高橋由一(1828-94)の代表作のひとつに「山形市街図」があります。明治9~15年(1876~82年)初代山形縣令(県知事)を務めた三島通庸からの依頼を受けて描かれたものです。

高橋由一は武家の生まれでしたが、幼少より絵の才能があり、狩野派を学んだこともあったそうです。司馬江漢に私淑し広重の浮世絵も好きだったといいます。嘉永年間にある西洋の石版画を目にし強い衝撃を受け、1866年、横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに洋画の手ほどきをうけます。ようやく40代半ばで洋画家としての活動も安定するようになり、画塾を設立したり、個展を開いたりと洋画の普及にも精力的に取り組んでいきました。その後、あくなき探求心で50を過ぎて工部美術学校が招いた3人のイタリア人のうちの一人フォンタネージにも学び、さらなる研鑽をつんで独自の世界を築きました。(新海竹太郎も同じ時期にイタリア人ラグーザに学んでいましたね。)

Yuichi Takahashi who is called the pioneer of western painting in Japan draw ” View of Yamagata City”, one of his representative works.

高橋由一といえば有名なのは「鮭」です。これは西洋の模倣ではない、日本人独自の油絵の表現をなしたということで、高く評価され由一の代表作と一般に言われています。

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「鮭」 高橋由一 1877年(明治10年)頃 重要文化財 ”Salmon” Yuichi Takahashi

「山形市街図」は写真をもとに描かれたものですが、西洋の正確な線遠近法と空間表現を取り入れたという意味で、「日本最初の洋画家」高橋由一の代表作であるだけではなく、日本の近代絵画の歩みをたどる際に、外せない作品ではないでしょうか。

以下、カギカッコ内の絵画に関する解説は「日本美術全集21」(講談社)からの引用です。

「三人のイタリア人芸術家を招聘し、日本で初めての体系的な美術教育機関として工部美術学校が明治九年(一八七六)に開校すると、高橋由一は息子源吉を入学させて、アントニオ・フォンタネージのもとで洋画を学ばせる。源吉を通じて西洋絵画の本格的知識を得る一方、由一自身、フォンタネージの画室を訪れ指導を受けており、この時期から画風が大きく変化する。西洋の遠近法と空間表現が試みられた風景画が多くなり、物に接近して質感に迫る表現は部分的に見られるだけとなっていく。〈浅草遠望〉と〈山形市街図〉は、風景画だけをとっても画風の展開が認められることを示す好例である。」

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「山形市街図」高橋由一1885年(明治18年)頃 ”View of Yamagata City” by Yuichi Takahashi 明治9年に現在の山形県が成立した後、初代県令三島通庸の手によって明治10年に山形県庁舎が、また同16年に県会議事堂が旅篭町に建設されましたが、同44年5月の山形市北大火により両棟とも消失してしまいました。ここに描かれた県庁は存在せず、現在の旧県庁(文翔館)は2代目です。

「〈浅草遠望〉は手前に描かれた近接した雑草と、浅草寺周辺の森の遠景との対照が深い空間表現を生み、秋の寂寥感をもかもしている。近景と遠景をやや唐突に並置する方法は、十八世紀に秋田蘭画などですでに行われていた。由一は油絵具の材質をいかし、近景の雑草には筆触をきかせ、遠景と空では筆跡を押さえて、質感の差による遠近感を加えている。夕映えの空の透明感は、白い下地の上に油で薄く溶いて彩色を重ねるグレーズ技法のもたらすもので、フォンタネージが紹介した西洋の古典的彩色法の一つであった。江戸名所として知られた浅草奥山を、文宇どおり奥にとらえたこの作品は、ある場所に対し特定のイメージがすでにできている場所を描いたという意味で名所絵の流れをひく。しかし、名所に関する知識なしにも、秋の夕暮れの情趣を伝える絵として鑑賞しうる絵画の自律性を獲得している。そしてそれは、作者の心をとらえた光景をありのまま表わそうとする意図と、それを可能にする画技とに支えられている。」

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「浅草遠望」高橋由一1878年(明治11年) ”View toward Asakusa” Yuichi Takahashi

