前回まで、山形市の中心部を、駅前から十日町、そこから北に90度折れて、七日町、旧県庁と至る、L字型の街路を見てきました。

現在はその界隈にはありませんが、火災で燃えて現存しない初代県庁とともに、初代山形県令・三島通庸によって建てられた県立病院がかつて七日町にありました。

それが、「済生館病院」です。現在は山形市郷土館として、山形城二の丸内の「霞城公園」に移築・保存されています。

Saiseikan Hospital was designed and built in 1878 by a local master carpenter  Shukichi Sato. This architecture is made of wood. Japanese traditional carpenter tried to make western architecture by their own skills, techniques,and materials to accomplish westernization and modernization. It took only 7 months to build it by about 300 skilled local carpenters. A very unique architecture among buildings all over  the world has been realized. It was moved, rehabilitated from 1966 to 1971, and has been conserved since then. It is now used as a museum about civilization of Yamagata and modernization in the domain of medicine.

大学2年生のとき、自分の選んだ建築物のスケッチを描いてくるという課題があって、帰省した際にこの建物の前に、スケッチブック片手に何時間か座って鉛筆画を描いた覚えがあります。ちょうど今頃の寒い時期だったような。懐かしいです。

以下、カギカッコ内、山形市郷土館で配られていた『国重要文化財 旧済生館本館(三層楼)』からの引用です。

「山形市郷土館は昭和46年(1971)4月、ここ霞城公園内に開館しました。この建物は、それより93年前の明治11年(1878)9月に山形城の旧三の丸大手門跡(七日町口)に建てられた県立病院でした。それを解体復原し、昭和44年12月に移築した建物なのです。その歴史を紐解いてみましょう。」

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済生館病院(山形市郷土館) 1878 重要文化財 The old Saiseikan Hospital

「 「山形の宮大工」の手で7ヶ月で完成

明治9年(1876)8月、初代の山形県令となった鹿児島県出身の三島通庸は、文明開化の象徴として、山形市に県立病院の新築を計画しました。明治10年7月に、山形県立病院長の長谷川元良と県一等属筒井明俊を上京させて東京や横浜のいくつかの病院を視察ざせ、三島県令自らも見学視察して病院の構想を練りました。筒井明俊は山形に戻ってから、この本館の平面図を作成しました。」

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かつて七日町にあったころの姿。増改築されて、原状復帰された現在の形と異なっています。大沼デパートの屋上にはホールが載っていて現在と少し違うようです。十字屋デパートは駅前でなく七日町にあったんですね。

「明治11年2月に鹿児島県出身の県十等出仕、原口祐之を大工棟梁として新築工事に着手しました。山形の宮大工の棟梁たちを多く集め、職人集団およそ300人の手で、同年9月に、たった7ヶ月で完成させました。山形の人々は、この美しい三階建ての楼閣風の建物を、親しみを込めて「三層楼」と名づけました。」

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済生館病院は現在もここにあるが、旧館の跡地にはドーム状のガゼボのようなものがモニュメントとして設けられている。

「明治11年7月に山形を訪ねたイギリス人のイサベラ・バードは、完成間近のこの病院のことを「大きな二階建ての病院は、丸屋根があって、百五十人の患者を収容する予定で、やがて医学校になることになっているが、ほとんど完成している。非常に立派な設備で換気もよい。」と、その印象を手紙にしたためています。(『日本奥地紀行』)」

あのイザベラ・バードも、この「済生館」を見ていたんですね!イザベラ・バードについては11月12日の日記「Isabella Lucy Birdについて」で詳しく触れていますので、よろしければご覧ください。

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日本の街は、それまで、城は別として平べったくつくられてきたが、維新、そして開化のシンボルとして、塔がつくられた。

