11月20日新潟県糸魚川市の谷村美術館を訪れました。

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玉翠園(谷村美術館)入り口。 門の横には巨大な岩がそびえたっている。

糸魚川市にある建設会社谷村建設の社長が村野藤吾(1891-1984)に依頼してつくられた美術館です。

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門を入ると玉翠園が左手に見える。道路を挟んで向こう側にある山を借景にしている。

館の方のご説明では、「村野藤吾の最後の作品」ということでした。年譜を見ると、これ以降にも作品はあるのですが、1983年竣工で、1984年にお亡くなりになっていますので、実質、村野先生がご自分で現場まで見られたということでは、最後の作品ということになるのでしょう。大事に保管されている、当時の資料なども見させていただきましたが、中にはご自身でつくられた模型というのもあり、万感の思いを込めて、まさに「手づくり」でつくられた建築、それ自体が彫刻のような、陶芸のような建築でした。

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右手に向かうと美術館が見えてくる。メンテナンスされずに傷んでいるというよりも、半ば表面が風化して自然になじんでいるようにも見える。メンテナンスは必要だろうが、逆に手を入れるのがむずかしそうだ。

以下、村野藤吾(Wikipedia) より

佐賀県唐津市で代々船問屋を営む家に生まれ、福岡県北九州市で育った。1910年、福岡県小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。1911年から2年間にわたる従軍中、学問に興味を持ち、1913年、早稲田大学理工学部電気工学科に入学。しかし、自分には向かないと考え、1915年、同大建築学科へ転学。27歳で卒業した。

1918年、渡辺節建築事務所に入所。日本興業銀行本店、ダイビル本館、綿業会館等の設計に携わった。渡辺からは、建築に費用を惜しまないことが客を呼び、ひいては施主の利益になることを叩き込まれる。1929年、渡辺節建築事務所を退所し、村野建築事務所開設。日中戦争・第二次世界大戦中は実作の機会は少なく、不遇の時期を過ごした。1949年、村野・森建築事務所に改称。1955年、日本芸術院会員。1967年、文化勲章受章。日本芸術院賞、日本建築学会賞など受賞多数。

代表作の一つ、日生劇場(1963年築)は花崗岩で仕上げた古典主義的な外観やアコヤ貝を使った幻想的な内部空間などが、当時の主流であったモダニズム建築の立場から「反動的」といった批判も受けた。1968年からは迎賓館本館(旧赤坂離宮)の改修も手がけた。また、村野は和風建築の設計にも手腕を発揮し、戦後の数寄屋建築の傑作として知られる佳水園なども設計した。

大阪を拠点に創作活動を行い、建築批評界では丹下健三とよく比較された。90歳を超えても創作意欲は落ちず、死の前日まで仕事をしていた。

2005年に宇部市渡辺翁記念会館(1937年築)が村野の作品として初めて国の重要文化財に指定された。翌2006年、世界平和記念聖堂(1953年築)が、丹下健三の広島平和記念資料館(1955年築)とともに、戦後建築としては初めて重要文化財(建造物)に指定された。

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美術館の導入部(回廊の始まりのところ)に飾られた模型。スタディ模型の最終形。
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同上。村野藤吾自身が現場に来た時の写真と略歴。

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東京からも大阪からも、少し行きにくいとことにありますが、ぜひ機会があれば皆さんにも行っていただきたい美術館です。中根金作による名園「玉翠園」「翡翠園」が同時に見られるということもあるのでしょうが、バスによる団体ツアーが何件か、私の訪問中にも来られていて、それなりに人気のある場所だということがわかりました。

平成9年ごろに財政的な理由で一度閉館したらしいですが、管理を糸魚川市が引き受けて一般公開を再開したようです。

谷村建設のホームページに載っているエッセイがとてもわかりやすいので、以下、それを転載させていただきます。(カギカッコ内)

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和風の屋根の回廊を歩きながら、美術館に徐々に近づいていく。通常の建築では2階建て程度の高さがあろうが、内部は吹き抜けており、平屋。鉄筋コンクリート(RC)造

「『谷村美術館と谷村繁雄』
新潟県の西南に位置する糸魚川市は翡翠(ひすい)の原産地として知られている。
以前、この糸魚川に住んでいた谷村繁雄は建設会社の社長であった。日本庭園の造園に趣味を持っていた彼は、かねがね後世に残るような文化的庭園を造りたいと思っていた。そこで彼は全国の名のある庭園を見て回った。」