「明治十六年(一八八三)の工部美術学校廃校が象微するように、急激な西洋化への反動が十年代後半に強くなり、洋画排斥の気運のなかで画塾天絵楼の経営にも困難を来たした由一は、苦境に立たされていた。その折、山形、福島、栃木の県令を歴任し、この三県を結ぶ幹線道路、東北新道建設の難業を断行した「鬼県令」三島通庸から、この新道の各地を記録するよう依頼される。これを受けて由一は東北を訪れ、石版画集『三県道路完成記念帖』を制作し、沿道に取材した油絵を残している。〈山形市街図〉は、やはり三島によって建てられた山形県庁、山形師範、済生館病院などの並ぶ県庁前通りを、菊地新学の撮影した写真をもとに描いたものとされている。正確な線遠近法は、由一の西洋画研究の深まりを示すとともに、秩序ある国家構想の実現を急ぐ新政府を象微する洋風の官庁街の表現に有効に働いている。堅牢にそびえる建物の存在感に対し、人物は影もなく生命感を欠く。三島の事業への賞賛を示すはずの作品でありながら、どこかしら憂いに似た非現実的な雰囲気が漂っている。」

文翔館で伺った話によると、この絵のもとになった写真はやぐらを組んで、5m位の高さから撮られたものらしく、また、二枚の写真を貼り合わせて原図に使ったそうです。道理で、視点が高く、また、絵が非現実的に歪んで見えるのもそのためだと思われます。当時の写真技術では、露出時間が長かったため、人は映らなかったそうです。ですから、人物は由一が想像で書き入れたものです。そのせいで、人物は建物のスケールに比べるとずいぶん小さく見えます。それらの要因が重なったためか、この絵はいささかシュールに見えますね。

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現在の山形市街(七日町から旧県庁方向を見る) Today’s view of Yamagata from the nearly same point 突き当りの県庁は位置は同じだが、大正時代につくられた二代目。
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山形市内のお菓子屋さんの包装紙に描かれた山形市内全図1877年(明治10年) 北を上にしています。

以下、前回の続きです。「城下町都市山形」のまちづくりについて

カギカッコ内は前回と同じ「図説 城下町都市」(鹿島出版会)からの引用です。

明治期の大がかりな都市デザインと街路骨格の段階的展開 三島通庸による官庁街建設

銀座煉瓦街の建設や福島・栃木の鬼県令として有名な旧薩摩藩士の三島通庸が、1876年に初代山形県令として着任した時から、近代山形の都市づくりはスタートした。三島が最初に手がけたのが行政、教育、産業が一体化した新しい官庁街の建設であった。」

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「山形県山形市街全図」1881年(明治14年) 旧県庁の東側に上の地図にはなかった千歳園という西洋式回遊庭園がつくられています。 そのあとに山形中学(現山形東高)がつくられたようです。山形東高の講堂には確かに「千歳園」の名が冠されています。わずか4年の間に大きな変化が見られます。町屋だったところに官庁などの公的施設が計画され、近代的都市計画が急速に進められたことがわかります。Old map of Yamagata (1881)

「羽州街道の屈曲する七日町の北端を延長して幅員9間の街路とし、アイストップとなる正面に県庁を設置した。右側には師範学校と警察署、左側には勧業製糸場、博物館、郡役所が置かれた。中心商業軸の七日町、十日町の大通り沿いの裏手には済生館病院が設置された。当時としては斬新な擬洋風建築は、町家の建ち並ぶ大通りから引き込む独特のパースペクティブをつくり出した。県庁の東側には、西洋式回遊庭園である千歳園がつくられた。こうして幕末に落ち込んでいた山形の中心市街地は、強力なテコ入れにより再生された。

その後、県庁前から移転した師範学校まで延ばした三島通り、新築東通り、西通りと合わせて、中学校、高等小学校が設置され、文教地区がつくられた。また、駅前通り、旅篭町新道など主に東西の街路骨格が形成された。さらに、千歳公園、第二公園が整備された。そして、城郭内には陸車歩兵第32連隊が入城した。」

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済生館病院(旧館があった場所にモニュメントのようなものが設けられているのだと思う) Saiseikan Hospital