「 『濟生館』と命名される

明治11年冬、三島県令は、時の太政大臣・三条実美公に、この「山形県立病院」に命名をお願いしました。公は、『濟生館』(済生館)と揮毫してくれました。明治12年1月8日の【山形県立病院済生館】の開館式に、これが披露されたそうです。現在、2階の講堂の正面に本物が掲げられています。」

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三条実美の書(2階講堂)

「“済生”とは、「人の命を救う」「人の命を助ける」という意味です。“済生”の言葉は、江戸時代の漢方薬の本によく使われていました。正に、この病院は、「人々の生命を救ってくれる館」として役立ってきました。」

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バルコニー

「今、山形市立病院済生館は、近代的な医療機関・病院として、七日町の同じ場所に建てられ、正に人々の生命を救ってくれる館となっています。」

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東南方向より塔を見る

「ローレツと医学校

明治13年9月、三島県令は、オーストリア人の医師アルブレヒト・フォン・ローレツを金沢医学校から山形県立病院済生館の医学校(医学寮)の教頭として招きました。貿易銀で月給300円(実際は日本円で500円に近い)という待遇をしましたが、当時の三島県令の月給の3倍、済生館館長の6倍近い高給だったそうです。」

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ローレツ先生の碑

「ローレツは「老烈」と名乗り、病院にドイツの薬品や医療機器を取り入れ、薬剤学、顕微鏡学などの講義をはじめ、外科手術などの治療も行いました。ローレツの指導のおかげで、この医学校は東北地方におけるドイツ医学のメッカとなりました。」

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ローレツ先生(1846-1884) 34歳で着任され、36歳で帰国、38歳で若くして亡くなられたんですね。

「明治15年(1882)に三島県令が福島県令となり転任しました。山形県議会がローレツを辞めさせる決議をしたこともあり、ローレツは、同年7月にオーストリアへ帰国しました。たった1年10ヶ月間の山形滞在でしたが、教え子たちが若い医師として育っていきました。そして、彼らはその後の山形県の医学界を支える先達者となりました。」

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Albrecht Von Roretz (1846-84)

「県立・私立そして市立病院へ

県立だった済生館病院は、経営が困難になったことから明治21年(1888)に民営の病院になりました。一時、済生館の外科医中原貞衛氏の個人経営の病院になったこともありましたが、中原氏は経営権を山形市に譲り、市の支援を受けて明治36年に至誠堂病院を創設しました。明治37年(1904)4月からは、【山形市立病院済生館】となりました。」

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東側(当初南側) 外観  移築するときに、反時計回りに90度振ったようです。シンメトリーの建物なので、あまり関係ないかもしれませんが、内部の自然光の入り方など、方位を正確に移築してくれた方が、当初の雰囲気を感じやすいですよね。できないことはなかったと思うのですが。昭和40年代にはそこまでの議論はなかったのでしょうか。

「国の重要文化財に指定される

昭和30年代になると、病院の近代化が強く求められる中で、老朽化したこの建物は壊される運命にさらされました。しかし、市民の中から保存すべきとの強い動きが起こり、山形市としても苦慮し、選択を迫られる中、当時の山形市長大久保伝蔵氏は、文化庁に調査を依頼しました。」

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管理棟は無粋な鉄筋コンクリート造。取って付けたようであまり感心しませんが、移築した当時の意識レベルはこんなものだったのでしょうか?済生館本体の方がずいぶんと立派に見えるので、よいことかもしれませんが(苦笑)

「その結果、この本館が、貴重な擬洋風建築として認められ、国の重要文化財に指定されました。昭和41年(1966)12月5日のことでした。移築の場所は、霞城公園の東南部にあたる元霞城連隊の将校集会所のあった場所となり、文化庁と山形県の補助金、山形市の負担金で解体復原されることになりました。」