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美術館 外壁 足元は床と境目なく一体化している。

「ことに有名な島根県安来市の「足立美術館」はその一つだった。眼前にひろがる閑雅な美しさの庭園を観て彼は感激し、創設者である足立全康に面会を求めた。そこで、この造園者が大阪芸術大学学長の中根金作教授だと教えられ、その足で中根教授の自宅を訪れた。」

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平面図(建築資料集成より)

「中根教授とは一面識もなかった彼だが「糸魚川に立派な庭園を造って下さい」と、熱心に頼み込んだ。彼の熱意にほだされた中根教授が、造り上げたのが「翡翠園(ひすいえん)」であり、その近くの「玉翠園(ぎょくすいえん)」である。」

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配置図
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断面図

「一方、彫刻家で文化勲章受賞者の澤田政廣(せいこう)は、若くして糸魚川に転住した相馬御風(ぎょふう)(早稲田大学の校歌「都の西北―――」を作った)と長年親しく交遊していたし加えて、数回も帝展に入選した彼の愛弟子石塚裕康(ゆうこう)が糸魚川在住であったためしばしばこの地を訪れる機会があった。」

(内部の撮影は通常できないのですが、建築文化普及という目的で申請を出して、許可をいただきました。転載は不可です。)

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展示室入り口(振り返ったところ)
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入り口に一番近い展示室は入ると最初に壁が見える。
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振り返ると仏像が。
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『金剛王菩薩』

「仏像コレクターでもあった谷村繁雄はある時澤田政廣に会い、木彫の仏像作成を依頼するとともに、それを収納する美術館を玉翠園に隣接する土地に作りたいことを告げた。」

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通路

「その頃静岡県熱海市には、澤田政廣の美術館設置計画があったのだが、それが進展しない状態であったこともあり、糸魚川に美術館を造ることに澤田も合意したのである。(現在では熱海市に熱海市立澤田政廣記念美術館がある)。」

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『曼珠沙華』 展示室入り口前にもトップライトが切られており、自然光が入り込む。
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同上

「さらに、仏像を収める美術館設計は、澤田の友人である村野藤吾(文化勲章受賞者)に依頼することになった。その時村野は、東京品川の「新高輪プリンスホテル」を手掛けている最中であったが、「手造りの建物として、それを最後の仕事としたい」と言いつつ、この依頼を引き受けた。」

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『天彦』(これだけがいわゆる仏像ではない)

「美術館建築現場で専念する村野の姿には鬼気迫るものがあり、建物が出来上がったとき「もう思い残すことはない」と彼は言ったという。」

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『光明仏身』格子天井から注ぎ込む自然光と間接照明による光が、幻想的な展示空間を実現している。

「こんなわけで、「谷村美術館」と名付けられたこの建物が、建築界の巨匠として第一線で長く活躍した天才建築家村野藤吾の最後の作品となったのである。」

OLYMPUS DIGITAL CAMERA間接照明は、自然採光と人工照明を組み合わせている。

「この庭園と美術館は糸魚川市の中心からやや離れた田園地帯にある。
冠木門をくぐって敷地の中に入り、敷石の上を歩くと左手に玉翠園の庭の一部が見えてくる。」

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『弥勒菩薩』

「正面にある和風平屋建て建物の中に入ると、横にひろがる何枚かの大きなガラス窓越しに、裏山を借景とする見事な庭園の全景が一望できる。」

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同上

「そこを過ぎて建物の裏へ出ると、細い木柱で支えられた瓦屋根を持つ長い回廊がある。長さ50メートルはあるその回廊の左手は、一面に白い小石が敷きつめられた中庭であり、そこには庭石もなければ植樹もない。」

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『聖観音』

「広々と平坦で簡素な庭園の先に、シルクロードの砂漠の中の遺跡を思わせる幻想的な建物が蜃気楼のように見える。この三次元の空間は他所では味わえぬ特別の雰囲気をわれわれに与えてくれる。」

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同上・展示室内部

「回廊を曲がって少し歩くと美術館の入り口がある。中に入ると、すべて曲線で構成された半円形の部屋が連なっている。部屋の白い壁面を背にし、彩色された仏像が軟らかな外光に包まれて一体ずつ立っている。採光は壁の僅かな隙間からで、午前と午後とでは光の入ってくる場所が異なる。」