鉄道の開設と街路網の計画

二の丸の堀に沿って敷設された鉄道は、1901年に三の丸の中央の位置にあたる場所に駅が開設され、合わせて駅前通りが整備された。また、1894年(市南)と1911年(市北)の2回にわたり、中心市街地が大火に見舞われ、大半の建物が消失している。市南大火からの復興では、ふたつの火防道路が整備された。市北大火からの復興では、県庁の再建が行われ、大規模な市区改正道路網が計画された。これらを経て、1933年に都市計画街路網が計画決定された。こうして駅から県庁までのL字の骨格が形成され、さらに十文字のグリッドパターンヘと展開したのである。」

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「山形市中心市街地活性化基本計画」(2008)、「中心市街地景観ガイドプラン」(1996)を基に作成された図。(「図説 城下町都市」より)

近現代のまちづくり―藩政期の街路骨格や水脈、周辺山容に呼応するまちづくり 駅を降りればまっすぐな広幅員道路が走り、しばらく行けば、都市軸というにふさわしい中心商店街に直交し、その正面にはルネッサンス様式の旧県庁舎・文翔館がそびえている。最上義光が描いた大きな土俵に、明治の県令・三島通庸が近代の骨格と拠点を重ね、戦災は受けなかったが、建物疎開で戦前の都市計画の内容(特に街路の拡幅など)を実施している。昭和30年代には東京大学高山英華研究室が都市計画のマスタープランをつくり、整備が進められた。」

高山英華は日本の近代都市計画学の創始者といわれる人物です。戦後、全国各地の都市計画事業に従事し、1964年の東京オリンピックの全体計画のプロデュースも行った優れた学者、プランナーです。

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旧山形県庁(文翔館) The old city hall of Yamagata prefecture

「近年は、中活計画により七日町通り(旧羽州街道)と御殿堰の交点を中心とした拠点整備が進行している。七日町通り周辺には3つの新名所がつくられ、御殿堰は一部改修が行われ、石積みの姿を取り戻した。現代も用水路としての役割を担う山形五堰でも修景が行われ、各所で水路を眺めることができる。また景観条例により、歴史的建造物や周辺山容への眺望を阻害する大規模建築物への景観誘導や眺望点の整備が行われている。このように山形では、藩政期の街路骨格や水脈、周辺自然景観に呼応するまちづくりが実施されている。」

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復元された「御殿堰」 ”Gotenzeki”  artificial creek from Edo era

山形でも、さまざまな新しいまちづくりの試みがなされていますが、他の地方都市と同じように、郊外型のショッピングセンター、バイパス沿いの量販店に押されて、また、仙台と高速道路で1時間以内で結ばれるようになって、かつて買い物や飲食をする人々でにぎわっていた、駅前から十日町、七日町から旧県庁に至るL字型の通りは、往時の勢いを失い、人通りも少なくなり、いわゆるスプロール化(中心市街地の空洞化)が進んでいます。

多くの都市がそうであるように、近代化の過程で、山形も鉄道により、東西に分断されてしまいましたが、20年以上前に山形駅の東西自由通路が開通したことで、霞城公園を経由して、ロの字型の環状ゾーンを形成できるようになっています。

ところが、そのような大きな変化は十分に生かされておらず、「ロの字型」を意識したまちづくりはそれほど進展していないように見えます。山形駅から十日町、七日町を通って旧県庁に至るL字型の繁華街を活性化するためには、単なる日常の消費ではなく、観光と結びついた商業を発展させていく必要があります。

山形は空襲も震災も受けておらず、江戸や明治からの多くの歴史的な遺産が残されています。これは東京や仙台などにはない魅力となりうる特徴です。このことに地元の人たちはあまり気づいていないように思われます。

山形城本丸跡につくられた「霞城公園」を含む、市街地に眠る観光資源を活性化させて、ロの字型の環状ゾーンを歩いて楽しめるような街づくりをして、平日であっても県外から観光客が訪れるような、魅力ある街にしていくことが重要なのではないかと思います。

 

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L字型都市軸とは黄緑色で描かれた矢印のこと

山形市は、日本近代絵画、近代彫刻のパイオニアと縁があり、近代都市計画学の創始者が関わって計画がなされた、全国に誇るべき特質をもった街の一つではないでしょうか。その偉大なる先駆者たちの志を受け継いで、より魅力的な街をつくっていけないものだろうかと思います。