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受付を通り過ぎ右手を見るとアーチ状のゲートがあります。

「 昭和の宮大工たちの苦労

昭和42年(1967)7月1日に七日町から現在地への移築修理工事に着手しましたが、明治初期の設計図がありません。現場主任の兼子元吉氏が本館を解体しながら設計図を作りあげていきました。改築された部分をめぐって論争することもありました。ようやく設計図ができあがり、昭和43年11月16日より移築復原工事(組立)の作業にかかりました。しかし、明治11年建築当時の工法で壁も柱も床も仕上げなければならない仕事の困難さから、身体をこわし入院する職人も次々と出てきました。そうした中で、この難工事を請け負った市村工務店の市村清治郎社長は、「宮大工の心意気で必ず完成させよう」と、兼子氏や職人たちを励まし、明治11年当時のままの「三層楼」の姿に復原する努力と苦労を積み重ねていきました。」

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ゲートをくぐり扉を開くと、中庭に面したリング状の回廊と塔が、鮮やかに飛び込んできます。

「擬洋風建築の最高傑作として

2年5ヶ月間かかって、昭和44年(1969)12月、ついに、「本館移築修理工事」が完了しました。管理棟を付設し、昭和46年4月1日に「山形市郷土館」として開館しました。明治初期に全国で建築された擬洋風建築(その土地の宮大工たちが洋風建築に似せて建てた木造建築)の最高傑作の一つと賞賛されており、長野県松本市にある「開智学校」と共に日本の双璧と云われております。明治と昭和の山形の宮大工の最高傑作として、永く大切に守っていきたいものです。」(山形郷土館による解説終わり)

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三層部分のディテール

上の解説に「擬洋風建築」という言葉が出てきましたが、その、一般の人には耳慣れない用語や、当時の時代背景について、詳しく語られた文章がありますので、ここに引用します。以下のカギカッコ内です。(『日本の建築[明治大正昭和]1 開化のかたち(三省堂)p92~95「はじめに」 (越野武))

「明治建築―初期の洋風建築はどのくらい残っているだろうか。少し乱暴な話だが、現在残されている全国各地の明治建築の、おおよそを眺めることから始めよう。」

OLYMPUS DIGITAL CAMERA円形(正確には14角形)のリング状の回廊その周囲に、諸室(現在は展示室群)が配置されている。

「明治建築を実際に訪れてみたいと思う人には、この本に収めた現存建築一覧が便利であろう。もっとつぶさに調べたい人は、日本建築学会編の『全国明治洋風建築リスト』を利用することになる。このリストは、急速に取り壊しの進み始めた明治建築を、なんとか保護していくための、基本的な作業であった。どこにどのような建物が残っているのか、それらはどのような価値をもつものなのか。実際、だれにも知られず、正当な評価も受けず、ただの老朽建物として姿を消していくものが、あまりにも多かったのである。『明治建築リスト』は、とにもかくにも、このような状況に歯止めをかける役割を果たしてきた。」

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最初の展示室には、山形の近代化、開化期の山形についての資料が集められ公開されている。

「と同時に、『明治建築リスト』は、これら数多くの洋風建築を、全体として見直すきっかけとなるものでもあった。リストは、一見無味乾燥な建物の羅列でしかない。町の片隅に煤けたまま取り残された小さな商店や、農場の小屋も、日本銀行本店や赤坂離宮も、みな同じように並んでいるのである。しかし、これを繰り返し眺めていると、明治建築の果たしてきた歴史的役割とか、それらがひとつの建築文化を築いていった軌跡、積み重ねられた総体の裾野のひろがりといったものを、おしはかってみたい思いにかられるのである。」

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長谷川吉郎治は代々「奥羽の商都山形」の巨大紅花商人。現在の山形銀行もこの家系から出ている。最初は天童に私立病院をつくったが、その後山形に移転。済生館のもととなった。