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同上

「床面に照り映える軟らかな光と温和な仏像の表情とが混然として、幻想的な雰囲気を与えてくれる。」

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同上

「1~2メートルもある仏像を観ながら光明を浴びて部屋から部屋へと歩く。慈愛に満ちた仏像を仰ぎ見つづけていると、いつの間にか至福の時間が流れている。ガンダーラに行って石窟に安置された仏像と対面しているような気がしてくる。」

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通路部分

「何故か谷村繁雄は、この美術館を宣伝しなかったばかりか、金儲けの種にしようともしなかった。従って、世間にはほとんど知られていなかったので観に訪れる人は少なく建築関係の人達の見学のみが多かった。」

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採光用にとられた窓
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同上

「実は谷村繁雄は、私の親戚筋の人である。すでに亡くなって20年以上にもなるが、彼はつねづね「世のため人のために生きる」ということを言っていた。」

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内部巾木ディテール

「あるときテレビで日本の戦争孤児達が肉親を求めて中国から訪日する様子を見た彼は、「よくぞここまで育ててくれた」と、中国の養父母に対する感動の念で胸を一杯にした。」

OLYMPUS DIGITAL CAMERA展示室出口

「そして、日本人の一人としてこれら養父母たちに感謝の意を表したいと、昭和59年3月、北京に出向き、中日友好協会会長の孫平化(そんへいか)を訪ねて、日本庭園寄贈を申し入れた。その頃、中国は建国35周年の記念行事の一環として、北京市に記念公園を造る案があり、その公園の中にそれを造るのであれば、ということで彼の申し出を受け入れたのである。(翠石園)」

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出口付近から見える建物外観。これがもうひとつの仏像に見えるという。

「谷村は自費で庭石や木材を日本から船で運び、本格的な日本庭園を北京市北太平庄公園内に造った。完成したのは昭和59年9月であった。その後、中国政府は、谷村の日本庭園のお返しとして、四十数人もの中国人技術者を三ヶ月間も新潟に送り込み、新潟市郊外に「天寿園」という日中一体の立派な庭園を造った。昭和63年秋のことである。」

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館を出て、振り返る。

「その時、谷村はすでに亡くなっていたが、われわれ夫婦もこの開園式典に招待され出席した。日中友好協会副会長、中国大使、桜内外務大臣も出席するという盛大な式典で、賑やかな親善パーテイーも行われた。谷村の行った北京の庭園建設は私欲のない心温まる民間外交であった。」

 

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館内に掲示された澤田と村野の年表

「一般にどこの国の美術館、博物館でも、展示室の棚や壁にいろいろな美術品、絵画などが置かれたり壁に掛けられたりしており、人々がそれらを鑑賞して廻るだけだ。だが、簡素な雰囲気の空間と作品とが一体となっている谷村美術館では、木彫一つ一つと対峙しながらしばし、そこに身を置くことで、心も癒されるのである。心までいつにない安らぎを与えてくれた地方の小都市の美術館と庭園を見終わり、木彫と建物のハーモニーに改めて感嘆しつつ「庭という文化」を通じて「芸術」を探求するというユニークにして贅沢な道楽と趣味に生きた谷村繁雄を想い、感慨に耽ったのである。」(『谷村美術館と谷村繁雄』終)

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資料室に置かれた「スタディ模型A」
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「スタディ模型B」
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「スタディ模型C」
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これは村野藤吾が自分で手づくりでつくった模型だという。

直感的に、ひらめきで今の美術館の形が出てきたのかと思ったら、こんなにさまざまな案を検討されていたとは。知りませんでした。

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それぞれの展示室の部分模型(1:20~30程度のスケールか?)
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村野藤吾先生 直筆指示図面

92歳にして衰えぬ、建築への情熱、あくなき探求心には脱帽します。見習いたいものです。

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近く(車で数分)にある「翡翠園」(1978年)  糸魚川市が世界的にも珍しい翡翠の産地であることにちなんで、玉翠園(1981年)より先につくられた。

 

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翡翠園は回遊式庭園である。
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丘の上から見る
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翡翠園の「八ツ橋」
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地下に設置された「ひすい美術館」
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70トンのコバルト翡翠。パワーストーンだという。

日本の地方にも、谷村繁雄さんのような篤志家がいて、素晴らしい私立美術館や庭園をつくっていたのですね。

まだまだ、訪れていない素晴らしい建築がたくさんあるようです。これからも探して歩こうと思います。