to act monologue all through the film.

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製作総指揮 ヴィム・ヴェンダース。ニュー・ジャーマン・シネマの騎手と言われたドイツの映画監督です。

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ヴィム・ヴェンダース

学生時代、コロンボのピーター・フォークが出演するファンタジー『ベルリン・天使の詩』、山本耀司の創作風景を切り取ったドキュメンタリー『都市とモードのビデオノート』等を見た記憶がありますが、ヴェンダースの映画はそれ以来でした。

WOWOWが「国際共同制作プロジェクト」として各国のメディアやクリエイターと共同で企画・制作した映画ですが、ベルリン国際映画祭や東京国際映画祭でも上映されており、TV番組を超えるクオリティは保たれています。

オムニバス形式で、ヴィム・ヴェンダースを含む6人の監督がそれぞれ、ベルリン・フィルハーモニー、ロシア国立図書館、ハルデン刑務所、ソーク研究所、オスロ・オペラハウス、ポンピドゥー・センターの6つの建物を取り上げた、建築が主人公の映画です。

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ベルリン・フィルハーモニー(設計:ハンス・シャロウン)監督:ヴィム・ヴェンダース

この映画の最大の特徴は、邦題が『もしも建物が話せたら』とされたように、建築が一人称で話す映画だということです。もちろん、ドキュメンタリー映画ですから、映像はCGなどで加工したものではなく(まさか機関車トーマスのように建物のどこかに顔が表れて話すわけではありません。)それぞれの監督が建物の各所で撮影したものです。最初に監督を指名して、各監督が、自分のとりたい建物を選んだのだそうです。監督が建物を擬人化して、建物に語らせるということだけがお約束になっており、それ以外の形式は自由のようです。ですから、各短編ごとに、少しずつ趣向が異なり、「私=建物」の視点の置き方も若干違います。建物の声は、男性であったり女性であったり、口調もすべて異なっており、それぞれの建物は、長い年月で染みついた個性を宿した、一個の人格をもった存在として描かれています。

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ロシア国立図書館(設計:エゴール・ソコローフ)監督:ミハエル・グラウガー

一人称で語らせることによって、本来無機物であるはずの建築が、自分がどのようにしてこの世に生を受け、それ以来今まで何を見てきて、今その中で活動する人間をどんな風に見守っているのかということを、まさに、生命を宿した存在として、観客に語り掛けてくるような効果があります。その中には、シナリオに従って、人々が演技しているようなところも見られますが、基本的には実写で事実に基づいた映画です。建物はその土地から動けませんから、自分の体の中や外で行われていることを、淡々と叙述していくことになります。また、建物には建築家によって与えられた使命や意志はありますが、能動的に働きかけることはなく、受動的であったり、人と人、人とモノを媒介したりするだけです。

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ハルデン刑務所(設計:ハンス・ヘンリック・ホイルン)監督:マイケル・マドセン

建物が擬人化された物語がなかったかちょっと考えてみたら、そういえばバージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』 がありました。

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『ちいさいおうち』

「むかしむかし、静かな田舎に、きれいなで丈夫なちいさいおうちがありました。ちいさいおうちはのどかな田舎で移り行く季節を楽しんでいました。ちいさいおうちは遠くの街の明かりを見て「まちにすんだら、どんなきもちがするものだろう」と思いました。ある日、馬の引っ張っていない車(自動車)が現れました。それからトラックだのローラー車だのがやってきて、ちいさいおうちのまわりはすっかり街になってしまいました。どんどん開発が進み、両側に高層ビルが建ち...それでもちいさいおうちはそこにありました。壁や屋根は昔のようにちゃんとしているのに、ボロボロになってしまいました。ところがある春の朝にちいさいおうちの前を通りかかった女の人が、ちいさいおうちを救います。」(EhonNaviより) というお話です。

ここでは、「ちいさいおうち」は自分で感じたり、考えたり、自分の気持ちを表したりできるが、動くことはできず、環境が変わっていくことに身をゆだねるしかありません。「ちいさいおうち」の正面はまるで顔のようで、子供用の絵本であるということもあって、擬人化が非常にわかりやすい形になっていますが、「もしも建物が話せたら」の建物たちも、このような視覚上の擬人化こそありませんが、基本的には「ちいさいおうち」と同じように、自分がいかにしてつくられ、今までどのように生きてきたか、現在はどんな暮らしをしているかを一切ナレーションもつけずに「一人称」で語りつづけます。

ソーク
ソーク研究所(設計:ルイス・カーン) 監督はロバート・レッドフォード。クレジットを見て、ちょっと驚いた。

建物というのは、「表の空間」と「裏の空間」、「主たる空間(ルイス・カーンいうところのサーブド・スペース)」と「従たる空間(同サーバント・スペース)」、「パブリック」と「プライベート」が混在しています。その比率は建物の種類や設計の考え方によって変わります。今回の映画で取り上げられているような公共性の高い建物の場合、通常、われわれが目にするのは、「表」「主」「パブリック」であり、「裏」「従」「プライベート」は限定された人しか見ることはできません。しかし、建物が自らを一人称で語るときには、その区別はなくなります。外側から見た、衣服をまとって化粧をしたよそ行きの姿ではなく、体のあらゆる部分のありのままの状態や、骨格、内臓に生じる感覚にいたるまで、観察したり、表現したりできるというわけです。この映画に登場する建物は、レポーターの代わりに、建物内外の状態やそこで起こった出来事を、自分の体の中や周辺で起こっていることとして語ります。それらのすべてが等価に並列されていることは、むしろ新鮮に感じられます。