「『明治建築リスト』は、総計1382件の建物を収録している。そのうち大正期のもの、既に取り壊されたものを除いて明治期創建の遺構は1120件であった。(中略)東京、京都、大阪などで、なお追加が見込まれるから、1300件以上の明治建築を、われわれは遺産としてひき継いでいるとみてよいであろう。もっとも、調べのいきとどいていない地方もあるし、また、例えば函館市には明治末期の木造洋風小家屋が何十棟と遺存しているが、ひとつひとつをリストに載せきれなかったようなこともある。遺構の総数で、数えようによって、もっと増えるであろう。」

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2階講堂にのぼる階段

「東京、大阪、京都のような大都市の明治建築遺構には、明治中・後期の重要な作品が多く、それらはこの本の主題からはずれる。遺構件数では、北海道、兵車―大部分が神戸市、長崎が目立って多い。やはり初期洋風建築の研究には欠かせない地方ということができる。開拓使や、初期の開港場居留地の伝統が、これらの地方には生き続けているからである。」

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2階講堂。突き当りに三条実美の書。

「表だけからはわかりづらいかもしれないが、山形、福島、岡山などの諸県にも注目しておかなくてはならない。もとのリストの建物所在地や年代を注意深く調べてみると、思いがけないようなところ、単に田舎というだけではなく、弘前、鶴岡、伊賀上野のような古い城下町にも、年代の早い重要な遺構のあるのに気付かれるかもしれない。かえって、こういうところに、古い建物が遺るということもあるが、やはり洋風建築の広く浸透する様相を語っているのである。支線の鉄道やバスを乗り継いで、地方の明治建築を訪れた人には、それは実感としてせまってくるであろう。」

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2階から3階にのぼるらせん階段

「ところで、『明治建築リスト』には、建物の所在地、年代、構造種別などの欄とともに、建築の設計者の欄がある。ところが、その大部分は空白のままなのである。東京、大阪など大都市の遺構や、また、明治中後期の建築で、著名な建築家の知られているものは多い。しかし、東北諸県をはじめ大半の地方の建築や、建設年の早いものには、設計者不明が圧倒的に多い。」

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らせん階段 ディテール

「設計者の記録されているものでも、たった一度だけであったり、それも「誰某と伝えられる」とか「某地の大工」とのみ記されたり、新潟運上所-明治二年―のように、棟札に残された「礼助・弥七」の名のみ知られるものもあって、これらは設計者欄空白とあまり変わらない。」

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1階 正面玄関ロビーから正面入り口を見る

「これはまだ調べのいきとどいていないせいでもあろう。これから、こうした人びとの業績や経歴が系統だてて研究されていくであろう。後にとりあげる何人かの初期洋風建築家は、十分とはいえなくとも、比較的よく調べられた人びとである。清水喜助や林忠恕は、早くからよく知られてきた。」

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正面玄関から、2階へ上っていく階段につながるデッキをみる

「山添喜三郎、清水義八、高橋兼吉、堀江佐吉のような人びとは、『明治建築リスト』にも最初から記名されていたが、詳しい業績や経歴が、広く知られていたわけではない。各地の建築史や郷土史研究者の努力によって、最近ようやく、その活躍のあとや人物像を少しは描けるようになった。こうした例は、今後もっと増えていくであろう。」

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ドーナツ状の1層の棟の中央にある中庭

「しかし考えてみると、多少の履歴が知られるようにはなっても、大同小異、といってはいい過ぎであろうが、例えば赤坂離宮が片山東熊によって、日本銀行本店が辰野金吾によって設計された、というのと同じ意味で、設計者の欄が埋まるわけではない。小論でとりあげる人びとは、全て大工棟梁、またはその出身者である。最初からそのように選んだわけではなく、初期洋風建築の、最も発剌として魅力ある設計者をとりあげた結果である。」

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このエリアは、開化期の医学に関する展示がなされている

「彼らは伝統的な職人の世界に属する人びとである。片山東熊や辰野金吾ら建築家が設計するのと、彼らが設計するのでは意味が違うのである。『明治建築リスト』は、「設計者」欄と「施工者」欄が、截然としている。この区分けは前者の、近代的建築家にはふさわしいが、後者の大工棟梁にはほとんどあてはまらない。単に「棟梁誰某」というのが最も正確である。彼らにあっては、設計するのと作るのは最初から一体なのである。」