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オスロ・オペラハウス(設計:スノヘッタ)監督:マルグレート・オリン

例えば、「ベルリン・フィルハーモニー」では、楽屋から、練習風景、演奏風景が、指揮者、演奏者、観客どれかに特段大きな比重を置くというのではなく、建物からの視線で一連の出来事として描かれます。世界一人道的であるといわれる、「ハルデン刑務所」では、管理する側(看守)と管理される側(受刑者)、どちらの立場に肩入れすることもなく、ここ以外の、外の世界を一度も見たことがないという「刑務所」が、屋外でスポーツを楽しむ受刑者たちや、独房に入れられ半狂乱になった囚人が汚物で描いた落書きを洗浄する場面、家族が面会に来た時にともに過ごし泊まっていくこともできるという居心地のよさそうなゲストルームの様子を、自分の体の内外にある事象として淡々と描き、語っていくのです。

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ポンピドゥ・センター(設計:レンゾ・ピアノ+リチャード・ロジャース)監督:カリム・アイノズ

建物を一つの生物に見立てると、人間というのは、ノミやシラミのように体表面にまとわりついたり、寄生虫のように身体の中に巣くったりするもののように見えてきます。通常建物のドキュメンタリーは、「寄生」している人間が、その「宿主」のことを語るというスタイルですが、この映画では、「宿主」である建物が自らのことや寄生者である人間のことを、時として自分の内側を覗きながら語るのです。その視点の逆転が面白いですね。

もともとのタイトルが『Cathedrals of Culture』、直訳すれば『文化の大聖堂たち』です。見方を変えると、我々人間は、文化を入れる器としての巨大生物「建築」に巣くう微小な生き物です。

建築はしばしば動物の巣に例えられることがあります。動物は過酷な自然や外敵から身を守るために巣をつくります。人間も、風雪や外敵から身を守るために建物をつくりますが、それが動物の巣と何が違うのかといえば、建築は文化を守り、育てる器であるということでしょう。この映画では、建物は、人間につくられたものであり、土地に固着するという宿命を抱きながら、人間を超越した何者かになって、一人の人間の一生をはるかに超えた長い年月を生きて、文化を紡いでいく、超然とした存在として描かれています。人間と神の中間に位置するような。

建築には、動物の巣と同じ最低限のシェルターとしての機能に加え、世代を超えて、文化を継承し、文化をはぐくむという役割があります。ヴェンダースが、建物を擬人化するというルールを各監督に課すことによって描き出したかったのは、建築のそういう側面だったのではないでしょうか。

日本では、一週間前に、熊本・大分で大きな地震があり、建築を、シェルターとしての側面のみに焦点を当てて分析して、連日のように報道しています。それは当然といえば当然でしょう。強度・機能というのは建築にとって最低限満たされなければならないものです。もちろん、安全性・耐震性を今まで以上に確実にしていくことは大変重要な課題です。しかし一方で、日本では従前より、建物は強度や機能を満たす「ハコ」であれば十分という風潮がはびこり、文化をはぐくむ器としての建築というものに対する認識が、一般にまだまだ根づいていないということも、けして忘れていはならないでしょう。

復興においても、ただリーズナブルで丈夫なハコモノを、できるだけ早く十分な量でという発想だけではなく、コミュニティの形成や人々の心の問題を深く掘下げたうえで、新たな文化的生活環境を形成していくことが大切なのではないでしょうか。いまは、余震も続く亜急性期で、それどころではないかもしれませんが、創造的復興ができるならば、これほど素晴らしいことはありません。避難生活を送られている方々が、健康を損なうことなく、普通の生活を取り戻すことが急務なのはいうまでもないのですが、長期的視野にたって、その先数年、数十年にあるものも見すえておく必要があるだろうと思うのです。

『もしも建物が話せたら』という少し変わったコンセプトの映画は、超越的な視点から、建築と人間の文化、それらの関係についていろいろと考えるきっかけを与えてくれました。

全部で165分に及ぶ長い映画でしたが、ベルリン・フィルハーモニーやソーク研究所、ポンピドゥ・センターなどのマスターピースを、細部まで描写された大画面で体験でき、日本の一地方都市に居ながらにして、各国の名建築をめぐる小旅行をしたようで、なかなか充実した時間でした。

『もしも建物が話せたら』(予告編)

山形では、本日、4月22日まで、フォーラム山形で上映の予定です。

東京では渋谷アップリンクでロングラン上映中。全国各地で上映予定です。(残念ながら、もう終わってしまったところもありますが)

劇場案内 (←クリックしていただくと全国の劇場案内が出ます)

建築を勉強中の学生や、建築好きの方はもとより、だれもが面白く見られるドキュメンタリー映画ではないかと思います。

ご興味のある方は、ぜひご覧ください。