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昭和41年に重要文化財に指定されたときは、増改築が重ねられ、このような姿になっていた。(兼子元吉 作図)

「近代的建築家の駆使する、様式、計画、構造などの理論とは異なって、体験的、感覚的な「…造り」「…風」「…雛形」が彼らの手法である。これらは、理論に分化しない、よりかたちに直結した手法である。同時にそれは、個性的作家の職能と違い、共有の職人芸としてひろがる性格をもっている。設計者の名を建築作品に冠せる意味と異なった、いわば「無名」の建築であった。」

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竣工当初の姿を再現した図面が描き起こされた。(同上)

「もっとも、洋風建築を建てた大工棟梁らが没個性的であったというわけではない。結果として眺めると、彼らの生み出す洋風建築は、かえって独創的であり、個性的であった。初期洋風建築は、単に旧時代の職人芸ではない。やはり新来の様式に触発され、解放された想像力が加わっているからである。妙な言葉だが、棟梁建築家といういい方も、その意味でふさわしいであろう。」

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平面図 立面図

「初期洋風建築の重要な一面は、大工棟梁―棟梁建築家に担われたということにある。この巻は、このような初期の作品を主として、これに先立つ幕末、明治極初期の藩営産業建築、開港場居留地の建築と、明治中・後期、一部は大正期にかかる洋風建築を集めている。神戸を中心に住宅を主として設計活動を行なったハンセル、立教学校校長として来日、かたわら京都の聖ヨハネ教会などを設計したガーディナー、工部省御雇から独立後、横浜を本拠に活躍したダイアックなど、明治中後期まで日本で設計に従事した外国人建築家の作品も、この巻に収められているが、本来これらは巻をあらためて考えるべきものであろう。」

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佐藤周吉の肖像画 文政8年(1825年)7月8日生まれ Shukichi Sato : a master carpenter in Yamagata who designed and built Saiseikan hospital. 山形市宮町に住み、宮大工として優れた技術をもっていた。済生館の建築にあたったのは54歳の時で人間的にも技術的にも円熟した時期であった。彼は洋風建築の中に和風を織り交ぜ独創的な手法を随所に表し、擬洋風木造下見板張り造りの最高傑作とうたわれる建造物を後世に残した。明治40年(1907年)8月11日没。享年84歳。 この時期のいわゆる「擬洋風建築」の作者として、名前も肖像も残っているというのは珍しいことかもしれません。

「ところで、ここに集めた建築、棟梁建築家によって創られた洋風建築を、ひっくるめて「初期洋風建築」と称うことには異論があろう。それらの中で、明治初期に建てられ、異彩な形姿で特に注目されてきた、たとえば松本の開智学校-明治八年-や、山形の済生館病院-同十二年-などは、近年、「擬洋風建築」といいならわされている。このいい方をあまり使わないようにしたのは、「擬洋風」と名付けることで、これらの建築に対するイメージや評価を、狭く固定してしまわないか、とおそれたからである。」

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増築が重ねられた、戦後、移築前の済生館。

「ついでにふれておきたいが、「擬洋風建築」という用語の意味には、少し微妙なところがある。もともとは「擬似=疑似?洋風建築」であったものが縮められたのであろう。しかし、「疑似洋風」というのと、「擬洋風」では意味が異なる。前者は似て非なる洋風だが、後者であれば、洋風に擬す、倣う、ということになろう。」

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同上。原状復帰された現在の山形市郷土館とずいぶん形状が異なる。

「もっとも、洋風に倣うという意味なら、単に「洋風」でよいことであるし、極端なことをいえば、日本人のつくる洋風建築は、開智学校も、工部省や開拓使の建築も、赤坂離宮も全て「擬洋風建築」ということになってしまう。これらの間に認められる建築の質の差異を問題にしようと考えれば、ふさわしい用語が必要であるし、「擬洋風」という語はとにかく定着しようとしている。ただ一見明瞭でありながら、誤解もまねきがちな用語であることに目をとめておきたいと思うのである。」

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『日本の建築[明治大正昭和]1開化のかたち』(三省堂)の帯や背表紙にも、「済生館」は使われている。
「もちろん、「初期洋風建築」という用語もまだ熟していないし、はっきり定義づけることも難しい。さしあたり、わが国に西欧の建築の波がとどいてから、それが広く根をおろしていく過程の、相対的に初期のあらわれ、という程度に緩く考えておきたい。年代の早いものに限らないわけである。そのように範囲を緩く、広くとった上で、あらためて「擬洋風建築」の位置を定めることもできるのではないだろうか。」

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再び、正面ファサード

「『明治建築リスト』に並べられた、おおよそ1300の遺構の、おそらく多くが、やがて姿を消していくであろう。J・コンドルや、片山東熊、辰野金吾らの創り出した建築作品が、近代日本建築の表皮、骨格であるとすれば、それら群小の洋風建築は、皮膚、骨格の間を填める筋肉組織である。」

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明治時代の済生館(吉野屋絵葉書店 版)

「初期洋風建築は工部大学校造家学科創設までの前史を形づくり、やがて表層の建築を支える役割を果たしていった。と同時に、見方を変えれば、初期洋風建築独自の世界、表層に対する、裾野をひろげた底層の世界を見ることもできよう。『明治建築リスト』の、機械的な建築の羅列と見えるものも、かえってそのために、近代日本の建築の、全体像を映しだしているのである。(越野武)」

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霞城公園の一画にひっそりと佇んでいる。右は山形県武道館。

この済生館も、とても魅力的な建物なのですが、山形に来て、この建物を見に訪れる観光客がどれだけいるでしょうか。宣伝不足、展示の(内容自体は悪くないのだが)プレゼンテーションが今一つということもあって、今はあまり来ていないと思います。(実際、昨日1月15日の午後3時頃に訪れたときは、来館者は私一人でした。それでも、もちろん対応する職員さんはそれなりに必要です。)

ここに来てもミュージアムショップもない(当然お土産も買えない)し、座って休憩したり、お茶を飲めるような場所もありません。建築鑑賞が趣味でもない限り「よかったよ」と口コミで広まることも期待できないでしょう。

1月6日の日記「山形市街図(高橋由一)」で取り上げた、「歴史と文化と緑の環(ロの字型環状ゾーン)」が完成すれば、ここもそのルートに載ってくるのですが…。逆に、こういった、ロの字型環状ゾーンに載っている、潜在的観光資源を基点として、強化(魅力度アップ)していかないことには、人々の流れはつくれずにそのような構想は画餅に帰してしまうでしょう。

中心市街地の空洞化を抑止し活性化を図るには、地域住民だけでなく、観光客を呼び込んで、消費を促す仕組みをつくる必要があると思います。

都市計画のような、長期的で大きな構想と同時に、こういったまちづくりの基点に対するきめ細かいケアをしていかないことには、外部から観光客がやってきて歩いて楽しめる、魅力的な街にはならないのではないでしょうか。(また、基点と基点を結ぶ経路に、もう少し、緑(街路樹)やアートがほしい。)

ここ数回で見てきたように、山形には日本の近代建築史に名を残す、重要な建築物が、比較的良い保存状態で現存しています。それに加え、江戸時代からの遺構も残されています。地元にいるとなかなかわからないんですが、山形は自然災害も戦災も少なかったし、経済主導の乱開発もなかったので、他都市がうらやむような良いものがたくさん残っているんですね。そのことを意識して、それを活かす方法を、官民が一緒になって考えていければいいのにな、と思います。

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